第13話

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第13話

「三村くんにまで残ってもらっちゃって、悪かったね」 終わらない仕事を意地になって片付けていたら、社内には、私たち以外はもういなくなっていた。申し訳ないことに、アルバイトの三村くんも一緒に残ってくれていた。 「いえ、今日はなにもなかったので。それより、今日中に終わってよかったですね」 身支度を整え、オフィス内の電気をふたりで消して回る。一応、給湯室の火の元を確認してから会社を後にする。 外に出ると温い風が頬をさらう。季節はもうすっかり夏だった。梅雨の時期に、一生止まないんじゃないかと思うくらい降り続いた雨は、いつのまにか通り過ぎていた。もうあとは真夏へと坂を転がり落ちていくだけだ。 この間から、私は彼との距離を不用意に詰めないように注意していた。彼はたぶんあの子と仲が良くて、それで私に近づいている。どんな目的があるのかはわからなかったが、とにかく彼女の影がちらつく彼には近寄りたいとは思えなかった。 私の警戒心を見抜いているのか、三村くんはいつもより静かだった。隣を歩く彼を盗み見る。彼は、ジーンズの後ろポケットに手を突っ込み、ただ夜の街を見つめていた。黒いTシャツに細身のジーンズ。ラフな格好なのに、スタイルの良さからか、顔の良さからか、驚くほど様になっていた。ああ、夜の街という背景が、彼のことを引き立てているのか。暗闇に浮かぶネオンの数々が、彼の魅力を引き出していた。 「三村くんって、恋人はいないの」 気がついたら、つい口に出していた。彼は驚いた顔をしてこちらを見る。 「なんですかいきなり」 「いや、随分と格好いいからモテるんじゃないかと思って」 「いないですよ」横を歩く私の目を見て、いつも通りヘラヘラ笑う。 「そうなんだ。なんだか不思議ね」 「口説いてるんですか?」 「ええ?違うわよ」 「ですよね」そりゃそうだ、と彼は笑い、「じゃあ、口説かれついでといったらなんですけど、せっかくなので、デートでも行きませんか、ね?」と、今まで見た中で一番甘い顔をしながら笑いかけてきた。 こりゃ、すごいな、と私は心の中で両手を挙げた。こんなの食らったら、世の女の子という女の子は彼に夢中になってしまう。女の子だけじゃなくて、老若男女誰だってハッとする笑顔だった。彼のバンドがどれほどの知名度なのかは知らないが、これは出るとこ出たら売れるんじゃないかな、と無責任な応援をしてしまう。 三村くんは、リュックを背負ったまま、器用に後ろ手でファスナーを開け、何かを取り出した。 「これ。やっぱり聡子さんと行きたいなあって」 彼が取り出したのは、黄緑色のライブのチケットだった。去年からしつこく誘われていたアレだ。彼があの子と親しいのなら、この誘いの目的は明らかだ。 「私、音楽のことはよくわからないし、人混みも電車も嫌いなの。ほかの人と行ったほうが楽しいと思うよ」 私は肩をすくめてそう言った。あえて軽い口調になるように意識したものの、口から出たのはただの震え声だった。 彼は私の言葉など聞こえなかったような顔をして、黙ってチケットを差し出した。 私は無言でチケットを受け取り、券面に目を向ける。「oneman tour 2018−2019 like a hydrangea girl」「ツアーファイナル@日比谷野外音楽堂」「出演者 天空」。心臓が私の胸を破れんばかりに蹴っていた。 「行けない」 「行かないではなく、行けない?」 私は黙ってうなずいた。 「聡子さん、あなたが大好きだった人のバンドですよ」私の思いを汲み取ったかのように、三村くんが呟く。「憶えてないとは言わせませんよ」 「ねえ、どうして、」 どうして、あなたがそれを知っているの。どうして、私をあの子の元へ連れて行こうとするの。様々な疑問が頭に浮かんでは消える。 「どうして知っているのかって?それは内緒です」 顔を上げると、三村くんは先ほどと同様、甘い顔をして笑っていた。私は自分の鼓動の音がどんどん大きくなっているのを感じていた。ただそれは、彼の仕草とは無関係だった。違う生き物に自分の体を乗っ取られたんじゃないかと思うくらい、私の心臓は鳴り響いていた。 「どうして、あなたは彼女を捨てたんだ。なにも言わず、そんなの卑怯じゃないか」 面と向かって、誰かに「卑怯」と罵られたことは初めてだった。 