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嘘だ、と。
俺や姉を連れ戻すための冗談だと、思いたかった。
『悠月くん?大丈夫かい……?』
遠くから聞こえた声に、スマホを再び耳に当てて、深呼吸をして返事をする。
心ここになし、そんな返事になってしまっただろう。
『家に連れて帰って来てるから、会いに来れるかい?』
言われて来た道を振り返る。
皐月……。
戻って伝えるべきか……。
でも、彼女は子を産むために覚悟を決めた。
そして医師の言葉や皐月の強い目を思い出す。
命を守ること、それが先決だと判断した。
「今から行きます」
相手の返事も聞かず、それだけ告げて通話を切ると、走り出す勢いで足を進めた。
電車に揺られる時間があまりにも長く感じる。
【駅に車をやるから、乗っておいで】
送られてきたメッセージに、今までこの人に対して持っていたイメージが全て自分の勘違いだったのではないか、と考えこむ。
もしそうだとしたら。
こんな公共の場で溢れ出しそうになる涙を必死で堪え、随分と懐かしい、見慣れた駅へと降り立った。
迎えにきていた車は変わらず高級車で。
数年前の暮らしが蘇る。
敷地内に着くと、車は一切の不快感を感じさせずに停車した。
どれだけ仕事があっても、子供たちの帰宅時には一番最初に迎えてくれた母の姿はもうない。
広くて静かな家は、以前よりはるかに冷たく感じた。
「お帰り。さぁ、こっちだよ」
促されるままついていった先で、母は静かに目を閉じていた。
男の手が肩に触れることなど構わず、膝を床についてゆっくりと母の顔を覗き込む。
そこに手が触れると、抑えていた涙がポロポロと滝のように流れ落ち、母の顔を濡らした。
「なんで、こんな突然……。早いよ………。まだ、何も親孝行してないのに。……………ごめん、親不孝な息子で……心配ばかりかけて……」
いつの間にか義父の手が頭へと回り抱き寄せられると、小さい子にヨシヨシとするように軽く頭を叩かれた。
「日程の関係で明日にでも葬儀と通夜をやらなければならない。しばらく泊まって行くといい。君たちの部屋は手をつけてないから」
今までこの人に対してあんまりな態度をとっていただけに、どうすれば良いのか戸惑う。
その気まずさに目線を泳がせて。
「あ、りがとう、ございます」
去っていく背中に小さくそう呟いた。
こちらからは見えない向こう側で男が口角を上げていたことなど、知るよしもなく。
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