第10話

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第10話

大学三年生は結構重要だと思う。 就職か、進学か、それとも別の道に進むのか。それぞれが自分と向き合わなければいけない一年。たいていの人間は、何も考えずに四年生になり、就職活動に突入する。 サークルの先輩たちもそうだった。中にはバンドで食っていくと高らかに宣言して卒業した人もいたが、それは本当に稀なケースだ。ほとんどの人が、就職して、それなりに頑張って働いて、結婚して、子どもを育てる。たぶん、それが一番目に見える形の「幸せ」だから。わざわざリスクを冒してまでも、目に見えない幸せなんて追い求めている時間も暇もない。 六月になると、ゼミやサークルの同期たちがやれインターンだの、やれエントリーシート書かなきゃだの騒ぎだした。就活戦線はもうとっくに始まっているらしい。今のところ周りのヤツらはオールグリーン、異常はなさそうだ。俺は皆の健闘を祈りつつ、とくにそれらしいこともせずに、相変わらずぼうっと日々を過ごしていた。 ひとつ成長したことがあるとすれば、高校生のころとは違い、俺はそういうヤツらのことを本当に偉いと思えるようになった。あのときは、ロクに自分と向き合いもせずに、ただ何となくという理由で、もしくは周りに流されて大学受験しようとする同級生を内心見下していた。 あれから三年たった今、分かったことがある。人生はマラソンだ。一般的に言われていることを、大学生にしてようやく実感した。 大多数の人間が、よーいどんで一斉に走り始める。スタートダッシュを決める者、早々に根を上げる者、周りにあわせてペースを刻む者。あれは、まさしく人生ってやつなんだ。 最初はばらつきがあっても、ほとんどの人が集団になって走ることを選択する。あの集団のなかで、隣の人間と競争して、ときには協力して、きちんと遅れずにペースを合わせて走る。それって結構難しいことなんじゃないか。少なくとも、俺にはそれができない。だから、何のためらいもなく就職活動に飛び込める同期を少し羨ましく思っていた。 周りにあわせて生きるには、俺はいささか内省的すぎた。自分の世界ってやつを繰り広げて、そこに定住していた。人気のない森で、一人テントを張って生活するように。 ふつうの人間は、歩きながらものを考えるとき、日記に何か書くとき、本を読んで感想を考えるとき、たぶんほとんど理路整然としていない。すごい、楽しい、ヤバい、辛い。そんな感じだ。脳内は雑然としていて、砂漠にチョコフォンデュがあるような突飛さを、さも当然のように受け入れている。それは別に悪いことじゃない。心が感じることと、頭で考えることと、口にすることと、文字に書くことは、全部違っているからだ。 一方の俺は、考えたことや想像したことを、必ず脳内で文章にしてしまう。起承転結があるか、物語としてはおもしろいか、誤字脱字がないか、そういうのを脳内でいちいち広げては畳んでいる。紙に書く必要がなくても、だ。時には登場人物たちに、俺の言葉を預け、会話を楽しむこともある。残念なことに、たいてい、そういうことをやっているヤツは友だちがいない。し、暗い。本当に残念だが、俺も例にも漏れず、それに該当している。 自分の中でいろんなことが完結してしまうから、外の世界を求めない。だから、他人と交流することが苦手になる。そうやって、俺は全人類強制参加の人生という名のマラソンから、早々に脱落していた。 そういうわけで、俺は就活をしないという選択をしたのではない。就活をする、という選択肢がもとからなかったのだ。 就活をしなかった理由はほかにもある。バンド活動が軌道に乗ってきたのだ。 俺は、大学入学当初にサークルで声を掛けられた人たちと、スリーピースのバンドを組んでいた。そこでは、ボーカルとギターを担当している。最初から、メンバーはかなり真面目に活動したがっていて、積極的にライブハウスで演奏を続けていた。 いくつかのライブハウスのオーナーからよく声を掛けてもらえるようになったし、最近ではレーベルや事務所の偉い人が、俺たちのライブを訪れるようになった。