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第12話
「フリーター」には「フリー」、すなわち「自由」が含まれている。「自由」とは、若者が恋焦がれているものの総称。かれらが漠然と憧れているもの。一昔前の若者は、「自由」が欲しくて、盗んだバイクで走りだしたり、校舎の窓ガラスを割ったりしていたらしい。
例にも漏れず、漠然と「自由」に憧れていた俺は、幸か不幸か、大学卒業と同時にそれを手にしてしまった。というか、身分が「自由」。つまり、フリーター。
一応、偏差値の高い大学に通っていたので、就職せず、当面はアルバイトとバンド活動の二足のわらじで生きていこうと話すと、親は激怒したし、教授にも呆れられた。最終的には全員諦めるように納得をしてくれた。そもそも、単位が足りずに一年留年しているので、もうどうにでもなれ、という感じなのかもしれない。
どうも「自由」というものは、大人から見たら不安要素のひとつらしい。こちらとしては、バイクを盗むつもりも、窓ガラスを割るつもりもないのだが。
今日は「フリーター祝い」と称して、ソラさんと久しぶりに会う約束をしていた。いつものファミレスに、二十一時。春の温い風に吹かれ、心が躍る。もうすぐ夏がやってくる。
「遅くなってごめんね」
待ち合わせの時間を三十分くらい過ぎたころ、ソラさんはやってきた。走ってきたのか、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「打ち合わせが長引いちゃって」
真っ青なトレーナーを脱ぎ、ド派手な黄色いTシャツ一枚になる。ボサボサになった髪の毛を、両手で乱暴に撫でつけながら笑う。こうやって笑っていると、どこからどう見ても少年のようだった。
「お疲れさまです」
「ありがとう」
忘れていたけど、この人、女なんだよなあ、とおかしな感情が込み上げてくる。ソラさんが女であることは、俺にとっては全然どうでも良いことであった。俺は女が嫌いなはずなのに、不思議だ。
あの打ち上げの日から一年近く経過していた。俺はその間、ソラさんにそのことを尋ねることなく、これまで通りファミレスでご飯を食べたり、スタジオで会ったりしていた。あの日、タカヤ先輩が言っていた通り、ソラさんはソラさんでしかなかった。
「ソラさん、女なんですよね」
いつものドリンクジュースを頼み、三杯目に差し掛かったころ、俺はそのことについてついに尋ねた。
あの日、タカヤ先輩からソラさんの性別を聞いたとき、正直俺は動揺していた。そして、咄嗟にこれまでの自分の行動を振りかえった。なにか失礼なことをしていないか、不快な思いをさせていないか。同性にするように会話をしていたから、もしかしたらソラさんの気に障るようなことを口にしてしまっていたかも知れない。
ソラさんはソラさん。そうわかっていても、心のどこかで焦っていたのは事実だった。そんな俺を見兼ねたのか、ただ目障りだったのか、後日、タカヤ先輩は俺にこう言った。
「俺はおまえが男だから、仲良くしているわけじゃない。おまえが女でも、男でも女でもなくても、俺はおまえのギターが好きだよ。わかるだろう?」いつもの悪人顔で笑うと、続けてこう言った。「曇ったレンズを外して見るんだ。それだけでいい。かつて誰もができたことだ。今だってできるはずだろう」
先輩の言葉の真意はわからなかったが、俺はいま一度、目の前に座る人をじっくりと見た。
身長は一六五センチくらい。大きな手足と、そのわりに華奢な体。オーバーサイズの変な色の服。男にしては長く、女にしては短い銀色の髪の毛。あらためてソラさんを観察してみると、どこがどうとは言えないが、たしかに女の人に見えた。
それでも、ソラさんはソラさんだ。俺と目が合うと、まるで子どもが親に向けるような顔をして笑った。
「あれ、ミッキー気付いてなかったの」
目をまんまるにして、ソラさんは驚く。その顔がなんだかおかしくて、思わず口元が緩む。
