六話 自分を売る交渉

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六話 自分を売る交渉

辺りはすでに夕闇が広がり、波止場を抜けるとやや波が荒れていました。 松野が舟の中から這い出てきて、舟のうしろで櫓を漕ぐ弁蔵にいいます。 「弁蔵、明日の朝は来れそうかい?」 「朝には波の荒れはおさまる」 「それはよかった…けど、今夜中は船の揺れが面倒だねぇ」 「客人の前で吐くなよ」 「吐かないよ!こちとらこれで何年おまんま食ってると思ってんのかい」 などとふたりが話しこんでいるさなか、舟の中では早くもお千代の顔色が悪くなっていました。 「こんなに波が揺れてるのはじめて、…すぎて気持ち悪い」 「そんなんで客がとれると思ってんのか?ちょっと外でて吐いてこいよ。すっきりするぞ」 「それがいいわお千代。無理せずにみんな出してきなさい」 「……そうしますぅ」 お千代は松野よこをすり抜けて外へでて、舟の端につかまると海にむかって胃から逆流するものをオエオエとだします。 (――屋台のおじさん、乾物屋のおばちゃんごめんなさい。山里育ちの私には、この荒れた波はきついです……) 心の中でそうつぶやきながら、お千代は吐き続けました。 「お千代、アンタ大丈夫かい?」 そういって松野が背中をさすります。 それにひきかえ弁蔵は無表情な顔でいいました。 「これで口をゆすいどけ」 「…はい」 腰にたずさえていた水筒を渡されると、これ以上お化粧が落ちないようにしてうがいをします。 (こういうときだけは岡の遊女みたいにお茶屋で仕事したい―――) お千代はげっそりした顔でそう思いました。 しばらくして沖の船にたどり着くと、先に出航していたよその茶屋の舟がまだ残っていて、そこの舟押しが弁蔵にいいました。 「こっちは先に入らせてもらったよ。あと客は四人だから、あんたんとこで丁度(しま)いだ」 「わかった」 そう伝えると、舟はこちらの舟を大きく迂回(うかい)して港までもどっていきます。 弁蔵は先ほどの舟が居た場所へまっすぐに舟を進めると、船へ横づけして大きな声でいいました。 「港町の萩屋の者だ。女を連れてきた、渡し板をおろしてくれ」 すると水主(かこ)が船の奥からあらわれて、こちらの舟へ渡し板をおろしてくれました。 「船頭はまだ島にあがらないのか?」 「へえ、明日あがります」 「船宿をつた屋にするよう船頭に伝えといてくれ。水主も風呂とうまいメシにありつけるぞ」 「ほうほう、それはありがたいことで…。ささっ、どうぞおなごさんらを入れとくれ」 「うむ。おい、お前ら。船に移れ」 話が終わると弁蔵は、舟の中にいる遊女たちを船に渡らせるのだった。 波の高さで船と舟をむすぶ渡し板が大きく揺れる。 遊女がわたるたびに水主たちが手をのばして引き上げていきました。 四人全員が渡り終えると、船の奥にゆき、水主たちとの商談が始まります。 この場には船頭や三役〔表司(おもてし)親仁(おやじ)知工(ちく)〕の姿はなく、下っ端の水主だけがいました。 お千代たちは水主に対面する形で並んで座ります。 「上のもんはこの荒れでおんなを抱く気はないそうだ。おれたちだけで悪いな」 「いえいえ、あたしらは旦那さんを選びません。お足さえ頂ければね♡」 そういって松野は男たちに媚びるような笑みを浮かべた。 「はっはっは。姐さん、いいねぇ。…であんたはいくらだい?」 「あたしかい?あたしゃ二朱銀一枚だけど、初めてのご縁ってことで一朱銀一枚と二百文に負けとくよ」 「よし、買った!」 「ほかの旦那さんもいないようだし、お代は舟押しに払っておいとくれ」 「おお、わかった」 男はそういうと渡し板の方へ足早にいってしまいました。 早々と商談を済ませた松野は、ほかの遊女より奥の方へと座りなおした。 つぎに高尾がすこし前にでて、威勢よく水主たちに向けて話し出した。 「うちはもち肌で抱き心地がいいと評判だよ。うそかどうかは今夜ためしてみるといいさ。お代はたったの一朱銀一枚と百文!さぁ、うちを買ってみないかい」 まるで露店の商人のように、高尾は自分を商品として客たちに売り込む。 そしてふたりの男が名乗りをあげた。 「ははは。…いいねぇ、男はそうでなくっちゃ。それじゃあ一朱銀一枚と百文から旦那さんらがそれぞれ値段を釣り上げていって、一番高い値をあげた客が今夜のうちの旦那だよ!」 高尾が笑いながら自分を売る競りをはじめ、一朱銀一枚と百八十七文でケリがついたのでした。 そして志乃の番になったが、彼女はふうっとやぼったい息を吐いてこう言った。 「わたくしの価値は二朱銀一枚百文。ですが、床のなかでは二分金〔二分金二枚で一両になる〕相当の快楽を差し上げますわよ」 その言葉だけでひとりの男が金の入った巾着を手にもって、弁蔵のところまで全力で走って行きました。 「またひとり、わたしの(とりこ)にしてしまいましたわね……」 その光景に志乃は懐から扇子を取りだして、物憂(ものう)げな顔をするのでした。 高尾と志乃も今夜の旦那が決まり、残すところお千代だけになります。 「私はまだ不慣れなので二百文でよろしいですか?」 船酔いで顔の青いお千代が、おそるおそる最後の水主のオジサンにそういうと、 「わっかいおなごが、そんなに安ぅてどうすんじゃ!わいが二朱銀一枚くらい払ろうたるわ!!」 オジサンは自分のももをパシッと平手打ちして、さっそう弁蔵の元へ金の支払いにいきました。 ほかの水主たちは金を払ったあと、おのおのの床を片付けに行ったようで、その場には遊女しかいません。 松野はお千代の背中を叩いて笑いました。 「ようやく男を手玉にとるやり取りが出来るようになったねぇ。お千代、つぎもこの調子で上手くやりなよ」 「その船に酔って儚げに見える顔もまた、男心をくすぐるんだろうなぁ。…お千代も大した役者だよ」 「男の歳や態度をみただけで、きっぷのよさが見分けられるようになったら本物の沖の遊女ですわよ」 「姐さんたちありがとう。でもこれってカケだよねぇ。今日は運がよかっただけだよ、たぶん……」 「何言ってんだよ、運も実力の内。金の駆け引きは、あたしら沖の遊女の腕のみせどころだよ」 などと遊女たちはヒソヒソと、客との商談の心得などの話で盛り上がっていました。 それから各自がそれぞれの旦那の床へと案内され、お千代はあらためて今夜の旦那にあいさつをします。 「ふつつか者ですが、こよいは存分に私を可愛がってくださいませ」 お千代が三つ指をついておじぎしますと、水主のオジサンは自分の横に来いといわんばかりに彼女の腕をつかんで自分の元へと引き寄せました。 「まじかで見ると、さらにかわいいのぉ。今夜はわいがええことを色々と仕込んだるけぇ、ちゃーんとおぼえるんやで」 「はい、よろしくお願いします。旦那さん」 そしてオジサンの腕のなかにとらわれたお千代は、そっと瞳をとじるのだった……。 こうして沖の遊女の一日は終わる―――――。
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