軌道と言っても、ブラックホールに巻き込まれるのはなんとか回避したくらいのものでしかないが、俺にとっては、いや俺たちにとっては大きな進歩だった。 音楽で生きていく、という大きな目標は、形を変えて俺の世界に依然居座り続けている。それは、俺の人生に音楽があってほしいという、祈りにも似た夢だった。ここまで大きくなってしまったからには、もう腹を括るしかない。俺はこの先もバンドを続けていく。メンバーとも、経緯は違えど、バンドを続けたいという思いは一致していた。 ✳︎ 今日、俺たちは下北沢のライブハウスを縦断して行われるフェスに出演していた。新進気鋭のバンドから、大きなライブハウスを埋めるような有名バンドまで出演する、雑多なイベントだ。毎年恒例となっているイベントで、夕方から夜中まであらゆる場所でライブが行われている。お祭りのようなものだ。あ、フェスティバルはお祭りか。 嬉しいことに、今回のイベントはソラさんのバンド天空とも一緒だった。俺たちは中くらいの規模のライブハウスで一番最初に出演し、彼らは一番大きいライブハウスのトリを務めていた。 ライブ終わりの打ち上げは、演者がほとんど参加していたのでかなり大所帯だった。貸し切りの居酒屋で、おのおのが好き勝手に騒ぐ。もちろん、人気者のソラさんとは話す機会もなかった。 「天空のみなさん、SNS用に私たちとお写真撮ってくださいませんか」 遠くの座敷で、ソラさんが女の子たちに声を掛けられている。四人組の可愛い格好をしたアイドルのような女の子たち。今日俺たちの後に演奏していた子たちだ。キュートで小柄な見た目とは裏腹に、激しいロックナンバーを奏でるところが年齢性別問わず人気の秘密らしい。つい先日、大学近くの書店で立ち読みした雑誌に書いてあった。 真ん中の女の子が、顔を真っ赤にして、ソラさんに話しかけている。ああ、好きなんだろうな、とすぐに気づく。それを知ってか、周りの大人もニコニコしている。 「うん、もちろん」オレンジジュース片手に、ソラさんは軽やかに笑う。 ソラさんは、すぐにほかのメンバーにも声を掛ける。もうちょっと寄って、はい鷹弥は笑って、ソラは変顔しないで。天空のマネージャーがきびきびと指示を出している。彼女たちのマネージャーらしき人がシャッターを押す。 「あの、これとは別に、二人で撮ってくれませんか」 さっきの子が、隣にいるソラさんに小さな声で話しかけている。おお、勇気あるな。周りも同じことを思っているだろう。どちらのメンバーはも何も言わずにそっと解散する。アンタらも優しいな、と俺は心の中で呟く。 「いいよ。またマネージャーさんにお願いする?」 「あ、いえ、インカメラで」ポケットから自分のスマホを取り出している。 自撮り?わあ、なつかしい。え、これ角度急すぎない?このほうが盛れるの?そうなんだあ。え、もっと近く?あ、ソラが写ってないの?これでだいじょうぶ? ソラさんは彼女にぴったりとくっつき、変なポーズをしていた。距離の縮め方が相変わらずだなあ、ともはや呆れに似た感心を胸に抱きつつも、二人のやりとりを眺める。 ソラさんの顔が近づくたびに、女の子は顔を真っ赤にしていた。 「この写真、とっても素敵に撮れたね。これもSNSに載せてね」 彼女はこくこくとうなずいた。 きっと彼女は今日の写真をどこにも載せずに、大切にするのだろう。たいへん甘酸っぱい。 人気者のソラさんとは違い、タカヤ先輩は隅っこで一人晩酌をしていた。仮にもトリのバンドメンバーがこんな扱いで良いのかと思うが、この人はあまり騒がしい場を好まない。空気のように端っこにいた。あとの二人は、それぞれ違うバンドと交流しているみたいだ。 俺も先輩と同じ人種なので、隣の席に腰を下ろす。 「おまえ、留年してんじゃねえよ」俺に気がついた先輩は、真剣な目で怒っていた。 「え、何で知っているんですか」不意をつかれた攻撃に驚き、間抜けな声が出てしまう。 俺は大学四年を目前にして、すでに留年が決定していた。どれだけ授業を休んだんですかあなた、と教授には呆れられ、同級生にはおまえならやると思ったと笑われた。 「空から聞いたんだよ。