彼は恋人に愛を囁くように、ひどく穏やかな声で私を責めた。いつか誰かになじられるだろうと覚悟をして生きてきたが、それはきっと彼女のバンドメンバーだろうと思っていた。思わぬとこから降ってきた矢に、私の心はかき乱される。 「私だって、」自分の声が震えていることに気がつき、深く息を吸った。「私だって、自分があんなことするなんて思っていなかったわよ。いなくなるのは、あの子の方だと思っていた。世界を知って、私を捨てていくのはあの子だと」 「じゃあ、どうして」 「怖くなったの」 彼は私をじっと見ていた。 「私があの子を傷つけてしまったの。言葉は人を傷つける。そんな当たり前のことを忘れてしまうくらい、私は彼女に愛されていた。それに、ウォークマンだって…そう、空の一番は音楽じゃないと」 雨が降ってきた。梅雨はもう明けたはずなのに、季節外れの雨だった。雨粒に反射し、ネオンが揺れていた。 ✳︎ 私たちの関係は何だったのだろうか。 純粋な友達と呼ぶにはあまりにも深い仲だったが、恋人と呼ぶには見返りのない愛を貰いすぎていた。私たちはどちらも異性の恋人がいたことはなかったし、女同士で付き合うことへの偏った敵対心も持ち合わせていなかった。ただ、どういう間柄なのか?と聞かれたら、分からない、としか答えることができない。そんな曖昧な関係だった。 高校を無事に卒業してすぐに、私たちは東急東横線沿いの東京と神奈川の間で暮らしを始めた。木造で築三十年だけどリノベ済み、オートロックなしの2DKのアパート、それが私と空が選んだ家だった。駅から少し遠いため、家賃は破格の9万円だった。 二人暮らしを始めた理由、それは単純明快で、私も空も第一志望に合格することができたからだ。空は横浜の国立大学、私は高田馬場にある私立大学に揃って進学した。空の両親が少しでも安いところに住んで欲しいと願ったのと、私が叔父からの誘いを断る口実が欲しかったというのも理由のひとつだ。なにはともあれ、私たちは新しい生活を東京で始めた。 私たちは帰る時間がバラバラだった。私はパン屋で早朝のバイトをしていたので、朝型の生活、空はバンド活動のため夜遅くに帰宅することが多かった。だから、二人暮らしとは言えど、そこまで一緒に生活していたわけではない。ときどき、夜遅くに彼女が帰ってくると、そのまま私のベッドに潜り込んでくるときがあった。背中側でもぞもぞと動く彼女は暖かくて、猫みたいで、それは幸せな時間だった。 彼女は人に甘えるのが本当に上手だった。自然に、相手に不快な感情を与えずに、誰にでも甘える。それが、いろんな人に愛される秘訣だったのかもしれない。 ただ、ふたりでいるときに、甘やかされているのは私の方だった。私がなにをしても、どんな顔でも、彼女はいつも嬉しそうに笑っていた。その姿を見ると、自分の存在が許されているようで、どうしようもない気持ちになってしまう。晴れているのに突然の雨が降るような、死にたい気分の日に虹が出てるのを見つけてしまったような、そういういろんな物がごっちゃになった心持ちだ。 もちろん、私たちに肉体的な繋がりはなかった。そういう雰囲気になったことも、話題に上がったこともない。恋人かと問われると、ノーだと答えそうになるのはそういう理由からだ。 しかし、完全に否定できないのもまた問題でもあった。 私たちは精神的に深く繋がっていた。血の繋がりもない、出会ってまだ数年の十代の少女たちは、互いの痛みも喜びも、深く話し合ったことさえほとんどないのに、それでも、心の深いところで繋がっていたのだった。それは、友情と呼ぶにはあまりに互いの距離が近すぎる。 つまるところ、私たちは恋人ではなかったが、ある意味では恋人よりももっと深い関係にあった。 私はこの関係に言いようのないくらい甘美的な何かを感じていたし、それと同時に、底知れない違和感も抱いていた。まるで噛み合わない歯車のように、その違和感は徐々に私の心の中で不協和音を奏でていった。 「空にとって、私はどういう存在なの」 違和感が私の心を占めてしまったころ、私は彼女にそう尋ねた。その日はめずらしく、私の方が帰りが遅く、深夜零時過ぎに家に帰ると、彼女は居間でくつろいでいた。 「サトコはサトコだよ」と、彼女は言った。いつも通りの答えだった。 「私に一体なんの価値があるって言うの」 「価値とかそんなのは分からないけど、ただサトコと一緒にいたいと思うの。