私は今日も小麦粉で手をまぶす

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 目が覚めたら、病院にいた。  聞けば、あの後山本先生が心配して通報してくれて、警察沙汰になったんだそうだ。  私は泥酔して錯乱していたしーちゃんのお父さんに酒瓶で殴られたらしく、頭を四針縫った。当時から付き合っていた彼氏のショウくんには、こっちが申し訳なくなるほど心配された。でも、しーちゃんには今までこうやって心配してくれる人はいなかったんだろうかと思うと涙が出た。  病室で泣きそうな顔をしていた山本先生が言うには、こういうことは前にも一度あったらしい。  今考えると、山本先生も本当はどうすればいいのか分からなかったのだと思う。山本先生は何もできなかったことを悔やんでいたが、私はそういう風には思わない。私は私がしたことが正しかったとは言えないから。  数日後、同じ病院に入院していたしーちゃんの方から私に会いに来てくれた。  しーちゃんは最初何か言いたげにただ身体を揺すっていたが、促すと自分も包帯だらけなのに私の心配をしてくれた。 「せんせー、ケガ大丈夫……?」  不安げな小さな声で、しーちゃんは初めて私のことを「せんせー」と呼んだ。 「うん……。──お母さんはもう、大丈夫だよ。しーちゃんが、無事でよかった……。ほんとに、良かった……」  私は気付けばそう言ってしーちゃんを抱き締めていた。 「おかぁ……」  そこまで言ったしーちゃんが、言葉を詰まらせた。何か言おうと、口を開いたしーちゃんを、さらに強く抱きとめる。しーちゃんの口から、言葉の代わりに嗚咽が漏れるのが耳元で聞こえた。  その日しーちゃんは、私の肩でいつまでも泣いていた。  私のその日したことは間違いだったかもしれない。  ずっと傍にいられるわけじゃないのに、お母さんなんていうのはきっと、酷いことだ。それでも、私はその時のしーちゃんが縋れるものであったなら嬉しいと思ってしまう。  これは後から知ったことだが、私としーちゃんのお母さんは全然似ていなかった。  まず、しーちゃんのお母さんはしーちゃんが生まれたばかりで亡くなってしまっていて、しーちゃんがお母さんのことを知っている訳がないのだ。  しーちゃんはお父さんのことを悪いようには決して言わなかった。  しーちゃんとお父さんの間の絆はどんなものだったのか、お父さんはしーちゃんのことを果たして愛していたのか、そういうことを私は知らない。  結局私は何も分かっていなかった。そうしてずっと、理解できないままだろう。でも、分かりたいとは思う。  私と出会った頃のしーちゃんは、無意識に助けを求めていたのかもしれない。私は今では、どうしてしーちゃんが私をお母さんと呼んだのか、ほんの少し分かるような気がする。  手が白くもない私に、しーちゃんは不用心に扉を開けたフリをした。待つのは疲れてしまったから、探すにはあまりに遠すぎたから、しーちゃんは見知らぬ私に扉を開けれたんだと思う。  私はだから手が黒いまま家に入れてもらえた部外者で、でも、オオカミのように彼女をとって食ってしまわなかった存在なのだと信じたい。
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