大学の授業は退屈かもしれないがな、いやモノにもよるとは思うが、寝ててもいいから出席だけはしろ。おまえ、卒業が難しい学科にいるわけじゃないんだろう。とにかく次できちんと卒業しろ」 タカヤ先輩の力説に呆気に取られてしまった。思わず、はあ、と気の抜けた返事をしてしまい、先輩に鋭い目で睨まれる。 「善処します」 「政治家みたいな言い方はやめろ」タカヤ先輩はけたけたと笑った。 話を変えようと思い、適度な話題を探した結果、「ソラさんっていつも人気者ですね」という当たり障りのない話題に行き着く。 「天空の人気はソラがいてこそだよ、ほんとうに。もちろん、技術面でもソラがいないと厳しいがな」 お酒のせいか先輩は饒舌だった。普段なら無視されるはずのどうでもいい話題にも付き合ってくれる。 「高校生の頃から仲良しなんですか」ギター以外は高校の同級生だ。 「仲良しかどうかは知らんが、バンドはずっと続いている」 「どうしてギターが増えたんですか」 ジョッキをテーブルに置き、先輩は俺のことを鋭い目で見た。 「おまえ、言い方には気をつけろよ。おまえはたぶん、『どうして四人にこだわるんですか?』って言いたいんだろうが、今の言い方だと、『ギターがいなくても良かったんじゃないですか?』って言っているように聞こえるぞ。ギターのあいつに失礼だ。俺は付き合いが長いから、おまえが言いたいことはなんとなくわかるし、おまえがそんな失礼なことを言うヤツじゃないって理解しているが、おまえのこと知らないヤツが聞いたら、絶対勘違いする」 「すみません」 お酒が入ると言葉が多くなるのが、先輩の良くないところ。もとから言葉が少なすぎるのが、俺の良くないところ。 「わかればいい。俺も同じ部類の人間だからな」 悪魔みたいな顔をして先輩は笑っていた。酔っ払っているのだろう、今夜はとびきり饒舌だった。 「いつだったかな、ソラがいきなり言い出したんだよ。『バンドは四人じゃないといけないね』って。おまえもわかっていると思うけど、あいつ、ギターもめちゃくちゃ上手いのよ。ずっと練習しているから、当たり前っちゃ当たり前なんだけどな。だから、技術的には三人のままで問題なかった。まあ、ギターがもう一本増えることで、やれることも増えたから、結果オーライなんだけど」 「ソラさん、前に『ビートルズが好きな人が好きだった』って言っていました。だから、四人にこだわっているんですかね」 「ああ?」先輩は訝しげな顔を向ける。少し考えてから、ああ、とひとりごちる。「あの子はビートルズが好きだったのか」 「その人ってどんな人なんですか」という俺の質問は、「なんで?どうして?」という大きな声にかき消された。姿は見えないが、ソラさんの声だった。 「ねえ、ソラの何がいけなかったの?」 それまでめいめいに騒いでいた宴会会場が、波を打ったように静かになった。 皆、声のする方をじっと見ている。 場の空気が冷えるのを肌で感じた。ソラさんが何かに対して怒っている。声のするほうに顔を向けると、一緒に会話を楽しんでいた女の子の顔が青くなっているのがわかる。なにか彼女がソラさんを怒らせるようなことを言ったのだろうか。女の子は、あの、ごめんなさい、としきりに謝っていた。 ソラさんの声は、怒っているというよりも、なにかに悲しんでいるようにも感じた。声には、怒りと悲しみと焦りが含まれていた。まるで、迷子になった子どもが、親を求めて彷徨っているような声だった。 「だれだ、ソラに酒飲ませたのは」 先輩が舌打ちをして席を立つ。「どうしてマネージャーが見張ってねえんだよ」と怒っている。少し離れた所にいるギターとドラムがこちらを見る。その目には緊張感が走っていた。なんとなく、俺も先輩のあとに続く。 「すみません。この子、お酒弱いんです。疲れているとすぐこうなっちゃうんだ。あなたに対して怒っているわけじゃないから」 先輩はソラさんに近づきながら、大きな声でそう言った。まるで、周りにいる人全員にそれを知らせるように。 「私、何か失礼なことを」振り向いた女の子は、ほとんど泣き出しそうだった。 「ちがうちがう」 「じゃあどうしてでしょうか。