ソラさんは若干驚いてはいたが、嬉しそうでもあった。ストローで遊びながら、愉快そうにしている。俺は、俺の曇ったレンズを外せたのだろうか。今度タカヤ先輩に尋ねてみよう。
「ファンの女の子たちは知っているんですか」
「わかっている子と、知らない子と、両方いるよ。もしソラが男だという前提でバンドを応援してくれている人がいるのなら、ちょっと申し訳ない気もするんだけど。まあ、わざわざ言うことでもないし、黙ってるんだ。あ、それにメンバー全員が性別公開しているわけじゃないしねえ」
事務所が戦略的に非公開にしている、と言っていた先輩の表情が蘇る。利用されているようでいい気がしない、と吐き捨てるように言っていた声が頭の中で響く。
「ソラさんは男の子になりたい人なんですか」
「ええ?そうなのかなあ。ちょっとよく分からないなあ。ソラはソラだから」
ううん、と唸りながら髪の毛をクシャッとする。困ったときのソラさんの癖だ。
「でも、ソラが女だろうと男だろうと、そういうのってソラが歌っているときにはあんまり関係ないよね。あ、歌ってないときも全然関係ないや」
「ああ、まあ、そうですね」
この人も、タカヤ先輩と同じ部類の人間だ。俺はなぜか嬉しくなって口元が緩む。
「それにね、ソラがこんな格好してみても、何かが変わるなんて思ってないよ。全然、思ってない」
ソラさんは思い出したようにそう呟くと、窓際に置いたギターケースにもたれ掛かり、窓の外の人通りをぼんやりと眺めていた。
タカヤ先輩の話によると、かつてソラさんの髪はけっこう長かったらしい。今と同じような派手な髪色で、派手な服装を好んでいたが、制服のスカートは短く、いわゆる女子高生らしい風貌だった。それが、あの事故の怪我から復活するや否や、髪の毛を自分で切ってしまったという。ソラが何を思ってそうしたのかはわからない、ただ、見ていてあまり気持ち良いものではなかった、とタカヤ先輩は言った。
「あ、ごめん。今日は湿った話はなしだよね。やめよう、せっかくフリーター祝いなんだから」
「これで俺も人生の落伍者ですよ」
「いらっしゃい」両手を広げて軽やかに笑う。
「ソラさん、結構稼いでいるじゃないですか」
天空は着実に人気をのばしていた。一時期は頻繁に音楽番組で取り上げられたり、ドラマやアニメの主題歌に抜擢されていたが、彼ら自身は気取らず、必要以上に目立たずをモットーにいつも通り活動していた。地道にコツコツと実力を伸ばす。たぶん、そういうのが一番難しくて、一番強い。
アルバムの売り上げも着実に増えているし、ツアーの動員数も軒並み右肩上がりだ。きっと、そこそこ貯金も溜まっているはずだ。
「ソラももう29だからね。だいじょうぶ、ミッキーもいつかビッグになるよ」
ここ、寒くない?と言いながら、先ほど脱いだ派手なトレーナーを着る。まだ半袖で過ごすには涼しい季節だった。再び乱れた髪の毛を手ぐしで直している姿を見ていると、ふと、疑問が浮かんだ。
「ソラさんって、昔はどんな髪型してたんですか」
「ああ、昔の写真あるかな。見る?」
ソラさんは俺の答えを待たずにスマートフォンを取り出した。難しい顔をしながら、長いこと画面をスクロールをしている。ずいぶん昔の写真まで保存していることに、俺は内心驚いた。
「あ、あった」
スマホを受け取り、画面を覗くと、制服姿の少女が並んで笑顔で写っていた。栗色の髪の女の子が、ダブルピースで満面の笑みを浮かべている。その隣には、黒髪の少女が眉間にしわを寄せながらも口の端を引き上げて、かろうじて笑っている。この少女が笑い慣れていないのが分かる。後ろに写っているのは、海だろうか。水面は太陽に反射して、写真全体を輝かせていた。
「今と比べると髪が長いですね」
「うん」
ソラさんは眉毛を下げて、困ったようにうなずく。右肩を撫でさすり、下を向いてはにかんでいる。恥ずかしいのと、泣きたいのと、悲しいのと、幸せが全部一緒くたになったような、そんな表情をして笑っていた。
