六十九話 それがすべていいじゃないか

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六十九話 それがすべていいじゃないか

盆休みも終わり、いつもの日常が戻ってきてた夏の終わり。 大した騒ぎもなく日々をすごしていた矢先、岡の遊女である須磨姐さんが身請けされたという話を手習いの合間に弥彦から耳にした。 下見世に下ろされる前から身請けの話が出ていたらしく、相手はこの三崎島から離れた本土の塩問屋のご隠居さまなのだそうだ。 大きな塩田を持ち、自前の船で上方や北陸を巡る塩廻船で財を成したお金持ちだという……。 まだ萩屋で一番人気を得ていたころから須磨姐さんのご贔屓客で、ぜひ後添(のちぞ)いにと誘われていたが、当の本人である須磨姐さんが首をたてに振らなかったそうだ。 金払いはいいが老人の後妻になるのは、当時人気のあった若い姐さんには耐えられないことだったらしい。 しかし年々その人気に増長し夕霧姐さんに一番人気を取られてからは、ますますきつい態度が目立つようになったことから、塩問屋のご隠居さまも須磨姐さんに会いに来ることはおろか、玉洗いの港町どころかこの島に足を運ぶこともなくなったそうだ。 だが、知り合いから須磨姐さんの今の境遇を伝え聞いて、再び島に船で通うようになったとか……。 そして須磨姐さんの方から頭を下げてご隠居さまの後添いになることを承諾したということで、ひと月ほど楼主とご隠居さまの間で身請けの金額交渉が行われたそうだ。 この過程は本人と楼主と女将さん以外知ることもなく、身請けの金額と日取りが決まると、ご隠居さまが貸しきった船宿で大きな宴会が行われたのだそうだ。 宴会の席では松風姐さんや須磨姐さんと親しい遊女たちも呼ばれ、下見世の遊女相手とは思えないほどの華々しい宴会だったという――。 そして翌日の昼にご隠居さまの船に乗り、須磨姐さんは妹遊女たちに惜しまれつつ旅だったそうだ。 岡の遊女が身請けされること自体が稀である。 借金を抱えたままで死ぬまで苦界を彷徨(さまよ)うよりか、老いらくの恋の相手でも構わないと藁にも縋る者もいるだろう。 「跡継ぎに店を任せているご隠居なので、須磨さんと暮らすために大急ぎで別宅も建てられたそうですよ。うちの茶屋にも酒樽やら反物やら色々と送られてきまして、…金があるところにはあるものだな~と、つくづく思い知らされましたよ」 「岡の遊女の身請けってお金以外も必要なんですか!?」 「いえいえ、それはみな旦那さんから茶屋への心付けですよ。まあ、そのくらいの財力がありませんと、――身請けされてもお互い不幸になるだけですし……」 弥彦が含みのある言い方でお千代にそう答える。 茶屋での出来事は沖の遊女まではあまり回ってこない。 須磨姐さんのことも、仲の良い乾物屋の女将さんから聞かされたことだった。 「お金がたくさんないと、身請けしても不幸なの?」 お金はあった方がいいに決まっているが、何故たくさん必要なのかまでは分からない。 どうして?という顔をして首をかしげるお千代に、弥彦はあーっと声を漏らし重要なことを思い出したのか、何気に面白そうに聞き耳を立てている禿たちから目を反らしました。 「お千代さんは家事や洗濯など、身の周りのことは出来ますよね?」 「ええ、人並みくらいには…」 「岡の遊女たちは、みなさん年端もいかない幼少の頃から茶屋で暮らしてるのはご存知ですね。ですから礼儀に芸事や勉学は大変優秀なのですが、花嫁修業をされてないので世話をしてくれる者がいないところへは嫁にいけないのですよ」 「あ、ああーっ!」 そうだったのか!とお千代も気づいて思わず声を上げてしまう…。 ハッとしたお千代の目線の下には、禿たちはよく分かっていない様子でジロジロとみていた。 ここでは食事の支度から着るものすべて、身の周りのことは若い衆や下働きの奉公人たちが世話してくれる。 岡の遊女は男を愉しませることに特化した生き方しか身に付けていないから、嫁に行っても芸は出来てもおさんどんしてくれる人がいないと暮らしていけない。 お千代や弥彦のやり取りの意味を察した禿のひとりが、むっふーと鼻息を荒くしていいます。 「わちきも須磨姐さんみたいに、お金持ちの旦那さまをつかまえんす。玉の輿は女の夢でありんす」 すると音もなく女将さんが現れ、ほほほほほっと笑いながら禿たちに話しかけました。 「でしたら今まで以上に手習いをしっかりしなんし、何もない女に殿方は恋焦がれんせん」 鼻息を荒くしていた禿はぎょっとし、文机の方へと顔をむけます。 ほかの禿たちも焦りながらも文字をキレイに書く練習に戻りました。 それから女将さんは弥彦の方を向き、懐から折りたたんだ扇子を取りだすと彼の頭をパシッと軽く叩きました。 「弥彦、亭主さまもあちきも娘たちが嫁ぐ相手を選ぶでありんす。お金より何より娘たちが幸せになることを一番に考えていんす。娘たちを不安がらせることは口に出してはいけんせん」 「…申し訳ありませんでした」 弥彦はその場で手をついて女将さんに頭を下げます。 つぎに女将さんはお千代のそばへスッとやってきました。 「お千代も殿方と話をするなら世間話より、もっと艶のある話をしなんし。言葉の芸を磨くもの遊女に必要なことでありんす」 そう言って女将さんはにこりと微笑みます。 すると弥彦は下げていた顔を勢いよく上げると、いやいやいやと青い顔をして首をよこに振りました。 「何をおっしゃるんですか、遊女と若い衆との色恋は厳禁です。とっ、とんでもないことですよ」 「ふふっ、弥彦。あちきは艶のある話をいうただけでありんす。何もふたりに恋仲になれとまではいいんせん」 「……あ」 いつもは冷静な弥彦がひどく取り乱している姿をみて、女将さんは面白そうにお千代にいいます。 「お千代、存外弥彦はぬしに気があるようでありんすね。これは女を磨く絶好の好機でありんす」 女を磨けと焚きつけてくる女将さんに、顔を赤らめて首を振る弥彦。 しかし先日の太一とのことが冷めやまぬ中、お千代は男に対してある答えを出していた。 そのため自分への男女の関係を口に出されるのは、女将さんといえどもとても煩わしい。 だから感情のこもらない声で自分の意思を伝える。 「男よりお金ですよ。男はお金を得るための道具。――それでいいじゃないですか」 「お、お千代?」 「…お千代さん?」 思いがけない言葉にポカンとする女将さんと弥彦。 そんなふたりにお千代は、今までにないとびきり良い笑顔を向けるのでした。
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