ソラさん、何に怒っているんですか」 「何にって、」タカヤ先輩は、大人びた服を身に纏う少女をまっすぐ見て、彼女の問いについて考える。「強いていうなら昔の自分」 ソラさんの手からビールを取り上げ、なんでもないことのように早口にそう言う。丁寧だけど早口な喋り方に、彼女にそれ以上質問させないような強さを感じた。 「とにかく、あなたは何も悪くない。迷惑をかけてすまなかった」 先輩は、ぐったりとしているソラさんを抱えて外に出ていった。脇に置かれたビールは、半分も減っていなかった。 ソラさんは泣いているように見えた。 ✳︎ 食器の音ひとつ聞こえなくなった会場の空気の弛ませたのは、たぶん天空と長い付き合いのバンドたちだった。涙がこぼれる寸前だった少女のもとに自然に集まり、つまらない宴会ネタを披露している。彼女のバンドメンバーも駆け寄り、少女の顔にはすぐに笑顔が戻った。 俺は、先輩を追いかけて居酒屋の外に出た。 手ぶらで夜の街に出たことを後悔していた矢先、すぐ近くの公園に天空のメンバーはいた。大きな声が聞こえてきたので、すぐに分かった。 「ちゃんとごめんなさいって言えなかった。ソラが傷つけた。サトコもソラも元気に生きているのに、もう会えないの?どうして?ソラがこんな格好しているからダメなの?どうして勝手にいなくなっちゃたの?」 子どものような泣き声が聞こえてくる。それがソラさんの声だと分かるのに、少し時間がかかった。迷子の子どもが泣いているのかと思った。 声のする方に静かに近寄ると、薄暗い公園のブランコに人が座っていた。街灯のおかげでそれがソラさんだと分かる。暗闇でも銀色の髪が鈍く光っていた。ドラムの髭男が、彼の手を握り何か言っている。隣のブランコには、ギターの男が静かに座っていた。 「ずっと一緒って約束したのに。サトコのうそつき」 ソラさんの声は親に捨てられて子どもみたいだった。事情は知らないのに、その切実さに胸が痛む。 「おまえにも迷惑かけたな。あとはあいつらに任せておけば大丈夫だ」 突然、うしろから声を掛けられる。驚いて振り返ると、先輩がペットボトルの水を持って突っ立っていた。泣きじゃくるソラさんを見つめていたので、足音に気付かなかった。 「どうして、」 どうしてあんなに泣いているんですか。どうして大丈夫なんですか。どうしてそんなに寂しそうに笑っているんですか。 聞きたいことはたくさんあった。なのに、どう言えばいいのか分からなかった。 「どうして、ソラが泣いているのか?」 「はい」たくさんの疑問の中から、ひとつを先輩が拾う。 「長い話になるよ。ちょっと散歩しながら話そうか」 先輩は、やはり寂しそうに笑っていた。 ✳︎ それは、彼らが高校生だったころの話だった。 ソラさんには大好きな女の子がいた。ふたりは全然違うタイプなのに、びっくりするほど仲が良かったそうだ。 「サトコちゃんっていう女の子。聡い子、って書いて聡子。名前の通り賢くて、とびきり綺麗だった。でも、全然笑わない子だった。一年生のころ、クラスの女子にやっかまれて、‘氷の女王’って呼ばれていたくらい。女子高生って残酷だよな」 先輩の乾いた笑い声が、夜空に吸い込まれる。 「最初は俺たちも不思議だったんだよ。どうして二人が仲良いのか。なんせ月と太陽くらい全然違うからな。まあでも、ソラが仲良くするなら悪い子じゃないと思ってさ、俺たちは黙って見守っていたのよ。あるとき、『おまえが仲良くするんなら良い子なんだろ?』って聞いたら、ソラはなんて言ったと思う」 先輩は俺に尋ねている、という感じではなかった。俺の答えを待たずに、話を続ける。 「『サトコはサトコだよ』ってさ。あいつの愛し方はすごいよな。純粋で一切の穢れがなくて、ときどき怖いくらいだ」 先輩のその感覚は理解ができる。ソラさんの対人関係は、畏怖の念すら覚えるものだ。あの穢れのない愛情を受け止めるのは、たまにしか会わない俺ですら怖くなるときがある。 「どうして別れちゃったんですか」 「別れた?」 ちらりと俺の顔を見て、それから納得したように「ああ」と呟く。 「喧嘩したんだって。そこら辺の詳しい事情は、ソラもあんまり教えてくれないんだ。ちょっとしたことで言い争いになって、聡子ちゃんが走り出した。