◆第四章◆ 七十話 秋の季節になりました

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◆第四章◆ 七十話 秋の季節になりました

濃く短い影法師が間延びする事で暑さもほどよく緩和され、秋の訪れが間近に感じられる季節がやってきた。 そんな夏に終わりを告げた長月の中頃、お千代は福屋のあんこ餅を口に頬張りながら海を見ていた。 あれから『金がすべてだ!』と自分に暗示をかけ、周りの男たちを『金にならない者』としてを気にかけることもなく、手習いも漢文より算術を習いはじめた。 ――深く関わる人がいないことって平和だなぁ。 人に関わるとロクなことがないし、心が疲弊するだけで得るものがほとんどない。 だから人と関わるのは仕事だけ、それ以外は浅く気軽な付き合いだけに留めておく。 これなら人間関係に支障をきたすことがない。 (自分のことだけで精いっぱいなんだから、人のことまで面倒見きれない。私の懐はお金以外もジリ貧なんだよ) そうして過ごすこと半月、心に余裕がでてきたワケでもなく何も変わらない日常を送っている。 実際色々な事を見ないフリしているだけなので、現状は何も解決されてはいない。 (私は変わったはずだったのに、どうしてなんだろうね……) せっかく仲良くなったと思っていた初音とは、三郎のこともあり話しづらくなってしまっていた。 太一はあれからまったくこちらを気にすることなく静かになったが、いつまた何を仕出かすか分かったもんじゃない。 弥彦とは何事もなかったかのように話をしているが、こちらも気を抜くことは出来ない存在だ。 姐遊女たちは相変わらず、適度な距離感をお互い保っている。 小波に至っては最初っから私たちを避けているのと、金絡みのこともありこちらから何かをする気も起きない。 港町のおじちゃんやおばちゃんたちはいつも優しい。 客の旦那さんたちとも上手くやっているつもりだ。 だけど心に空いた穴からは冷たい風が吹き抜けるだけ。 血が流れるように苦しい思いはないけど、――こう、何かが足りない気がする。 何が足りないのかは分からない。 そして分からない苛立ちだけが募ってくる。 (人生に張り合いがないというか、何というか……。心に刺激がないとでもいうか………) そんなことを思いながらお千代がもそもそと餅菓子を口にしていると、近くで怒鳴り声が聞こえてきました。 この辺で仕事をしている浜仲仕(はまなかし)同士のケンカは港ではよくあることで、相変わらず血の気が多い男の人がいるんだなぁくらいの日常的な出来事。 要するに、自分に被害がなければぶっちゃけどうでもいい。 さらに対岸の火事は、見物するだけなら面白い。 そんなやじ馬根性丸出しで雁木を上ると、怒りに任せて相手の衿をつかんで締め上げている男と何やらいいワケを口にしている男がふたり。 昼に差し掛かった頃合いなので港にいる人はまばらだが、遠巻きで楽しそうに眺めている者は少なくはなかった。 ちなみにお千代もそのうちのひとりである――。 (何か言ってるようだけど、ここからじゃ聞こえないなぁ) 気になる、気になる、非常に気になる。 ウキウキしながら近づくいてみると、思わず『うげっ』と声を漏らしそうになった。 ケンカをしているのは三郎と太一。 そこには顔を真っ赤にして怒り狂う三郎に対し、いつもの笑顔で穏やかに何かをしゃべっている太一がいた。 三郎の大声だけが響きわたり、太一の声はきちんと耳には入ってこない。 女に金を使うのが勿体ないと思っている太一が、茶屋に行くから金を貸せとかなんとか。 しかも初音が目当てだということで三郎の逆鱗に触れたらしい……。 (初音さんの名前を叫ぶんじゃないよ。変な悪名が広がって客がとれなくなって困るのは彼女なんだぞ。借金の肩代わりも出来ないクセに偉そうに初音さんのことを語るな) と心の中で三郎に向けてお千代はヤジを飛ばす。 自分の知ってる男が彼女の旦那になりたいということで腹を立ててたらキリがないぞ。 初音さんは遊女なんだからね。 それに太一がひとりの遊女に収まるワケないじゃないか。 花街の掟を守れず、花街から追放されるか海に浮かぶかの心配をした方がいいんじゃない? 昔は仲良く遊んだ仲でも、今はこうして遠目でみるだけの関係。 ふたりが遊女のことでもめ事起こして争っていても、本当に他人事のような気分だ。 しかし、あのふたりに見つかって巻き込まれるのはご免被りたい。 お千代は触らぬ神に祟りなしと後ずさりしながら離れようとしたつぎの瞬間、三郎は癇に障ることを太一に言われたのか、ゴキッと音が鳴るくらい殴り飛ばしたのだ。 殴られた太一は後ろへ飛ばされ、横路から運悪く出てきた男にぶつかる。 男はその拍子に太一の下敷きになり、地面に体を打ちつけられた。 「……クソッ、――あーーーーーーーーーっ!!」 男はすぐに太一をどかして立ちあがりながら体についた土を払うと、突然大声を張り上げたのだ。 そして地面から何かを手にしたあと、地面にまだ転がっている太一を蹴とばす。 「おい、コイツを俺に飛ばしてきたのは誰だ!?」 目を光らせ、底冷えがするほど冷たい声で男はいう。 すると周りで面白がってみていた者たちが一斉に三郎の方を向いた。 三郎はギョッと目を見開いて、静かに怒りを燃やす男の姿に驚愕する。 男はズカズカと三郎の元まで歩いていくと、手に持っていた平らな物を彼に見せつけ、ドスの効いた冷ややかな声を吐きだした。 「お前がコレの弁償をするんだよなァ?」 「あ、あんたに当てる気はなかったんだ。すまん……」 動揺して謝る三郎に、男は眉一つ動かさず睨みつける。 そして三郎の腹に軽く一発膝蹴りを見舞うと、大きく口を開いて怒鳴りだしたのだ。 「いいから弁償しろ!この場で、即四十文を払いやがれ!!」 「ひっ――」 さっきまでの怒りが消し飛んだのか、三郎は男の気迫に押されて懐から財布を引っ張りだし、じゃらじゃらと銭を男に手渡していた。 受け取った金額を確認すると男は気がすんだのか、来た道を戻ってゆく。 言い争ってケンカになっていた三郎は青い顔をして立ちつくし、何が起こったのか理解出来ていない太一は腰を落としたままあっけにとられている様子だった。 お千代はそんなふたりを無視して、男のあとを足早に追いかけるのでした。
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