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「しゃくや」という言葉を、私は割と早い時分に知った。幼稚園に通っていた頃だ。母が、「みきちゃんちは借家だったのねえ」と言ったから。みきちゃんは同じさくら組の子で、来週引っ越していってしまう。
みきちゃんの家だったところに、ひとりで行ってみた時のことは良く覚えている。玄関の所にあったみきちゃんの補助輪付き自輪車や、おばさんが育てていたプランターのパンジー、ガラス戸に透けて見えていた大きな茄子柄ののれん、庭の物干し竿、二階の部屋のカーテンなんかがみんな無くなって、のっぺらぼうになっていた。石の柱のくぼみに入っていた「山本」という板があったところだけが周りより明るい灰色なのが悲しくて、泣きながら帰った。園では何をするにもみきちゃんと一緒だった。
それ以来、私には胸を張って友達と呼べる人がいない。
理科室や家庭科室に行くのは毎回少しだけドキドキする。10分間の休憩が始まったらなるべく早いうちにトイレを済ませ、早すぎず、ギリギリすぎないタイミングで佳織ちゃんの席にいく。
「そろそろ行こっか」
「うん行こー。今日ってプリントだけで良かったっけ」
佳織ちゃんのほにゃっとした笑顔にほっとする。良かった、今日も一人ぽっちにはならなかった。購買のパンはどれが好きか、こないだ新入荷したチョコ入りクリームサンドはもう食べたかという話をしていたら、パタパタと後ろから足音が近付いてきた。千尋は休み時間目いっぱい使ってバレーボールとかするタイプで、さすがに10分休憩では校庭に出ていないだろうけど、なんだか息が上がっていた。
「佳織ー。こないだ借りた漫画、めっちゃ良かったんだけど!」
「でっしょー。タクミのあの台詞、ヤバいよね」
「あー六巻のあれね! あんなん言われたら死んじゃうよね」
「なんて漫画?」
おずおずと二人の話に割って入ると、佳織ちゃんがほっぺたをつやつやとさせた笑顔で教えてくれた。
「えっとね『君はもういない』ってやつだよ。恋愛ものなんだけどね、ネタバレするから詳しく言えないけど、すっごい切ないの、でもそれがいいんだよ!」
「うんうん、まだ十巻までしか出てないからすぐ読めるよ。佐屋さんもこれ貸してもらいなよー」
「貸す貸す! 緑ちゃん本沢山読んでるから感想楽しみだなあ。千尋、早く読みなよ?」
「うん、読み終わったら回すね!」
千尋は昨晩夜更かししてページをめくった興奮を佳織ちゃんに熱っぽく語っていた。わかる、ただ感想を共有したいんだよね。避けられてるかもって思っちゃいけないやつだ。
向こうから万年ジャージ姿の増田先生がやってくるのが見えたから、道を開けるために私は二人の後ろに回った。佳織ちゃんの声が「わ」だか「あ」だか分からなくなるけど、私はにこにこ顔をキープする。頭のなかで、足を止めてみる。二人との距離はきっと静かに遠くなるだろう。だけどもう高校生なんだし、実際にはそんなかまちょなことはしない。
◇ ◇ ◇
首筋がべたべたと暑くて、不快さに目が覚めた。さっきまで握っていた筆箱の感触までこの手の中に残っているくらい、妙にリアルな夢だった。ぎゅっと胸を絞られたような切ない痛みもまだ残っている。
高校の時の友達とはもう誰とも連絡を取っていない。きっと地元では何度か同窓会が開かれているのだろうけれど、東京に進学し、関東で就職した私にはそういう連絡もこない。佳織ちゃんや千尋は一年の時の同級生で、その後同じクラスにはならなかったから、どの大学に行ったか、いや、大学に進学したかどうかすら知らない。携帯の番号は当時のままだけど、一度水没させた時に古い友人のデータは消えていた。もし残っていても、連絡することなんてないけれど。
時計を見ると、もう家を出なければならない時間だった。私は洗面所の鏡で眉毛が消えていないかだけ確認し、日除けの帽子をひっつかんで自転車に跨がった。今日は湿度はないが、とにかく気温が高い。マスクの中で熱い息がこもってくらくらした。
入園式は延びに延び、娘は夏服で出席した。保護者席は白や黒ののっぺらぼうの群れで、二か月経った今もそれは変わらない。あの頃より、花柄や和柄、シリコンタイプなど、多少バリエーションが増えたけれど。
子供を待つ半日陰のポーチからは、さわさわとした雑談の響きが聴こえてくる。どの人が誰にどんな話をしていて、どれだけ親密なのかはマスクに覆われている。プレ幼稚園の間に、あるいは子供がもっと小さい頃に、支援センターなどでママ友になっていた人たちなのだろう。マスクだけがモコモコ動いているのを見ると、なんだかマスクが本体みたいだなと思う。そんなことをぼんやり考えているのは、話す相手がいないからだなと思ってがっかりする。
軽く髪を茶色に染めたつやつやの女性教諭が、場違いにも思える明るい声で「年少組さん、帰りの準備ができましたあ。密を避けるため、二列に並んで、間隔を空けて玄関にいらしてください」と案内した。場違いじゃない、幼稚園の先生ってこうなんだろう。あの病気のせいで、なんとなく皆沈んでいるだけで。
隣になった人と、「なに組さんですか?」とか、「マスクだと暑いですよね」という話をぽつぽつとした。同じクラスだったらよかったのだけれど、そうではないのでなんとなく盛り上がりに欠ける。すぐに順番が来て、それぞれ子供の方に近寄る。所在なげだった私の娘は、呼びかけるとマスクの上の目を細めた。靴に踵を入れるのにも数十秒かかるのをじれったい気持ちで見守り、ようやく通用門に続く狭い通路に出た。
向こうからマスクが走ってきた。
その人のマスクには、目と口がでかでかとプリントされていた。丸と逆三角で単純化された笑顔なのだけれど、口は大きく開いて、付ける人をのっとっているように見えた。私はあんまりびっくりして、その人の顔をまじまじと見てしまった。私がさっき考えた、「マスクが本体みたい」を、この人も考えたことがあったのかもと思ったから。お迎え時間ギリギリに園についた彼女は、私の視線に気付いたものの、気持ち程度の会釈で去っていってしまった。
ああ、気になる。彼女はあれをどこで買ったんだろう。他にも、ちょっとくすっとできるマスクはあるに違いない。
その次の週、私は新調したマスクを着けて、同じ場所、同じ時間で子供を待った。前回と同じように、少し遅れてあのショートカットの彼女が来た。今日は普通の白い紙マスクだった彼女は、私を認めて目がはっと開いた。そう、今日私はレッサーパンダの口元を模したプリントマスクをしていたのだ。
私の精一杯の国交交渉は通じたようだった。彼女ははっきり私に向けられたと分かる、しっかりめの会釈をして、少しだけ離れた場所に立った。教諭がやってきて、例によって二列になるよう促されると、彼女と隣になった。
「それ、どこで買ったんですか?」とは訊かれない予感がした。私たちはずっとあとになって、私たちの最初の出会いについて話すことになるのだと思う。
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