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第11話
「お疲れさまです」
タイムカードを切るジジジという音が聞こえる。つられて顔を上げると、まだ午後の三時だった。三村くんはタイムカードを片付け、ギターを背負う。ここのところ、彼は早上がりのことが多かった。きっとバンド活動が流れに乗ってきたのだろう。今日も今日とて、彼は会社にギターを持ってきていた。
「練習?」と、コピー機の近くにいた先輩が話しかける。
「今日は収録です」
「へえ、結構ちゃんとバンドしてるんだね」
「かなり、ちゃんと、バンドしてますよ」
「ただのフリーターかと思ってた」
「今はただのフリーターですけどね」
三村くんは照れ臭そうに笑った。会社用のサンダルを脱ぎ、スニーカーに履き替える。
「あ、ねえ、そういえばさ、」
先輩社員の声に、彼は顔を上げる。
「この間、渋谷のライブハウスで三村くん観たよ」
「あ、ほんとうですか。えーどこのバンドのライブだろう。恥ずかしいな、俺ひとりでしたよね?すみません気がつかなくて。あ、でも声かけてくださいよ。俺と先輩の仲じゃないですか」
「あ、違う違う。君が、演奏して、歌っているのを、観たんだよ」
あのなんだっけなあ、どっかのバンドの対バンだよ、と先輩がライブの名前を思い出そうとしている。二人の会話に耳をそば立てていると、どうやら先輩はマイナーバンドが好きな恋人に連れられて、そこへ行ったらしい。
「マジですか」
「マジです」
「それは、ちょっと、恥ずかしいですね」
三村くんはかなり動揺していた。口に手を当て、これから帰るのだというのに、さっき履いたばかりのスニーカーを脱ぎ、また会社用のサンダルに履き替える。
「君、ふだんはあんな感じなんだね。悪くないよ、ああいうクールな感じもモテそうだ」
「カッコつけてるの、バレバレでした?」
「うーん、音楽のことはよくわからないけど、」先輩は真っ赤な顔をしている三村くんを見上げた。「すくなくとも、私は君の立ち振る舞いに釘付けだったよ。ステージの明かりに照らされている君はとんでもなく神々しくて、どんな些細な動きも見逃しちゃいけない、って思った」
「あ、そうすか」
三村くんは、先輩を見下ろしたままの姿勢で固まっていた。
「そうっす」えー、なにもう可愛いんだけど。ちょっと、この子、可愛いわよ。と先輩社員がはしゃいでいる。
「そういえばさ、あとから出てきたほうのバンド、凄かったね」
「ああ、」と彼の口元が綻ぶ。
「彼氏が結構なファンなんだよね。素人目に見ても演奏上手いし、ボーカルの子の歌声もやたらグッとくるし。私、初めて観たけどちょっと感動しちゃった」
「わかります」
「なんだっけ、あのバンドの名前」
「天空ですね」三村くんと目が合う。
「あ、そうそう。英詞の曲しか歌わないのに、漢字の名前のバンドだ」
「変ですよね」
「ボーカルの男の子、とびきり可愛いよね。漫画のキャラクターみたいで。いくつなんだろ」
「男の人に見えますか」
「え、違うの?たしかに中性的な雰囲気の男の子だなとは思ったけど」
「どっちなんですかね。俺もそんなに親しくないので知りません」
「えーなにそれ。めっちゃ気になるんだけど」
三村くんは、先輩が困っているのが面白かったのか、眉毛を下げて笑った。
「まあ、俺としては正直どっちでもいいですね。男だろうが女だろうが、あの人がすごいフロントマンなのには変わりないですし」
三村くんが、話の中に登場するフロントマンを心から尊敬しているのは誰の目にも明らかだった。先輩は、帰りしなに引き止めてごめんね、と言い、仕事へ戻っていった。
私は、彼が私に近づく理由がうっすらとわかった。それにしても、なぜだろう。あの子を傷つけた私に近づいても、何もいいことはないというのに。あの子にとっては、私という取るに足らない存在は、もう何でもないただの思い出だろうに。
私は彼に気づかれないように、小さく息を吐いた。
三村くんは何も言わず、そんな私のことをじっと見つめていた。
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