点滅する信号を渡ろうとして、」 「亡くなったんですか」 「いや、轢かれそうになったけど大丈夫だった。ただ、彼女を庇ったソラが怪我をした」 「それで」 「怪我自体は大したことなくてさ。たしか、一番ひどかったのが右腕の骨折かな。あいつ今は左利きだけど、昔は右利きだったんだよ。リハビリの間に左利きに切り替えたんだ」 本当に器用なんだよなあ、と感嘆のため息をつく。彼が本心から、ソラさんのことを尊敬して大切に思っていることが、伝わってくる。 「意識もはっきりしていて、ほとんど血も出てないのに、聡子ちゃんはかなり取り乱したらしくて、わざわざ救急車まで呼んだそうだ。彼女、泣きながらずっと謝っていたんだって。びっくりした、ってあとでソラが笑いながら教えてくれた」 「でも別れたんですか」 「正確には、いなくなった、かな」 「いなくなった?」 「その日は夜遅かったから、ソラは病院に泊まっていったんだ。それで、次の日、家に帰ったら、聡子ちゃんがいなくなっていたんだって。荷物一式、全部なくなっていた」 「ふたりは一緒に住んでいたんですか」 「ああ」説明してなかったな、と先輩はまたしても独りごちる。 その言葉に、つい最近まで俺が彼らの部外者であったことに気が付く。そして、現在進行形で部外者であることに、少し傷ついている自分がいた。 「いなくなったのはハタチのときの話ね。俺たちは全員、高校卒業と同時に地元を出て、東京で生活していた。三人とも、こっちの大学に受かったからな。聡子ちゃんも同じ理由で東京に来ることになって、それで、ふたりは一緒に暮らしはじめたんだ。ソラは彼女の話をあまりしたがらなかったし、俺らもわざわざ聞くほどでもなかったから、二人がどんな生活をしていたのかは知らない。だけど、少なくともソラは幸せそうだったよ」 「今、その人とは連絡も取れないんですか」 「俺たちは彼女の連絡先を知らない。でも、ソラはたぶん連絡できるんだよね」 「じゃあなんで」連絡できるのなら、電話でも何でもして会いに行けばいいじゃないか。 「それが出来ないのがソラの難しいところなんだよ」 先輩は夜空を見上げ、「東京は星が見えねえよな。ジャングルのくせに」と、訳の分からない文句を言う。 「あいつさ、全人類平等に愛してるじゃない?」湿っぽい笑い声がコンクリートに吸い込まれる。「自分と関わる人全員を無条件で愛し、その人たちから同じように愛してもらうことに、一切の抵抗がないのよ。わかる?」 「なんとなく」 「それって本当にすごいことなんだよ。でもさ、裏返すと、あいつは人に嫌われたことがないんだよね。いや、もちろんないことはないとは思うんだけど、面と向かって拒絶されたことがない。だからさ、人に嫌われたときの対処の仕方がわからないんだよ。こと自分が大好きな人が、自分のことも大好きなのは、当然の理だと思っているから、聡子ちゃんの行動が余計わからないんだ」 「サトコさんが、ソラさんのことを嫌いになったとは限らないんじゃないですか」 「そうなんだよ。俺もそう思う」先輩ははっきりと言った。「あの子は、自分だけの庭に咲いている草木を育てるように、とても丁寧にソラに接していた。毎日水をやって、花が咲く日を待ち望んで太陽に祈りを捧げ、慈しむ。彼女はそういう愛し方をする人だった。ただ、特に人間関係に対してひどく繊細でもあったから、あの事故で動揺してしまっても無理はないと思う」 「でも、なにも突然いなくならなくてもいいじゃないですか」 先輩は乾いた声で笑う。「おまえは聡子ちゃんのことを知らない。知れば、きっと、彼女のことを好きになる。ちょっと臆病で、ひどく丁寧に人を愛す、そういう子だ」 先輩が見たこともない優しい目をしていたので、俺は何も言えなかった。 「知らない人の話をしても困るよな」再び彼は笑う。先ほどとは違う、湿り気を帯びた笑い声だった。「ソラもちろん聡子ちゃんの優しさを知っている。だからこそ、嫌われたかもしれない、という強い思い込みだけで、あの子は何年も何年も勝手に傷ついている」 いつか壊れちゃうんじゃないかって心配なんだよ、と泣き出しそうな声で零す。