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「三十年も経てば倫理も常識も変わるよな、そりゃ」
劃諷は『本』を閉じた。こうして世間の冷たい風にさらされるたび、世間の時間は進んでいるのだと痛感させられた。服役中は自分の見た目も含めて何一つ代わり映えのしない時間を延々と繰り返していたから、時間が進むものだという認識を失認していたのかもしれない。
ただ、それは逆に娑婆に出てきたことを実感できるものでもあった。だからといって、解放感なんてものは皆無で、むしろより一層のこと閉塞感を覚えるようになっている。出所してから一ヵ月と経っていないのに。
「こんな場所で読むんじゃなかったな」
刑務所に入る前から『本』を読むことは人目を憚ることだ、という社会通念が浸透し始めていたことは覚えているが、まさか叩き落とされるとは思わなかった。
ぴろりろりんと駅のホームにメロディが流れだし、機械的な音声が電車の到来が近いことを告げる。それと同時に、プラットホームから線路への転落や列車との接触事故防止もとい自殺防止用の白濁した壁――ホームバリケードアに警告表示の文字が点滅する。
「しかし何度見てもすごいな、これ」
見た目はホームの端から端に伸びる透明な一枚の板のように見える。ところが電車がホームに停車してドアを開くと、それに合わせてバリケードアにも縦に一線が入り、スライドドアのように開閉する仕組みになっていた。まるで隠し扉のように。実際はもっと高度な技術が使われているらしく、列車がホームに停車していないときは扉を隠しているわけではなく本当に一枚の壁なのだという。それが列車の信号に反応してドアを生成するのだとか。より正確には規則正しく自壊させ、修復してドアの隙間を埋めるようにできている。イカの環歯の再生力を遺伝子操作した素材によってできているとかで、瞬時に自壊した部分を修復でき、自壊と修復にかかる電力も従来のホームドアに比べてエネルギーを省くことができるため瞬く間に普及した。
ということを、つい最近知った。俺が牢屋に入ったときはこんな大層なものはなかった。当然といえば当然だが、刑務に服している間にも技術は進歩している。まして三十年ともなれば多くのものが変わるだろう。変わらぬヒト様と違って。
テクノロジーの発達に思いをはせながら重い腰を上げて電車に乗ろうと立ち上がると、足首に枷られたバイオビーコンがくるぶしに触れる。
どこかへ行こうと立ち上がる都度、公権力に自分の居所を四六時中通知し続ける外付けの足枷は鬱陶しく、どこにいても気が休まることがない。少しでもその気を紛らせるために計磨を倣って『本』を読んでいたのだが、それすらも公の場では咎められる始末。これでは鬱屈は溜まるばかりで発散していかない。再犯防止のためという名目に反し、再犯を促しかねないストレスが募る処置である。
「はぁ」
諦念と憤りの混じったため息を吐き出して、『本』をコートのポケットに忍ばせてから車両に乗り込んだ。
目的地の駅まで乗り換えはなかったが、多少時間かかる予定だった。だから端末を使ってウェブの番組を見ることにした。
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