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「……願いをひとつ、って言ってたよな」
小さなうめき声を上げて俺の上で果てた榎木のぐったりとした重みを感じながら、恨み言を口にする。
「うん、まあ」
「見るだけじゃなく触って、しかも触らせて。ひとつどころかいくつだよ。約束が違うだろ」
「じゃあ、あれは『半井先生とえっちなことがしたい』だったということで……」
「そんな後出し聞くか。重い、どけ!」
ぺこんと頭をひとつ叩くと、気だるそうに榎木は体を起こす。Tシャツの裾を下ろしながら俺も上体を起こす。床に転がったスマートフォンをワイシャツの胸ポケットにしまってから改めて自分の状態を確認し、覚悟していたとはいえその惨状に頭を抱える。
「あーもう、なんだよ。人のズボン汚して。ったく、どうやって帰れっていうんだよ」
榎木が放った精液がべっとりと俺のズボンの腰のあたりを汚している。こんな格好で電車に乗れば、どこからどう見ても犯罪者だ。白衣のボタンを留めれば隠せないわけでもないけれど、白衣のままで電車に乗ったところで怪しさは変わらない。
さすがに申し訳なさそうに榎木が頭をかきながら隣の教室を指で示す。
「汚したのは悪かったよ。ちょっと待ってて、今日体育があったから、ジャージ持ってくる」
ワイシャツにジャージというのもいいかげんひどいが、汚れたズボンよりはまだましだ。俺がうなずくと榎木は自分のズボンを整えて、教室を出て行く。奴が戻ってくるとすぐに俺はジャージを引ったくり、後は用なしとばかりに右手を振って追い払う仕草をした。
「ジャージは明日洗って返すから。おまえはもういい。帰れ!」
「冷たいなあ、あんなに気持ちよさそうにしがみついてきたのに」
「そ、そんなの勘違いだ。しがみついてなんかない」
それでもしつこくにらみつけると榎木はあきらめたように通学鞄を取り上げ、教室を出て行く。そして、去り際に一言。
「ちーちゃん、そのズボン汚したの『俺の』だけじゃないよね」
廊下を足音が遠ざかり、完全に榎木の気配が消えてから俺はおそるおそるズボンの前を緩めて中を確かめる。自分の放ったものでべっとりと下着は汚れ、それどころかズボンの布地にも染み出している。
「……なんでばれたんだ」
陥没乳首を見られたことなんか今やどうでもいいくらい恥ずかしい。だって俺は、生徒に乳首をいじられて、自慰の手伝いをさせられながら、自分の性器にはまったく触れることないまま達してしまった。
おそるおそるTシャツをめくり上げる。さっきはあんなにいやらしく勃起していた乳首はすでにもとどおり、乳輪の下にひっそりと隠れてしまっている。汚れた下着とズボンすらなければ何もかも夢だったかのように。
でも――。
「……あっ」
突然右胸に刺激を感じて思わず変な声が出る。慌てて口をつぐみ、ワイシャツの胸ポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。これまで胸ポケットの中でスマートフォンが震えたって何も感じなかったのに、まるでスイッチが入ってしまったかのように、些細な刺激にも体が反応してしまうのだ。おのれ榎木。これもあいつが妙なことをするからだ。
まずい。これは、ものすごくまずい。またひとつ、自分の体について情けない秘密が増えてしまった。
ため息をつきながらスマートフォンの待ち受け画面を見ると、そこには榎木の名前とメッセンジャーアプリのポップアップ。
「ちーちゃん。次にA判定とったら、またしようね」
思わずスマートフォンを床に投げつけかけて――しかし「ちーちゃん、またしようね」という言葉が頭の奥で、熱っぽい声で再生されると腰のあたりが再びずくんと脈打ち、俺は慌てて前屈みになった。
気をそらすためにひとつ、ふたつと数字を数え、化学物質の構造式を思い浮かべ、しかし脳裏にちらちらと揺れるのは榎木のあざとい笑顔。
「次の模試、いつだっけ……」
壁のカレンダーで模試の日程を確認し、結果が出るのはいつだろうかと俺は指を折ってみた。
体の熱は、まだおさまりそうにない。
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