5) 過去

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嘘だ、と。 俺や姉を連れ戻すための冗談だと、思いたかった。 『悠月くん?大丈夫かい……?』 遠くから聞こえた声に、スマホを再び耳に当てて、深呼吸をして返事をする。 心ここになし、そんな返事になってしまっただろう。 『家に連れて帰って来てるから、会いに来れるかい?』 言われて来た道を振り返る。 皐月……。 戻って伝えるべきか……。 でも、彼女は子を産むために覚悟を決めた。 そして医師の言葉や皐月の強い目を思い出す。 命を守ること、それが先決だと判断した。 「今から行きます」 相手の返事も聞かず、それだけ告げて通話を切ると、走り出す勢いで足を進めた。 電車に揺られる時間があまりにも長く感じる。 【駅に車をやるから、乗っておいで】 送られてきたメッセージに、今までこの人に対して持っていたイメージが全て自分の勘違いだったのではないか、と考えこむ。 もしそうだとしたら。 こんな公共の場で溢れ出しそうになる涙を必死で堪え、随分と懐かしい、見慣れた駅へと降り立った。 迎えにきていた車は変わらず高級車で。 数年前の暮らしが蘇る。 敷地内に着くと、車は一切の不快感を感じさせずに停車した。 どれだけ仕事があっても、子供たちの帰宅時には一番最初に迎えてくれた母の姿はもうない。 広くて静かな家は、以前よりはるかに冷たく感じた。 「お帰り。さぁ、こっちだよ」 促されるままついていった先で、母は静かに目を閉じていた。 男の手が肩に触れることなど構わず、膝を床についてゆっくりと母の顔を覗き込む。 そこに手が触れると、抑えていた涙がポロポロと滝のように流れ落ち、母の顔を濡らした。 「なんで、こんな突然……。早いよ………。まだ、何も親孝行してないのに。……………ごめん、親不孝な息子で……心配ばかりかけて……」 いつの間にか義父の手が頭へと回り抱き寄せられると、小さい子にヨシヨシとするように軽く頭を叩かれた。 「日程の関係で明日にでも葬儀と通夜をやらなければならない。しばらく泊まって行くといい。君たちの部屋は手をつけてないから」 今までこの人に対してあんまりな態度をとっていただけに、どうすれば良いのか戸惑う。 その気まずさに目線を泳がせて。 「あ、りがとう、ございます」 去っていく背中に小さくそう呟いた。 こちらからは見えない向こう側で男が口角を上げていたことなど、知るよしもなく。
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