俺は、そんな声を出す先輩を知らなかったし、ソラさんの葛藤を何も知らなかった。 はたして今はまだ壊れていないとは言えるのだろうか。彼らの反応を見るに、ソラさんが泣き出すのは今日がはじめてではないのだろう。ああやって、自分の内側に堆積する感情を少しずつ発散することで、悲しみを飼いならし、ぎりぎり保っているだけなんじゃないか。たとえば墓標に花を手向け、枯れないようにと祈りを捧げるように。ソラさんの傷は、俺が想像しているよりもきっとはるかに深い。 周りの人間に謝り、手を握り、横で黙っていることしかできない彼らもまた、部外者にすぎないことに気づく。ソラさんの世界は、誰に対しても開いているように見えて、実は、誰に対しても固く閉ざされているのかもしれない。きっと、サトコさんしか扉の開け方を知らない。 「俺たちは彼女の連絡先を知らないから、どうすることも出来ない。それ以来、ソラは暗い曲しか作らなくなったし、変なことにこだわるようになった。いちいち聞かないけど、それは全部、聡子ちゃんに関わる何かなんだと思う。きっと、忘れないように必死なんだ」 四人組にこだわり、ビートルズに関連する本を読み漁るのは、彼女を忘れないための行為だったのかと、今ようやく思い知る。昔の恋人との甘い思い出に縋っているなんて、そんな生易しいものじゃない。それは、もうほとんど呪いじゃないか。 ソラさん、あなたはいったい何者なんだ。なんのために歌っているんだ。 俺は訳もわからずタカヤ先輩を見つめた。なんだよその顔、と先輩は笑った。彼の顔もまた、普段の厳しい先輩にはとても見えなかった。 「さて、結構時間も経ったし、もう大丈夫かな」 話しながら歩いていたら、ちょうど公園の近くまで戻ってきていた。薄暗い公園の中、ブランコのまわりには、まだ人がいるのが見える。 「あいつらのところに戻るけど、おまえはどうする」 「俺は居酒屋に戻ります」 「まあ、だろうね。今日の話は聞かなかったことにしてほしいとまでは言わないけど、少なくとも、おまえはソラの前では変わらずいてやってくれ」 「はい」 「あ、それと。ソラは女だよ」 「え」自分でも驚くくらい大きな声が出てしまい、「うるせえよ、ご近所迷惑だろうが」と先輩に諌められる。いや、実際に驚いていた。先輩が言ったことが、うまく理解できなかったからだ。 「なぜか男だと思っているヤツが結構いるんだよな。俺らのバンドは女から人気あるし、事務所が戦略的にソラの性別を公表していないから、間違えてもしょうがないかもしれないけどな」先輩は快活に笑った。「あいつは気にしてないけど、大人に利用されているようで、俺としてはちょっと癪なんだよな。ま、たしかに、変な髪型しているよな、あいつ」 「ソラさんは女の子が好きな女の子なんですか」 だとすると、さっきの話もまた違った意味を持ち始める。 「あ?知るかよそんなの。ソラはソラだろ」 いつもの仏頂面をかまして、センパイは公園の方へ駆けて行った。 「おまえは誰だ?」 センパイは大股で公園を歩きながら、ソラさんに向かって大きな声を出した。その言葉に、弾かれたようにソラさんは顔を上げると、しっかりとした口調でこう言った。 「ソラは天空のギターボーカル」 「そうだ。おまえは人気急上昇中のバンド、天空のギターボーカルだ。わかっているならそれでいい」 「ごめんね、もうお酒飲まないから」 「来週もライブあるんだから喉潰さないでよね。もう大きな声でしゃべるの禁止だよ」 ドラムの髭男の声で空気が和らぐのを感じる。ようやく春らしい気温を感じることが出来る。 「ええ、それは困る」 この人たちはこの人たちなりにソラさんを支えているのだろう。脆くて、儚くて、危うい関係だけど、彼らはソラさんとの繋がりを決して諦めない。天空というバンドは、ソラさんのワンマンなんかじゃない。この人たちに支えられて、ソラさんは頑張っている。天空のソラさんが成立できているのは、まぎれもなく彼らの優しくも厳しい視線のおかげだ。 ふと思う。俺はいったいソラさんに何をしてあげられるのだろうか。
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