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私は心の底から地球滅亡を祈っていた。
このまま隕石でも落ちてきて、私の髪も肌も、歯でさえも燃え尽きてくれたらいいのになんて願っている。
私の隣にいる龍樹は私の最愛の息子のはずなのに、私は彼を道連れにこのまま死んでしまうんじゃないかって妄想ばかり繰り広げてる。龍樹は積み木を重ねては壊しを繰り返し、ガラガラという音がこの壁の薄いタワーマンションの下の階に響いてまた苦情がこないかとビクビクする。しかし死にたいと願っているのに下の階からの苦情にまだ怯えるだなんて私はどんだけ臆病なんだ。
4歳になった龍樹は他の子よりも少し大人びていた。
それは私が母乳で育てなかったせいか、家族揃って公園に行ったことがないせいか、私の親も彼の親も孫に興味がなかったせいか、はたまた性格なのかは分からない。
私は大学を出てすぐに結婚した。会社で働いたのはたった一年だけ。元々腰掛けで受付嬢をしていた私にとって、高給取りの達也の誘いはなんら不満ではなかった。
入社して3日目に食事に誘われ、一年後には寿退社していたのだ。
それが別に幸せだとは思わない。
私みたいな女はこうやって生きるしか脳がないんだと思う。
私は昔から綺麗で可愛かった。それで得しなかった事はないが、いい思い出は多くない。
実の親にさえ顔だけだと馬鹿にされ、媚を売っていると罵られた。
男たちは私の外見はたくさん愛してくれた。でも私が泣くとみんな逃げていった。すぐに面倒くさいのだと分かった。
達也は私と結婚した時自慢げだった。親に会わせるとき、上司部下に紹介するときだけ私は良妻として紹介される。私は頭を下げて笑うだけでいいのだ。それでその場は丸く収まる。
達也は十二歳年上で繊維商社の役員だ。
毎日飲み会で帰ってはこない。飲んだらどこかのホテルに止まっている。龍樹が生まれてからずっとそうだ。夜泣きで寝れないってのは口実で、現に龍樹が大きくなっても彼は未だに帰ってこない。
私はこの広い部屋に龍樹と2人だけの生活をずっと続けている。
達也が戻ってくる日曜日に向けて、淡々と粛々と毎日を過ごしているのだ。私は龍樹を大きくするための材料でしかない。そして達也の世間体をただひたすら守るのだ。今の私はきっと女でもなければ母親でもない、この一部屋の管理人だ。
ソファーから立ち上がり冷蔵庫の缶チューハイに手を伸ばすとそれを一気に半分ほど喉に流し込む。テレビからは今日の夜9時に流星群が見えるとアナウンサーが囃したててた。今日一日この話題でもちきりで、だから私は隕石のことが頭から離れない。
流れ星だって元は隕石だ。綺麗に見えるのはその石が最後の命を振り絞って体を燃やしているから。ただ隕石はきっと往生際が悪いのだ。まるで私みたい。本当は旦那も子供も捨ててしまいたいのに、下の階の住民にドキドキしながら地団駄踏んでいる。隕石だって燃え尽きてなるものかってやつが地上に落ちてくるんじゃないだろうか。自分でも馬鹿馬鹿しい妄想だと思うが私はそんな妄想がやめれなかった。龍樹もこんな風に色々妄想していたりするんだろうか。
子供の頃はもっと単純で良かった。
好きや嫌い、お腹減ったや眠いやらで純粋に自分をコントロールできていた。大人になった今は自分をコントロールするどころか見失ってしまっている。
私は缶チューハイを飲み干すと冷蔵庫から新たな一本を持ち出し口を開けた。横目で龍樹を見ながらお酒を飲んでいると自分が母親失格の様な気持ちになる。しかしそれと同時にこんな駄目な自分に安心したりもする。どうせ龍樹は私が何をしているのかなんて分からない。
「龍樹、そろそろ寝るよ」
「やだ、まだ遊ぶ」
「明日幼稚園だよ。起きれなくなっちゃうよ」
「やーだぁ」
龍樹はぐずるとき少し達也に似ている。
彼も気に入らない事があったら子供みたいにずっと嫌だ嫌だと駄々をこねる。
そんな男を見てると私は心底吐き気がした。おじさんの癖に女が大好きで、常に酒と女に溺れて、稼げる自分にすら酔って溺れている。私たち夫婦は酩酊しているのだ。
「龍樹そんなんじゃパパに似ちゃうよ?」
「ママはパパの事きらいなの?」
「きらいじゃないよ」
子供はいい。大人は子供のために優しい嘘をたくさん用意している。達也も私に優しい嘘を用意しておいてくれれば私は彼をこんなにも憎む事はなかったかもしれない。
私は龍樹を抱きしめると達也をほんの少し思い出した。達也の遺伝子を半分受け継いだこの体は彼のものとは違い柔らかくてすぐに死んでしまいそうだ。
龍樹は小さな手で私を抱き返す。その手はあと20年もしたらあの男と同じ手になるのだろう。
