五話 沈む心と浮かぶ心

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五話 沈む心と浮かぶ心

「……そろそろおなごやに帰らなくっちゃ」 お千代はふらりと立ちあがり、よろよろとした足取りで歩きだしました。 (この港町へ来て、私は楽しく暮らせていると思っていたのに…) 神社で水主の人たちの願掛けをしたときに、ふいに亡き父のことを思い出して、お千代の心の傷口が開き、とめどなく悲しさが流れだしたのでした。 そのせいで海に落ちかけるという失態をしてしまったのです。 ――海に落ちることで死ぬかもしれないという恐怖は感じず、(むし)ろそれを素直に受け入れようとした自分もしました。 (お父さん、どうして死んでしまったの……) 父のことを思うたびに目から涙であふれ止まりません。 しかしお千代は自分を頬を両手でパシパシ叩いて叫びました。 「やっと鬼たちの元から逃げることができたんだ。やっと自由になったんだ。こんなところで死んでたまるか!」 お千代は自分自身を叱咤(しった)すると、『よし!』と心で気合を入れて手に力を込めました。 そして 「今日もお仕事頑張らないと!」 と涙をふりきって、お千代はいつものような笑顔を作りおなごやまで走るのでした。 おなごやにつくと姐さんたちは湯屋(ゆや)へ行く支度をしていました。 「お千代、遅い!フラフラするのもいいけど、早めにもどってきなさい」 「松野姐さんオカンみたい」 「湯屋は日が落ちるより前に閉まりますから、早く行ってゆっくり湯に浸かってお肌を磨きませんとね」 「ごめんなさい。すぐに追いつくからみんな先に行っててー」 そう言ってお千代がおたおたと支度をしていると、乾物屋のおばちゃんからいただいた巾着が懐から転がり落ちてきました。 「あ、忘れてた。時間がないから茶箪笥(ちゃだんす)に置いておこう」 巾着を茶箪笥のお茶請け入れに放り込むと、桶の中にぬか袋や手ぬぐいやら押しこんで、お千代は湯屋まで全力で走って行きました。 湯屋について、ぜーぜー言いながら番台のおばあちゃんにお金を手渡し、板間でおもむろに着物を脱ぎ捨てると、空きかごにそれを突っ込んで洗い場に走り込みました。 今日はこの時間に湯に入るお客が少ないようです。 「洗い場では走らないの、濡れてるからころぶわよ」 ぬか袋を手にからだを洗っていた松野に真っ先に注意されました。 「大丈夫ですよ。私はそう簡単にはころびませんからー」 といいつつお千代はツルッところぶ。 「イッターッ」 しりもちをついたお千代に松野が、『それみたことか』という様相であきれていました。 湯船のほうからも高尾と志乃の声が聞こえてきます。 「お千代~、またころんだの?」 「お千代、やんちゃもほどほどにね」 石榴口(ざくろぐち)〔湯船の入り口の上にある仕切りのこと〕の高さで姿は見えないのですが、こちらの声と音が耳に入ったようです。 お千代ははずかしさで顔を赤くしながら、自分のからだを洗うのでした。 湯屋から帰りましたら今度は髪を整えたり、接客用の上等な着物に着替えます。 遊女茶屋には専属の髪結師がいますが、ここの下級遊女たちは仲間に髪を結ってもらいます。 ここぞというときは髪結師のところへ行きますが、毎日かよえるほどお金がありません。 髪結のお金はそんなに高くはありませんが、ちりも積もれば…、ということです。 「わたし、年季が明けたら髪結師にでもなろうかしら…」 志乃は髪を結うのが得意で、いつもみんなの髪を整えてくれます。 そして自分で考えたという髪型で、志乃は多くの旦那さんを魅了しているのです。 「志乃がいなくなったらだれがウチの髪を結うのさ~」 「自分で結いなさいよ」 こういう高尾と志乃のおしゃべりは、聞いていてとても楽しいです。 (でも、本当に志乃姐さんがいなくなったら私、自分で髪を結わないとダメなのかな?) などと考えると、お千代は器用な妹分が来てくれないかな~、なんて思いました。 髪が整いましたら、つぎに仕事用の着物を身につけます。 岡の遊女のようなあでやかな着物とまではいきませんが、旦那さんたちの目を引くように上等な着物を着て行くのです。 仕事上、一張羅(いっちょうら)ではいけません。 そして上等な着物の代金は、すべて遊女の自腹なのです。 お金がないときは、楼主から借りても買わなくてはいけませんでした。 (だから借金があまり減らないのです……) 遊女は体だけじゃなく、男に夢を与えるものだと楼主はいいます。 日暮れ前に港へ行くと、ほかの茶屋の遊女さんたちも舟に乗るために集まってきました。 出発時間まで、ここで商売をしている屋台のおじさんからうどんを買って食べたりしています。 沖の方では、昼間と同様に沖の船を相手に商売をする商船があちこちに見えました。 今日もお千代が岸でうどん食べてると、桟橋(さんばし)で松野を含む沖の遊女さんたちが話し合いをしています。 「美作屋の船は旦那さんはうちらの馴染みですので、お先にいかさせていただきます」 「相模丸の船頭さんは、うちのお得意様の船宿に泊まられるそうで、沖の水主(かこ)の相手もわたくしどもにと言付かっております」 などなど、それぞれの茶屋同士で談合話をするのです。 よその馴染みの客を取ることは、この港の遊女界ではご法度。 そしてお得意様つながりも大事にしなくてはいけません。 そのため、あらかじめ馴染み客がいる船へ行く権利を話し合いで決めておくのです。 馴染み客のいない、船宿つながりのない船に関しては、みんな決まった順番を待って営業をしに行きます。 お千代は松野たちが話あっているうちに、うどんを食べ終わると弁蔵の待つ舟へと桟橋を渡りました。 「うちらは七番目くらいかね?」 遊女たちの話し合いが終わり松野が舟へとやってくると、高尾が舟の中から顔をだしていいました。 しかし松野が首をよこに振ります。 「今日はよその茶屋の馴染みの船が多くてね、あたしらんとこは最後だと」 「最後!うわっ、最悪じゃねぇか~」 「これから冷えますのに、今すぐにでも旦那さまの船が来ないかしら…」 姐たちが悲壮感(ひそうかん)を漂わせているところへ、お千代が乾物屋の女将からいただいた巾着を振ります。 「姐さんたちこれでも食べながら、舟の中で待ちましょうよ」 食べ物があるとみんな現金なもので、いそいそと舟の中へ入って思い思いに座ると、巾着から小魚の煮干しをいただきます。 そのあと他愛のないおしゃべりをしつつ順番を待っていますと、舟押しの弁蔵が舟の中へ向けて一言いいました。 「舟をだすぞ」
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