ダメかな」 「あなたが怖いの」 「え?」 震える声がしてようやく、彼女の動揺に気がついた。私は空を傷つけた。言わなくてもいいことを、思わず言ってしまった。正確には、「あなたの愛情があまりにも歪みなくて、受け止めるのが怖い」と言いたかったのだが、彼女の顔を見て、釈明の余地がないことを悟った。 「ちょっと頭冷やしてくる」早口でそう告げると、ほとんど走り出す勢いで家を出た。 「夜遅いし危ないよ」 慌てる空の声が聞こえた気がした。彼女の忠告に従っていればよかった、と心から思っている。 私はアパートの階段を一段飛ばしで駆け下りると、携帯も鍵も持たず、暗闇をかき分けるように歩いた。とりあえずどこかで考えをまとめてから、彼女に謝ろう。今は駄目だ。言わなくてもいいことを言ってしまう。私は言葉が少ないから、せめて、相手に誤解されないように、考えをまとめてから話さなければいけない。 そこからのことは、断片的にしか覚えていない。 空のよく通る声が「危ない」と叫んだこと、誰かの手によって思いっきり体を突き飛ばされたこと、青い巨大な塊が目の前を横切ったこと、タイヤと地面が擦れる不気味な音、私が信号を無視して道路を渡ろうとしていたこと、写真のようにしか思い出すことができない。 派手に転んで痛む体を起こしたのは、苛立ちを募らせたクラクションの音だった。驚いて体を起こすと、青のセダンは急発進して私たちの前から消え去っていった。車道には、黒い塊が横たわっていた。暗闇の中、目を凝らしてよく見ると、見慣れた栗色の髪の少女だった。 私はすぐには動き出すことができなかった。今見た光景が信じられなくて、その場に尻餅をつく。助けなくては、と頭では分かっていても、体が鉛のように動かない。 私は歩道にいて、彼女は車道にいる。私たちの位置関係と車道に残るブレーキ痕。空が私を庇って、車に轢かれたことを理解する。体が震えた。 彼女は自分で立ち上がってこちらへ戻ってきた。ふらついてはいたが、たしかな足取りだった。 車道には私達のウォークマンが落ちていた。イヤホンがこんがらがっていて間抜けに見える。空色のボディが静かな住宅街には騒がしい。しかも、街灯の光がちょうど届くところに落ちていたから、暗闇でもよく見えた。私と空のちょうど間に落ちていた。 彼女は、ウォークマンを拾わずに、そのまま私のところまで来た。ちらりと目線を寄越したようにも見えたから、それが落ちていることには気付いていただろう。でも、道に落ちてる小石か何かのように踏んづけて、空き缶みたいに蹴っ飛ばした。 彼女は、私のことだけを見ていた。 乾いた音を立てて空色の機械が飛んで行った。私はコンクリートの無機質の温度を全身で感じていた。何故だかわからないが、彼女が轢かれたことと同じくらい彼女の目が怖かった。いや、心のどこかでは、一番怖かったのかもしれない。 「ごめんね、突き飛ばしちゃって。サトコが無事でよかった」 いつも通りの笑顔で、彼女はそう言った。それから、私を抱きしめた。右肩がだらしなくぶら下がっていて、口の端には血が滲んでいた。 その時、私は悟った。私が彼女の一番になってしまったことを。誰からも愛され、誰のことも平等に愛す彼女が、私のことを最優先にする。そんなの耐えられない。彼女の愛情を一身に受けて、今までみたいに隣で笑っていることができるとは思えなかった。空の愛し方は、まっすぐで、汚れがなくて、神さまみたいだから、私には到底受け止めきれない。 私は無我夢中で救急車を呼び、震える体を抑えて一緒に病院に行った。彼女は「大げさだよ」と困ったように笑っていたが、病院に着くまで私は謝ることしかできなかった。 彼女の症状は、右肩の脱臼と、右腕の骨折、それからいくつかの打撲だった。車に轢かれてこのくらいならラッキーな方だよ、と先生は笑っていた。横で泣いている私を励ますために、そう言ったのかもしれない。 一通りの処置を終えて、空は病院に泊まっていくことになった。夜遅いし、日が昇ったらまた病院に来てもらわなければならないから、という先生の勧めに従ったからだ。 彼女の無事も分かったので、私は家に帰ることにした。空は不安がっていたが、「明日も来るから」と伝えると、「ぜったいお見舞いに来てね。明日、きちんと仲直りしようね」とベッドの上で笑っていた。 それが彼女と私の最後の会話だった。 