私を抱きしめ、手を握り、涙を拭った彼と同じ手に。私はなんて罪深いものを産んでしまったのだろう。愛おしくて憎たらしい男の子供だなんて、私の人生には重すぎる。
「ママ泣いてるの?」
「龍樹はママのこと好き?」
「すきだよ」
私は窓のカーテンを開けて深呼吸をした。
この窓から飛び降りたくても高層階のタワーマンションの窓は元から施錠されて開かなくなっているためそれすら許されない。
「今日はね流れ星がたくさん見えるんだよ」
「ママはお星さまがすきなの?」
「うん、お星さま好きだよ」
「じゃあぼくお星さまになってあげる」
龍樹の言葉に私は心臓が止まった。
指の先から唇まで、身体中の血液が凍りつくような感覚に襲われる。
龍樹は言葉の意味なんて分からない。そうなのに私は無意識のうちに彼に私と同じ自殺願望を植え付けていたんじゃないかと恐ろしくなった。死んだ人間が星になるなんてファンタジーだけど龍樹は幼稚園かどこかからそんな言葉を聞いてきたんじゃないだろうか。
「ママは僕のことキライ?」
そんな事あるわけないじゃない。
すぐにそう言ってあげたかったのに私は溢れる涙と血の気の引いた唇のせいで言葉が何も生まれてこなかった。すがるように私に手を伸ばす龍樹がまるで達也の手みたいで私は思わずそれを振り払う。そして私は恐怖に突き動かされたまま車の鍵をバックに入れて立ち上がった。
ママ。そう呼ぶ龍樹の声を無視して玄関から外へ飛び出し鍵をかける。
分厚い玄関は龍樹の泣き叫ぶ声も遮断した。そしてもう二度と私はこの玄関の扉を開ける事はないだろうと思った。何故だかは分からないけど、そう確信していた。
急ぎ足で地下の駐車場に向かい車に乗り込むと目の前の駐車場に赤いレクサスが入っていくのが見えて顔を上げる。レクサスのライトが消えると乗っている達也と目が合った。彼が日曜日以外に帰ってくるなんて何ヶ月ぶりだろう。
達也は顔色一つ変えずにいつも通りの堅苦しいスーツで車から降りると私を一瞥してエレベーターの方に向かって歩いて行った。
「馬鹿みたい…」
彼は私になんの声もかけずにそのまま立ち去っていった。
私はそのままアクセルを踏んでこの牢獄のようなマンションから逃げ出した。
部屋に入った達也は泣き喚く龍樹を見てどう思うだろう。
母親失格だと私を殴るだろう。そして机の上の空き缶をみて飲酒運転の犯罪者だと罵るだろう。
でももういいのだ。これでいい。
だってあの瞬間
あのカーテンを開けた時、龍樹の手が私に伸びてきた時
私は龍樹を殺して自分も死のうと思った。
私は他の母親みたいに強くはない。
私には龍樹だけでは駄目なのだ。
達也は会社の後輩と不倫している。
それを知ったのはもうずっと前だ。龍樹を出産してすぐ私は彼の異変に気づいた。
探偵を雇い知ったのは彼が私と同期で入社した営業の中里美穂と付き合っていて、2人で暮らすマンションも契約しているってことだ。中里美穂は冴えない女だった。私は毎日受付の椅子に座って安っぽい黒のヒールのかかとをすり減らして働いている彼女がキライだった。田舎くさくって、垢抜けなくって、貧乏くさい。あんな女に生まれなくてよかったとすら思った。
だから達也が彼女と不倫していると知った時、私の世界は逆転した。
何が幸せか分からなくなった。
だって私は元々人より恵まれているはずなのに、私の手元には何も残らない。
押し付けられた愛情の塊だという龍樹を私は歯を食いしばりながら育て、涙を堪えて愛を与えた。そうすることによって無理矢理自我を保っていたのだ。
首都高速に乗り、空を見上げてると沢山の星が流れていた。
私の願い通り私の世界は滅亡した。
バックの中では携帯電話がひっきりなしになり続けている。
私は思いっきりアクセルを踏んだ。
首都高は私をどこにでも運んでくれる。
私は全てを手に入れた筈だった。
世界で一番大切な宝物を与えられた筈だった。
でも私はそれを全て投げ捨てたのだ。
夜空には無数の星が私に降り落ちてくる。
私が今まで我慢した分の涙が星になって降り落ちているのだ。
私はそれに対して何度も祈りを捧げる
アクセルを踏み込み前を向いた瞬間、私はカーブを曲がりきれずに壁に黒いベンツをめり込ませた。そして地球の重力を忘れたように車はふわりと浮き上がり、私の真正面に星空が見える。
私の目の前に広がる闇と星の光りがあまりにも綺麗で、私は来年も流星群はあるだろうかと思った。もしあったら来年は龍樹と見よう。
そして車は一回転し、私の目の前に車のライトが見えた。
大きな音で耳は潰れた。
もう目の前は真っ暗だし、体の感覚もない。
きっと隕石が墜落してきたのだ。
そうに違いない。
だって、私は流れ星にずっと祈っていたのだから。
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