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七話 船宿と馴染みの船
船宿の主人の朝は早い。
宿の一階から海をじっと眺める。
三崎島と端島の間には、常に十数隻かの船が停泊しています。
その周りには島からの商売船が、ちょろちょろと動き回っているのでした。
船宿の主人にとっては、それが日常の風景です。
それからお天道さまが真上に来たくらいに、沖から新しい船がやってきました。
目を凝らして船の旗じるしを見極めると、周りに伝えるように言います
「お、ありゃ直江屋の船が来たのぉ」
主人は沖の方から馴染みの船が見えたら、まず奉公人にお風呂を沸かすように指示をだします。
そして主人自らが手漕ぎ舟で沖まで行って、馴染みの船に向けてこうあいさつをするのでした。
「風呂が沸いとるけぇ、おいでくだされ」
すると船の方からも声をかけてきた。
「おお、つた屋か。世話になるぞ」
「へえへえ。今夜も華やかな宴をご用意しときます」
「そうか、そのときにはいつものおなごたちを呼んどくれ」
「承知しました」
話が終わりますと、つた屋の主人は港にむけて再び舟を漕ぎはじめました。
船宿にもどると主人は奉公人や料理人に指示をだし、茶湯の準備や宴会の手配、提携している遊女茶屋に連絡をして水主たちの馴染みの遊女を呼び寄せます。
連絡を受けた萩屋の楼主は、はじめに湯に入る水主の体を洗う湯女の代わりの遊女を選別をします。
このときは馴染みの遊女ではなく、昼見世で客のついてない下っ端の遊女数人を送りだすのです。
「今日が初めての船乗りもいるだろうから、顔見せして来なさい」
本命の遊女たちは夕方から行われるであろう宴会がはじまる前につた屋へ向かわせます。
つた屋は茶湯を出して船乗りたちの航海を主人がねぎらい、そして風呂へと案内して、夕方から宴会を行うのが定番の流れでした。
船乗りたちは最初に、下級の水主を数名沖に残して島へ上陸します。
それから船宿で休憩し、茶をよばれ、風呂に入って湯女に体を洗ってもらい、さっぱりきれいな体になってから、馴染みの遊女をよこ侍らせ宴会をはじめます。
また先に風呂に入った下級の水主は、沖の者たちと交代するためにすぐに沖にもどります。
身分の低い下級の水主は宴会に参加することはありませんでした。
最後に沖から風呂に入るためにやってきたのはふたり。
日に焼けた筋骨隆々の男と、いかにも『新人です』といわんばかりの体格が整っていない青年。
洗い場で湯女代わりの四人の遊女たちが湯かたびら姿でお出迎えしてきました。
「やっと風呂の順番が回ってきたなぁ。寅吉、今夜のためにビシッと下のもん磨いとけよ。がっはっは」
「…与作さん何なんですか。沖に戻ればいつも通り男しかいないでしょう。この港では身分の低い者は遊女茶屋でも相手にされないんじゃなかったんですか?」
「ここにはここの楽しみ方があんだよ。おう、嬢ちゃんたち。おれの体を洗ってくんな」
与作がそういうと、遊女のふたりがささっと傍によってきました。
そしてすかさず風呂椅子を用意します。
「あい、旦那さま」
「どうぞお掛けになってくんなまし」
どっかりと与作が椅子に腰かけると、遊女たちは優しく丁寧に体を洗っていきます。
残されたふたりの遊女のうち、ひとりは最近くら替えしたばかりの遊女、初音がおりました。
初音は小声でもうひとりの客人である寅吉に声をかけました。
「……だ、旦那さま。お、お体を洗わせてくんなまし…」
「いや、結構。遊女の手は借りん」
寅吉からけんもほろろに拒否されて、初音ともうひとりの遊女はどうしていいか分からず立ちつくしています。
「よしよし、可哀想に。ふたりともこっちへこいや。…寅吉、ここの嬢ちゃんたちは茶屋の遊女だぞ。今のお前じゃ揚げることもできない上玉ばかりなのになぁ……」
「ほっといてくださいよ。俺は商売女は好かんだけです」
それだけいうと寅吉はひとりで体を洗いはじめます。
与作はそんな寅吉の態度をみて、はあっと長いため息をつきました。
「…ほんと、名前は”寅吉”なのに、中身は”猫吉”なんだよなぁ。堅物なくせにニャーニャーとうるさく鳴くこって」
そして四人の遊女に囲まれて、体を洗われながら与作はそうぼやきました。
与作と寅吉は風呂から上がると、船宿の者から一杯の白湯をもらい、一息つくと沖の船へと戻ります。
小舟で沖まで行く途中、与作は何かを思い出したように言い始めました。
「寅吉、今日の炊〔炊事係〕の仕事はしなくていいぞ。つた屋からあとで仕出しが届けられるからな」
「へえ、そんなことまでやってくれるんですか」
「ここじゃそういう細かい心遣いがあるんだよ。玉洗いの港はいいとこだからな…。だからおれも船頭もこの辺に来たら寄りたくなるんだよ」
「ふむ。客寄せをよくするための奉仕的な活動ですね。小さな損失で大きな利益を出すための工夫、というのもでしょうか?沖の船に集る小舟の集団も似たようなものなのでしょうね。こんなに小さな島ですから、船が入港しないとすぐに干上がってしまいます」
「……いうことは正しいが、もう少し人の情つーもんがなぁ」
「与作さん、商人が情で仕事してたらお終いですよ」
こういうことをさらりと言ってのける寅吉に、与作は目頭を押さえるしかなかった。
寅吉は十一で母親を亡くしたのち、直江屋の勘兵衛に引きとられ、十六まで店で読み書きや算術の勉強をし、やっと今年から西廻り〔青森から山口を経由して大阪まで行き交う航海ルート〕の船に乗れるようになったのだ。
主である勘兵衛が目をかけている逸材であり、商人としての素質があるとは思うが、なにぶん頭が固すぎる。
商人は人と人とのつながりなのに、接待のときでも今日のような調子では目も当てられない。
(勘兵衛さまからお守り役を引き受けたが、本当に堅物すぎて話にならねぇよ…)
――今晩は荒れるなぁ……。
そんな予感がしてならない与作は、この”仔猫”をどう扱っていいのか分からず、数か月経った今でも手を持て余していたのでした―――――。
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