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「で、半井先生。乳首見せて」
どうやらさっきの耳にしたのは聞き間違いではなかったようだ。呼び名だけ修正し、榎木は繰り返した。俺が硬直していると、模試の結果が印字されたペーパーをひらひらと目の前で揺らして見せる。
「お願い聞いてくれるって約束、忘れてないよね。K大の理学部生物学科。A判定」
「あれ、何の話だったっけな……」
「えっ、ひどい。まさか教師ともあろうものがしらばっくれて約束をなかったことにする気?」
そして榎木はブレザーのポケットからスマートフォンを出して、何やら操作をした。数秒置いて教室に響き渡るのは、あの日のやりとり。A判定を取ったらお願いを聞いてと言う榎木と、間違いなくそれに「しょうがねえなあ」と答えた俺。
「おい、録音してるなんて聞いてない」
「まさか、証拠がなければ逃げる気だったのかよ。大人って汚いな」
ずい、と榎木は身を乗り出し、俺のシャツの襟首に手をかけてくる。思わずのけぞって逃げを打った表紙に椅子が傾き、けたたましい音とともに俺は背中から床に転がった。そして、うっすらと笑みを浮かべながら覆い被さってくる榎木の指がふたたび一番上のボタンにかかる。
「ま、ま、待て榎木。落ち着け。椅子が倒れた音を聞きつけて誰か来るかもしれない」
その脅しに一定の効果はあったようで、しーっ、と指を唇に当てて榎木は一分ほど周囲に耳を澄ました。そして、誰の足音もしないことを確かめてとうとうひとつ目のボタンを外す。
「いや、人が来なきゃいいとか、そういうのじゃなくて」
「だって約束しただろ。半井先生、何でもいっこ言うこと聞いてくれるって」
「でもっ、それはラーメンとか焼き肉とか寿司とか」
「俺そんなこと言ってないよ」
それはそうだ。俺が勝手に榎木の願いを想像していただけだ。でもこの世の一体誰が、十七歳、高校三年生男子が男性教諭に聞いてほしいたったひとつのお願いが「乳首見せて」であるなどと想像するだろうか。
俺は榎木の手をつかんで止めようとするが、体格に勝るいまどきの若者は器用にもふたつみっつとボタンを外していく。インナーのTシャツの上に、淡いブルーのワイシャツ。その上には白衣。実験もしないのになぜ白衣を着るのかとよく聞かれるが、これがあればチョークの粉でシャツが汚れるのを防ぐことができるから――いや、今はそんなことを考えている場合ではなくて。
「だ、だめ。本当にそれだけは、だめ」
ワイシャツの前ボタンを外し終えて、インナーシャツの裾をめくり上げようと手をかけた榎木の手を今度こそ渾身の力でつかむ。その顔を見上げる俺の目はもしかしたら情けなくも涙ぐんでいるかもしれない。
「なんで、見るくらい。減るものじゃないんだし」
「いや、でもそれは本当にだめなんだ。そ、それに男の乳首なんか見て何が楽しいんだよ。何だったらおすすめのエロサイト教えてやるから、だから榎木、ちょっと落ち着いて……」
だって、中学校を卒業して以来人前で上半身を脱ぐことがないよう、ずっと注意してきた。水泳の授業がない高校を選んだのも裸の上半身を見られたくないからで、大学時代の海や温泉への誘いも全部断って――なのに、こんな奴に――。
しかし、俺の顔を見下ろしてにっこりと笑うと榎木は一言告げた。
「やだ」
そして、俺の手を引き剥がし、ぺろりとTシャツを首元までめくり上げてしまう。
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