1人が本棚に入れています
本棚に追加
Cemetary Encounter
駅を出ると空一面に広がる雲一つない晴天が視界に入った。冬の空にはあまりにも似つかわしくない晴れ晴れとした、そしてこの季節にぴったりの重々しい青空だった。
「寒」
大きく息を吐くと白い息が広がって一瞬で消えていく。大気の寒さもさることながら、霊園という場所が寒々しさに拍車をかけていた。
少し歩くと「小平罪人共同墓地霊園」と大理石に銘打たれた場所にたどり着く。入口から入って林立する墓標を通り過ぎていくと、ある一画にたどり着く。
「久しぶり」
帰らぬ人に声をかける。当たり前だが言葉は返ってこない。
「知ってるか? 墓の文化ができたのって一万五千年前らしいぜ」
墓石を眺めていると記憶の中で計磨が語りかけてくる。
「四角い墓標以外に灯篭みたいな形のやつがあるだろ。あれは五輪塔つって今から千年も前からある形なんだと。もとはインドから伝わった五大の概念を取り入れたものだったとか。今みたいな供養の原型ができたのは江戸時代だったらしいけどな。今もこうして形式がほとんど変わらずに続いているのってすごいよな」
両親の墓参りに来てもなお、計磨は相変わらずだった。
「しっかし、そう考えると面白いよな」
俺は「何が」と返すのも億劫だった。父母の墓石を前に哀悼の意を示すことのない兄の態度にも。
「縄文人にも極楽浄土だとか地獄だとかって概念があったのかまではわからないけど、埋葬って行為そのものが死後を思ってのことだろ。つまり、そんな昔から人間はどうやったら死を退けられるのか試行錯誤してたってわけだ。いや、どっちかというと思考錯誤か。ははは」
くだらない言葉遊びで笑うのもいつも通りだった。
「埋葬の文化が出てきたのが定住型生活になってから、っていうのもなんか意味深だよな。動き続けていた移動型生活のときは見られなかったわけだろ。これはほとんど俺の当て推量だけど、そうやって停滞・停止・停留することで、死を強烈に意識しだしたんじゃないかって思うんだよ。
そもそも、死っていうのが、ある意味で止まることだとも言えるわけだからさ。つまりさ、縄文人は、止まることを選んだ時点で死んでたんじゃないかって気がするんだよ」
それから僅かに逡巡するように「まるで、今の俺たちの世界みたいじゃないか」と計磨は自嘲気味に笑っていた。俺はこれっぽっちも悼む気のない兄に辟易して「じゃあ植物は動かないけど、死んでるの」と厭味ったらしく口にしたのを覚えている。
「植物は植物。でも人間は動物、動く物だろ。動く物は動いてなんぼじゃないか」
いつものように、ふざけた言葉遊びでのらりくらりと反駁を躱す計磨の姿も昨日のことのように思い出せる。
「それに植物だって動いてるんだぜ? 人間のスケールじゃ分かりにくいだけで。ってジム・クレイマンが言ってた」
そんな兄が、いまや眼前の墓標の下に身を埋めて眠っている。本人の生前の希望で火葬ではなく土葬されていた。曰く、
「実は復活の日を待つクリスチャンだったとか、そういうことじゃないぜ? ただ単に死んだ証が欲しいのさ、俺は」
だから、死ぬ間際に残した計磨のその世辞の句に従ってここに骨を埋めてやった。手続きが異様に面倒くさかった。
「晴れて望み通りになったけど、どんな気分なの。兄さん」
そう訊いてみた。反応を期待していたわけではない。けれど、何も起こるはずがないという予想とすらいえない自明の予想に反することが起こった。
最初のコメントを投稿しよう!