「隣に写っているのは、友だちですか?」
「そう、友だち」
小さい声で、しかし、はっきりと「ともだち」と発音した。空気を締め付けるような声に、この人がサトコさんなのだと理解する。見覚えのある、その顔。笑うのが下手な、サトコさん。
「ミッキーは、ソラの格好、どう思う?」声を震わせながら、ソラさんは質問する。
「別にいいんじゃないですか」
「投げやりだなあ」乾いた笑い声が響く。
「いやだって、人生って素晴らしいもののように思えてしまうけど、要約するとだいたいどうでもいいことばかりですよ。生まれて、生きて、死ぬ、それだけですよ。どんなにもがいてみても、偉い人とか神様とかから見たら全部馬鹿馬鹿しくて、全部取るに足らないことなんじゃないですか」
俺がフリーターになったのも、人生という大局から見たら、本当にどうでもいいことだ。ソラさんは俺の言葉に対する感想もなく、ただ黙って窓の外を見ていた。つられて顔を向けると、雨が降り出していた。
ああ、忘れていた。夏の前には梅雨があるんだ。華やかな季節の前には、悲しみの雨が降る。まるで、夏が楽しいだけの季節ではないぞ、と念を押すかのように。
俺たちはしばらく窓の外を見ていた。
「ねえミッキー、さっきの話だけどさ、」突然ソラさんが口を開く。重要なことを思い出したような口ぶりに、俺は少し緊張しながら続きの言葉を待つ。
「偉い人と神さまって別物だよ。いや、神様はまちがいなく偉い人なんだけど、偉い人が神さまだとはかぎらないでしょう」
「なんですか、その言い分」
「ソラ、神さまに関しては一家言持ちだから」
子どもの屁理屈みたいな自信満々な物言いに、室内の空気が軽くなった気がした。
✳︎
「この間知ったんだけどさ」
ドリンクバーが五杯目に差し掛かった頃だった。デザートのパフェを突きながら、何気なくという風にソラさんが話し始める。
「なんですか?」
「ミッキーってさ、名前も苗字もミキじゃないんだね」
「ああ、三村です」なんだ、そんなことか。
「なんでミキって呼ばれてるの?」
「三村は母親の旧姓です。うち、高校に入った頃に両親が離婚したんですよ。それまでは三木って名字だったんです。タカヤ先輩とは当時から知り合いだから、その名残でいまだにミキって呼ばれてます」
「ミキって呼ばれるのイヤだったりしない?」パフェを食べる手を止めて、眉毛を下げて尋ねてくる。
「特に。今さら三村って呼ばれても違和感しかないですよ」
「そう。ならいいんだけど」
ソラさんは何か考えているようだった。
そんなに気にすることでもないのにな、と思うが、こういうとき、俺はどう言えばいいのか分からない。ソファ席に流れる沈黙をごまかすように、店内に流れる安っぽい音楽を聞き、壁じゅうに掛けられた無駄に大げさな西洋風の絵画を眺める。女神さまも天使も、いつ見ても微笑んでいて、俺たちを見守っている。
「俺、小さい出版社でアルバイトはじめたって言ったじゃないですか」
「うん」
「俺に仕事教えてくれるセンパイ、とにかく冷たくて不愛想なんですよ。あ、仕事はできるんですけどね」
「仲良くやっているの?」
ミッキー無愛想だからなあ、とこぼしている。残念ながら、俺はあそこではめちゃくちゃに愛されている。誰を参考にしたかは言うまでもないが、とにかく、彼女に好かれたかった。彼女と対面した瞬間、俺は軽薄そうな得体の知れない男を演じていた。無意識のうちに、だ。自分で勝手に作った設定のせいで、なんども苦しめられた。
「そりゃもう。最初は無愛想でムカつく女だなって思っていたんですけど、意外と良い人で。なんていうか、誠実?すごく言葉を選んで喋る人で、相手のことを絶対に否定しない。あと、人の話を遮らずに最後まで聞くんですよね」
「それは大事だね」
「聡子さん、あ、そのセンパイの名前です。その人、音楽に疎くて、俺がバンドやっているって言っても微塵も興味持ってくれないんですよ。ただ、なぜかビートルズの『Blackbird』だけは好きって言ってて。変な人ですよね」
「うん」
