逃避

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逃避

 足元がぐらつき、慌てて腕をバタつかせる。手のひらに伝わる感触から、叩く度バシャバシャと音を立てるこれが、水だと分かった。私は水中にいるのだ。気が付くと、膝立ちで足元は安定していた。ゆらゆらと揺れる光が手の甲で踊る。息が苦しい。散らばる気泡を見上げ、そこに向かうように立ち上がった。 眩い光が視界いっぱいに広がり、思わず目蓋を閉じた。一瞬の暗転の後、再び開いた目に飛び込んできたのは、水着やアロハシャツを身につける人々が横切って行く光景だった。濡れた髪から水が滴り落ちる。呼吸が少し荒い。 ──ここは……? 頭がぼーっとする。視線を下ろすと、自分も周りと同じように水着を着ていたことに気が付く。全身が濡れている事から、先ほど水の中に沈んでいたのは確かなはず。だが実際に自分が浸かっているプールは、へその辺りまでの深さしかなかった。こんなに浅ければ溺れようもない。何もかもが分からなかった。薄ぼんやりした頭のまま、子供用と思われるプールから出て、そばに置かれたバスローブを自分の物であるかように羽織った。予定をなぞるように、身体が勝手に動く。 太陽で熱せられた床に、着いた足の裏がチクチクする。そこから辺りを見渡してようやく、置かれている状況が分かってきた。潮の香り、海に囲まれたここは船の上だ。私は船に乗っている。それも豪華絢爛な大型客船。 呆然としたものの、不思議と受け入れている自分がいる。なぜ、とは考えない。いや、考えられないのだ。頭が思うように働かない。もう少し状況を把握しようと、おもむろに船内を歩き出した。強めの日差しと明るい雰囲気、デッキチェアにパラソルといった景色は、南国を想起させる。テーブルに置かれたグラスには青色や橙色の液体が注がれ、その隣にはフルーツの盛り合わせが並んでいる。私は船内を歩きながらワクワクし始めていた。明らかに能天気。だがそれさえも受け入れてしまう。 そんな浮かれた気分を吹き飛ばすかのように、突然大きな衝撃に襲われた。それと共に鈍い音が船内に響く。何かにぶつかったのだろうか。騒然とする乗客。耳障りな金属音が至る所から聞こえてくる。そこに緊急事態を伝える船内アナウンスが流れた。船が沈み出したのだ。 パニックになる人々の中、なぜか冷静な自分がいた。近くにいたアロハシャツの男が恐怖した表情で、私に絶望を訴えかけてくる。だがその声は、壁越しに話し掛けられているかのように、音がぼやけてよく聴き取れない。微かに耳鳴りがする。その時一瞬、私の身体が意識の紐から独立したように感じた。 「大丈夫、まかせて」 ──何を言ってるの……私は 口から出てきた言葉に動揺した。身体からうっすらと体温が抜けていき不快感が過る。困惑する私を置いて、次の瞬間には自分は空を飛んでいた。心臓が高鳴り、身体が強張る。空を飛んでいる。理解が追いつかない。それでも、私の意思とは無関係に動くこの身体は、大きく旋回しながらぐんぐんと上昇していった。風が顔に当たり呼吸がしにくい。空を舞う鳥を見上げて想像するような爽快感は、微塵も感じなかった。ある程度の高度に達した所でようやく静止してくれた。太陽の熱のおかげだろうか、体温が戻っていくのを感じる。それとともに、身体も私のものに戻ってきた。乱れた呼吸を整えながら、ふと見下ろした先には沈み始めている豪華客船があった。悲鳴と叫び声が大海に飲み込まれていく。ドクドクと鼓動が耳の奥に響く。何とか、出来るのかもしれない。今の私なら、助けられるかもしれない。 船に向けて手をかざす。"なぜこんな事が"、"どうやって"は考えない。それを考えてしまえば途端に分からなくなり、何も出来なくなってしまう気がするから。だから何も考えないように、高揚と万能感にただ身体を預けて、私は船を浮かび上がらせた。疑わず、当たり前のように。スーパーマンとかヒーローになりきる。そこから、遠くに見える陸地の影に向かって、船を連れて真っ直ぐ飛んだ。助けたい、その一心で。余計な事を考えないように、真っ直ぐと。 陸地に着いた頃には、激しい運動をした時のような汗をかいていた。乗客の安堵と歓喜に満ちた表情を見て、ホッと地面に降り立つ。沢山の人から感謝され握手を求められる。私はそれに笑顔で応えていく。 あぁ、幸せだ。心の底から温かくなる。満たされていく。 心地よい幸福に包まれたまま、再び意識が遠退くのを感じる。身体から、その世界から引き剥がされていく。水中に沈んだ身体がゆっくりと浮上していくようだ。 そして唐突に、私は理解してしまった。 ──……駄目。嫌だ……まだ嫌。待って、お願い待って 浮上する力に抗うように、必死に足を動かし、底へ向かって手を伸ばす。だがどんなに伸ばしても届かない。むしろ、理解してしまった事で浮上が加速している。徐々に明るくなっていく。どうしようもなく見上げると、水面がもう近くに迫っていた。 ──お願い……もう嫌だ。もう少しだけ、あと5分だけでいいから……夢の中に居させて  目蓋の裏がほんのりと明るい。その明かりを拒むようにぎゅっと目を瞑ると、涙が滑り落ちるのを肌で感じた。ふるふると目蓋を開ける。 朝だ。 寝返りをうち仰向けになると、しばらく薄明るい天井をぼーっと見つめた。頭にかかったモヤが晴れてきたところで、大きく一呼吸した後、身体を起こす。何か、夢を見ていた気がする。握手と海と……あとは何だったかな。思い出そうとすればするほど、記憶から抜け落ちていく。涙がこぼれたのは、哀しかったからか、それとも幸せな夢でも見ていたのだろうか。自然と宙を見つめてしまう。まぁ、どうでもいいか。夢から醒めてしまったのだから。小さく溜息をついて、乾いた涙の跡を拭った。 枕元に目をやると、そこに置かれたスマホはまだ大人しく、設定した時間を待機している状態だった。目覚ましアラームの前に起きたのか。起きたくなんて、なかったのに。寝ぼけ眼のままロックを解除した。届いている通知は無視してアラームの設定を切る。少し早く起きたからといって、特別な事をするわけでもない。いつも通りのルーティンが始まるだけだ。ベッドから立ち上がりカーテンを開けた。澄んだ青空に苛立つ。 "明日がある"、"明日になれば"、"明日はきっと"。私はそんなフレーズが嫌いだ。やって来るのは同じ明日で、希望のない明日がどうしようもなくまた訪れるだけだ。終わらせ方は知っている。いくらでも。だがそんな勇気も無ければ、終わらせたいと思っているわけでもない。私はただ、逃げたいのだ。此処ではない、どこか遠くへ。何処へも逃げられないのならせめて、夢の中へ。
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