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十二話 過去を振り返って
それからふたりで、しばらく背を向け合ったまま朝を迎えることとなりました。
そろそろ迎えの舟が来るころになって、お千代は荷物の上に置いておいた着物を取って帰りの身支度をはじめます。
そしてちゃんとした身なりに整えると、床で座っている寅吉と向かい合わせに座ります。
「昨晩は良い夢をみせていただきましてありがとうございました。またお会いしたく思います。旦那さんもお元気で――」
お千代がそう言って頭を下げようとしましたが、
「そういう社交辞令はいい。だいたいお前は悪夢にうなされてただろうが」
「…いや、お別れのあいさつはきちんとしなさいと楼主さんからキツく言われてますので……」
と寅吉からの毒舌と冷静なつっこみに、お千代があたふたして素で返答しました。
「あと、旦那さんと呼ぶな。寅吉でいい」
「え、でもそれだと――」
「俺がいいと言ったらいいんだ!」
「は、はい!」
顔をそむけて寅吉がぶっきらぼうにそう言い放つと、お千代もつられて返事をしてしまいます。
すこし気まずくはあるが、彼は過去に色々とありすぎて素直になれないのだろうとお千代は思い、今度は笑顔でこういいました。
「それじゃあ寅吉さん、またこの港に来てくださいね」
「…ん、じゃあお前も元気でな」
「お前じゃなくて、お千代ですよ。寅吉さん」
「あ、ああ。…そうだな。んんっ、お千代またな」
「はい、また」
そういい合って、最後はお互い気分よくお別れすることができました。
沖の船からの帰りは、吉屋の舟押しが別の舟でふたりの遊女を迎えに来ており、萩屋の舟はいつもの四人だけを乗せて弁蔵が港へと舟を漕いでいきます。
舟の中で波に揺られながら昨日の宴のこと、そして今日の朝方のことをお千代はぼんやりとしながら考えていました。
(堅物で毒舌で説教が好きな男だけど、お互いに過去のことを話したり、励ましてくれたり、照れくさそうに名前を呼んでくれたり、…なんだかんだ言って、いい人だったなぁ)
寅吉のことを思い出してお千代はニヤニヤと笑っていました。
その不気味な光景に松野はハラハラしています。
「昨日の宴でイキってた若い男の相手をさせたから、お千代が壊れてしまったのかも……」
「落ち着いて松野姐さん、あんな口だけのお子さまと寝ただけで、頭がおかしくなるワケないですわ」
「アンタね、ガキだから平気でヒドイことができるんだよ」
「松野姐。うちの旦那の話だと酒に酔って寝たら朝まで起きないって言ってたからさ、たぶん何もなかったと思うよ」
「……それならいいけど」
姐遊女たちの心配をよそに、お千代は夢うつつなまま身じろぎもせずにいました。
(私、味方のいない鬼だけがいる里を出ていくことしか考えてなかったなぁ…)
お千代はちょうど村で子供を買いつけに来ていた女衒〔人身売買の仲介を生業にしている人〕と会って、自分で自分を売ったのでした。
年齢や容姿などで売値が低いと女衒の人も首を縦に振りませんでしたが、どんな仕事でもかまわないと何度も何度も頭をさげて、やっとこの島まで逃げてくることができました。
港町の住人たちは遊女であってもみんな親切で優しく、里に比べて平和な日々を過ごしていたせいか『もうこのままでいいや』と考えるようになり、今が楽しければそれでいいと未来のことを思い浮かべることもなく生きてきました。
(もっと先のことを考えないと楽しいことは続かないんだ。私だって若いままでいることはできないし、遊女の仕事だって病気にでもなったらお金も稼げなくなる……)
――借金がかさんでいくだけ。
自分を売ったとはいえ、受け取ったのは三両。
ここへ来て支度金で九両は消えてしまった…。
(ここで生活するのもお金がかかったし、着物に化粧品などの日用品、沖の遊女として働くための講習をお金を払ってやり手さんから指導を受けて、――三両なんて、本当にあっという間になくなったよ……)
そして今は六両の借金が残っている。
(それでも岡の遊女よりは、支度金も芸なんかの習い事の費用も掛からないから安いらしい。――遊女の世界は怖いなぁ…)
とにかく里から出たかった私には、遊女以外の選択肢などありませんでした。
奉公に出るためには身元保証人が必要なので無理、そして親もなく、いるのは鬼たちだけ。
嫁にと言われていた男性もいましたが、…今ではすっかり遠い昔の思い出。
そして鬼たちから搾取される日々より、お千代は自分を売る道を選んだのでした。
(そういえば寅吉さん『ずるがしこい遊女ほど素晴らしいものはない』って言ってたなぁ…。やっぱりあの鬼たちのような女を男の人は好むんだろうね)
男の前ではか弱く儚さを演出して媚びまくり、女の人には聞き上手な会話をし、私に対しては悪鬼羅刹のような態度。
お千代は今度は神妙な顔をして、ほうっとため息をつきました。
(あの鬼のようなことができるのかな?私が??)
――私、あんなに器量はよくない。
思わず鬼の顔を思い出したお千代は、それを振り払うかのように首をふっりました。
(…思い出すだけで動悸が止まらなくなる。やめやめ、この話はもうおしまい!)
お千代がすこし放心状態におちいっているのをみて、松野がまた騒ぎだしました。
「ちょっとあの娘、やっぱりおかしいわ」
「かなり重症なようですわね」
「そっかぁ。まだ若いんだから色々と思うことがあるだけだろ?」
「……若い」
「だめよ、高尾。松野姐さんの方も重症になったじゃない」
「松野姐、あんただってまだ十分若いだろ?十代ほどじゃないけどさぁ」
「あなた、よけいに松野姐さんを傷つけてるじゃないの…」
などと姐遊女たちにまでほの暗くなりそうな空気を伝播させつつ、舟はゆるゆると岸へと向かっていきました―――。
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