「あと、好きな曲があったらしいんですけど、忘れちゃったんですって。ああ、たしか、猫になりたい少年の歌って言っていたな」
「へえ」
何気無くソラさんの顔を見る。すっと目を逸らされた。
「それで、今度ソラさんのライブに一緒に行くんで。渋っているんですけど、絶対、一緒に行くんで」
「興味ないなら悪いんじゃない」
「ソラさん、俺はあなたに何ができるのかずっと考えていたんだ。あの日から、ずっと」
「あの日?」
「でも、俺にできることなんて何もなくて。あなたたちの人生の部外者だってことを思い知りました。最近登場した新参者でしかない。偶然かもしれないけど、俺は聡子さんに出会った。アンタは俺に優しくしてくれるし、あの人も優しくて、俺はふたりのことが結構好きなんだ。だから、部外者なりにやれることを考えてみた。ただ、それだけなんです」
「ちょっと、ミッキーどうしたの」ソラさんは困惑していた。
「俺がなにを言っているかはわかるだろう。あなたと聡子さんのことを言っているんだ」
俺の言葉に、ソラさんのビー玉みたいな目がまんまるに開かれる。そのまま俺を見つめるから、俺もソラさんを正面から見る。時が止まったみたいだった。壁際の女神も、息を飲んで見守っていた。
ソラさんはぎゅっと目を瞑った。
「でも、」右腕をきつく抱いて下を向く。子どもみたいな仕草だった。
「欲を言えば、俺はあの歌をもう一度聴きたい。陳腐なハッピーエンドでもいいから、幸せなラストを見たいんです」
ソラさんは弾かれたように顔を上げた。それから、まるでスローモーションみたいに固く結ばれた唇を解いた。
「今まで作った曲の中で」と呟き、しばらく宙を見てから、右腕を撫でる手を止めて話し始めた。
「あれだけ幸せな歌だったの。あとはタカちゃんの意向で、英語の暗くてよくわかんないやつしか作ってなくて。今までバンドのためって言い訳してきたけどね、気付いちゃったんだ。ソラね、日本語だろうと英語だろうと、もう幸せな歌が書けない。わからないの、いろいろ全部。どうしたら良かったのかとか、これからどうすればいいのとか。いい年した大人なのに情けないでしょう」
「大人とか、俺にはよく分かりません」
ミッキーももうじゅうぶん大人だよ、とソラさんは笑った。
「海をね、ふたりでよく見ていたんだ。学校帰りとか、塾の帰りとかに。夕日が海に落ちていくのを飽きもせずに眺めていた。そのまま世界が閉じてくれないかな、って思っていたんだ。馬鹿みたいでしょう。そんなこと、サトコは絶対に思っていなかったと思う。彼女はいつでも前を向いて凛としていて、ソラのことなんて必要としていなかった。ううん、誰のことも必要としていなかった」
「本当にそう思っているんですか」
「え?」
「聡子さんが、あなたのことを必要じゃなくなったからいなくなったと」
「だって、そうじゃなきゃおかしいでしょう。何にも言わずにいなくなるなんて」
そこまで口にすると、ソラさんは目を閉じて首を振った。
「あなたはあの人のなんだったんだよ。聡子さんのどこを好きになったんだよ」
「サトコの、どこを?そんなの分かんないよ。気がついたら仲良くなってたんだもん」
「教えてください。あなたはどうしてあの人のことを大切だと思ったのか」
ソラさんは窓の外に視線をやった。その目の先には、きっとここではない景色が映っているのだろう。夜だというのに、眩しそうに目を細めていた。
「たしか、なんとなく隣の席だったから話しかけたんだ。そしたら睨まれちゃって、びっくりしたんだけど、話してみたら全然怖くなかったんだよね。タカちゃんみたいな子だなって思って。そこからどうして仲良くなれたのかは覚えていないんだけど、でもね、サトコの隣にいるのがすごく好きだった」右手で髪の毛を乱しながら考え込み、「なんていうかな、許されている感じ。サトコはやさしいから」と笑った。
ソラさんは「やさしかったから」ではなく、「やさしいから」と言った。この人の中で、まだ彼女のことは現在形なんだ。思い出なんかじゃない。
