星からの便り

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

星からの便り

 暑い八月。今日は最悪な一日だった。朝から電車で乗客同士のトラブルに巻き込まれたり先方からクレームの電話が入ったり。上司からは鬼のような形相で叱責された。自分の発注ミスが原因だから当たり前なのだけど。周りが次々と新しい案件を捌いている中で、私は過去の案件の後処理に追われていた。しまいには後輩にも心配されて気を遣われる始末。部署の雰囲気を悪くして申し訳ないことしたな。情けないな。空を見上げると、雨粒が沢山落ちてくる。朝のニュースでは、夕方には止むと言っていたが、実際には、夜になっても降り続いて、一向に止む気配はない。 ――きっと空にも泣きたくなるような嫌なことがあったんだ。  社会人になってから、生まれ育った実家を離れ、ここ、大都市の東京で一人暮らしをしている。実家は東京から離れた田舎にあった。学生時代は、近所に何もないことが不便で、毎日つまらなくてしょうがなかった。テレビの画面越しに見る原宿や渋谷の風景に、何度も本気で憧れたことか。東京の人たちはみんな、毎日、沢山の刺激を味わいながら生活しているのだと思うと羨ましくてしょうがなかった。しかし、社会人になって都会の喧騒に埋もれていると、その考えが一変し、故郷は良かったなと心から思う。自然に囲まれた家の軒先。マイナスイオンを絶対に含んでいる澄んだ空気。そして、夜空一面に輝く星。  天文学を研究していた祖父の影響で、私にとって星は身近なものだった。小さい頃から星を見るのが大好きで、夜になると縁側に座って星を眺めた。あの星は、どうやってできたのだろう。いつから光っているのだろう。綺麗な星の名前は誰がつけたのかな――。東京は星があまり見えない。はっきり見えるのは夏と冬の大三角形くらいではないか。ましてや今日は雨で、空には雲が覆っていた。 (そうだ……。プラネタリウムに行こう)  少し前に友達が行きたいと言っていたプラネタリウム。結局、予定が合わず今の今まで行けていなかった。自宅への帰路に向いていた足は、プラネタリウムのある有楽町に向かっていた。  到着すると、一階でチケットが売っている。売り場の上にある電光掲示板に目を向け、直近の時間に開演するプログラムのチケットを購入した。開場時間を過ぎていたため、指定された椅子に座ると、一日の疲れがドッと溢れてきた。心地よい音楽とアロマらしき香り。リクライニングできる椅子を、後ろの座席に迷惑にならないよう確認しながら倒す。周りの人を見渡すと、自分と同じように一人で来ている人もいた。心なしか顔に元気がないように見える。みんな疲れているのかな。ここは東京のオアシスなのかもしれない、と思った。  開演時間になると、目の前に広がるスクリーンに綺麗な星が映し出される。聞いているだけでうっとりするような男性のナレーションで流れたのは、天体観測の歴史、星の名前の由来、日本で見ることのできる星座たち。聞こえてくる名前たちは、自分が子供の頃に祖父から聞いた懐かしい名前ばかりだった。周りの環境はガラッと変わったのに、星の歴史や名前は変わらない。自分の生まれる何万年も前からそこに光り輝いていて、その光が、今この時代に見えているのだと思うと、自分の悩みなんて、とんでもなくちっぽけなものに感じられてくるのだった。  開演してから三十分くらい経っただろうか。心地いい空間に、ウトウトしていた。眠い目を擦りながらスクリーンを見直すと、突然、スクリーンに映し出された星たちがまばゆい光を放ちながら輝きだした。 「えっ」 驚きのあまり、思わず身体を起こすと、周りにいたはずの人の姿が見えない。状況を理解できないまま、もう一度、スクリーンを見上げると、そこから沢山の星たちが流星群のように降り注いだ。温かい優しい光の星たちが、私の周りを次々と流れていく。そして突然、頭に浮かんだのは、小さい頃、夏の星降る夜に、おじいちゃんと星を見ていたこと。見ている時にお母さんがスイカを持ってきてくれたこと。スイカを食べようとお父さんとおばあちゃんが近くにきたこと。 そして、なぜか突然浮かんできた言葉。 『頑張れ』  ハッと気が付いた時、プラネタリウムの従業員が、私の顔を覗き込んでいた。 「お客様、大丈夫ですか? プログラムは終了致しました」 「す、すみません、ありがとうございます」 どうやら眠ってしまっていたらしい。私の目からは涙が流れていた。さっき経験したことが鮮明に頭に残っている。あれは夢だったのだろうか……。  不思議な気持ちを抱えたまま、慌てて外に出ると雨はすっかり止んでいた。夜空には星が瞬いている。そして、同時に私の心も軽くなっていた。 ――そうだ。私の一番好きだった星はアルビレオだ。 アルビレオははくちょう座のくちばしに位置する場所にある星。三等星であり、明るく目立つ星ではないが、「天上の宝石」と呼ばれるほど美しい二重星。華やかでなくても目立たなくても、静かに美しく光り輝くアルビレオ。小さい頃、そんな生き方に憧れたんだ。  パシッと自分の顔を叩いた。しっかりしろ、私。また明日から頑張ろう。そして次の休みには実家に帰ろう。そんなことを思いながら、私はまた明日への一歩を踏み出した。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!