私は今日も小麦粉で手をまぶす

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 私がしーちゃんの住むアパートの部屋の前まで行って、まず聞こえたのは男の怒号だった。  血の気が引いた。本当にこの部屋であっているか、部屋番号を何度も確かめてから、一つ大きく息を吸って、インターフォンに指を添える。  しかし、インターフォンは鳴らなかった。どうも壊れているらくて、慌てて扉をノックする。  扉を叩く度大きくなる怒号で、自分のノックの音すら吸い込まれて消えていく。扉の奥から聞き覚えのある泣き声が聞こえてきて、ドアノブを回すのももどかしく私はその扉を引き開けた。その時は動揺していて意識がいかなかったが、今思えば扉が開けっ放しだったことは本当に幸いだった。  扉を開けた途端、むせ返るようなお酒の臭いがした。  その時目に映った光景は、多分一生忘れられない。  あちらこちらに転がった酒瓶や、空になったコンビニ弁当。足の踏み場もないゴミだらけの部屋の中央で酒瓶を掲げている赤ら顔の男と、倒れて泣いている痣だらけのしーちゃん。閉められたカーテンで光も差さない、暗い部屋。  あまりに私の知っている世界からはかけ離れた、遠すぎる現実だった。手の届く距離にいたはずなのに現実味のない、理解とは程遠いしーちゃんの世界。それは、残酷なほどに悲しくなるほどに本当だった。  しーちゃんは泣いていた。怯えた色に染まったしーちゃんが目を見開いてこちらに目を向けるのと同時に、男も私の方を振り向く。  私をその時支配していたのは、しーちゃんが死んじゃうかもしれない恐怖だけだった。  気が付けば私は血だらけなしーちゃんを庇うように抱き締めていた。通報するべきだとか、しーちゃんと逃げるべきだとか、そこまで頭が回らなかった。ともかく必死だった。  それからのことは、よく覚えていない。ただ私の腕の中でしーちゃんがずっと震えていたのは、よく覚えている。
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