「どうして優しいと思ったんです」
「言葉をひどく慎重に選ぶから。何か物を言う前にね、警戒心の強い野良猫みたいな顔してじっと考え込む癖があった。相手のこと傷つけないように、ゆっくり喋るの。とにかく、やさしい人だった」
「ああ、わかります」
仕事中の彼女のことを思い出す。はじめてビートルズのCDを渡したとき、彼女は俺の心を探そうとして、とても注意深く俺の顔を眺めていた。結果、彼女が口にした言葉は感謝を表す簡素なものだったが、あの沈黙の時間に彼女の思慮深さを感じ取った。
「だからね、あの日サトコが衝動的に放った一言に驚いちゃって。傷つかなかったと言ったら嘘になるけど、それよりも驚いて言葉が出なかった。そしたらね、サトコの方が傷ついた顔していた。自分の言葉で人を傷つけるのをほんとうに怖がっていたから、自分のことが許せなかったんだと思う。あの一瞬のためらいで、ソラがサトコを傷つけたんだよ」
「ソラさんが聡子さんを傷つけた?なにかひどいことを言われたのに?」
「え、うん、そうだよ」ソラさんは当然のことのようにうなずく。
「だから彼女がいなくなったと。そう思っているんですか」
ソラさんはもう一度うなずく。
「いったい彼女はあなたになにを言ったんです」
「怖い、って」
あ、と間抜けな声が出てしまった。
「サトコは、ソラが怖いって言った。理由はわからない。怖くて、聞けなかった」
歌うときみたいに、冷たくて掠れた声だった。
「でもね、そのあとのソラの対応が良くなかったから、サトコはいなくなっちゃったんだと思う。昔ね、一度言ったことや一度したことは取り消せない、ってサトコが言っていたんだ。人と人との関係ってほんとうに繊細で、壊れたらおしまいなのにね。ほんの一瞬だけど、ソラは選択を間違えたんだ」
「違う」思ったより大きな声が出てしまい、ソラさんが驚く。
違うんだよ、ソラさん。あなたは優しすぎる。あなたも充分傷ついたはずなのに、それでも自分のせいだと思っている。理不尽な理由を自分に押し付け、思い出の中の彼女を守り、自分のことをずっと責め続けている。
話すことをすべて話してしまったのだろうか、ソラさんは背もたれに深くもたれかかった。
俺は言葉を探していた。いつも聡子さんがやるような目をしていたかもしれない。じっくりと、次に口にすべき言葉を手繰り寄せていた。なにが正解かわからないが、今この人が考えていることを全部否定してはいけないことだけはわかった。それは、あの日の聡子さんを否定することになるから。
「ソラさんの選択はもしかしたら間違いだったのかもしれない」
慎重に、慎重に考えろ、と警鐘が鳴っている。と同時に、女神たちが俺の耳元で、思っていることを言ってしまえばいいじゃない、と甘い声で囁く。
ソラさんは野良猫みたいな気配を身体中に纏い、俺をじっと見ていた。
俺は口を開く。
「だけど、壊れたらもう一度やり直せばいいんだよ。人生なんてぜんぶ茶番だ。ちょっとくらい足掻いても問題ない。最悪、死ぬだけだし、最高は天井知らずだ。そういうのって、結構悪くないと思いませんか」
なんだこれ、売れないバンドの歌詞みたいじゃねえか。いや、俺はまごうことなき売れないバンドマンだけれど。馬鹿みたいに青臭いことを言ってしまったことに愕然とする。自分が前のめりになって話していたことに気がつき、軽く咳払いをして深く座り直す。
ソラさんは下を向いていた。寒すぎる言葉に呆れてしまったのだろうか。俺は手持ち無沙汰を紛らわすように、紙ナプキンをいじりだす。
次に聞こえてきたのは、ソラさんの笑い声だった。手を止め、顔を上げると、ソラさんは、いつものような軽やかな笑みではなく、眉間にしわが寄り、口を歪めて怒ったような表情だった。あの人みたいな笑い方だな、と俺は思う。
「茶番は言い過ぎだよ」
ひとしきり笑い終えると、ソラさんはそう言った。
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