家に帰ると、私は数少ない自分の荷物をまとめて、ふたりの住処をあとにした。 ✳︎ 支離滅裂だった彼女を落ち着かせるために、雨を避けて深夜のファミレスに入った。ガラガラの店内を進み、一番奥の四人掛けのソファー席に座ったところで、彼女はゆっくりと語り出した。 ソラさんと仲が良かったこと、ふたりで暮らしていていたこと、そして、自分から彼女の元を去ったこと。俺は降り止まない雨を横目に、その話を黙って聞いていた。 聡子さんという女の人が何も言わずにソラさんの元を去った、という話をタカヤ先輩から聞いたとき、俺は行き場のない怒りを感じた。ソラさんの悲しみに引きずられて、一緒になって深く傷ついた。 しかし、彼女と出会って、仲良くなるうちに、この人がむやみやたらに他人を傷つけるような行動をするわけがない、と感じていた。そして、今の彼女の話を聞いて、確信した。 怖くなった、と彼女は言った。その気持ちはかつて俺が感じたものだ。タカヤ先輩も感じていた。たぶん、その感覚は間違いではないはずだ。だけど、聡子さんは本人にそれを伝えてしまった。誤解したまま傷ついたソラさんの顔を見て、自分自身も深く傷ついた。 「こんな話聞いてもつまらないよね。ごめんね、夜遅くまで。帰ろうか」 立ち上がろうとする彼女を引き止めるために、伝票を掴もうとした彼女の手を手繰り寄せる。彼女は怪訝な顔をして、立ち上がりかけた腰をもう一度ソファに沈めた。 「俺、実はあなたのこと知っていたんです。タカヤ先輩、分かりますか?」 「鷹弥くん?」記憶を辿るような表情をしてから、少しだけ驚いたように眉をあげる。 「そうです、あの人も同じ高校でしたよね。先輩もそのバンドのメンバーで、俺はソラさんとあなたの関係を聞いたことがあったんです。黙っていてすみません」 「彼はなんて言ってた?」 「ソラさんには仲良しの女の子がいた。どうして仲が良いのかは分からなかったが、とにかく、ふたりはいつでも一緒だった、と」 「そう」 彼女はソファの背もたれに体を預け、窓の外を見ている。窓に映る彼女の顔に雨粒が当たり、泣いているように見えた。 「あなたは本当に空のことが好きなのね」 相変わらず窓の外を眺めながら、地面を穿つ雨粒のような小さな声で彼女が呟いた。 「ソラさんはあなたのことが大好きですよ」 「大好きだった、ね」 彼女はソラさんとの思い出を過去形で語る。甘く、輝かしい思い出だったはずなのに、降りしきる雨のように彼女の表情は沈んでいた。 どうしてこの人がこんなに怖がっているのかは分からない。それに、ふたりのこともほとんど知らない。なのに、俺はこの人たちを助けたいと思ってしまう。いい歳こいて何年も仲違いをしている、子どものような不器用な大人たちを。 「その歌」 「え?」 弾かれたように彼女が顔を上げる。縋るような、祈るような、真剣な顔だった。 「その歌」 無意識のうちに、俺は鼻歌を口ずさんでいた。 「あの子が初めて作った曲」声を震わせて彼女が呟く。 「ああ、そう言えばそうでしたね。俺もこの曲好きなんですよね」 「優しくて、あたたかくて、幸せで、まるで空そのものを表しているような曲」 「幸せ?」 「ええ。最後、その少年は猫になって、大切な人とずっと一緒に暮らすのでしょう?たしか、神さまが願いごとを叶えてくれて、ハッピーエンドで曲が終わるのよね」 「俺が知っているのと違いますね。神さまは願いを聞き入れてくれなくて、ふたりは離れ離れになる」 「変わったのね」 「俺、この曲のメロディーが好きなんです。優しいんですけど、ちょっと切ないというか。なんていうかな、八月の終わりの夕暮れみたいな感じで」 「音楽のことは分からないけど、何となく言いたいことは分かるよ。綺麗なのに切なかったり、心地良いのに泣きたくなるような矛盾を感じる。気持ちの悪くない矛盾」彼女は呻き声のようなため息を漏らし、「そういえば、あの頃よくふたりで夕焼けを見ていた」と、噛みしめるように呟いた。 「だからですかね」 彼女は何も答えなかった。 深夜にもかかわらず、店内にはちらほら客の姿が見えた。ここは真夜中、ファミレス、通り雨。沈んだ顔の会社員、雨宿りをするカップル、大きなヘッドフォンをして書き物をしている女性。まとまりのない客層を眺めていると、景色が徐々に夕焼け色に染まっていく。ソラさんの曲みたいに、優しくて苦しくないけど悲しい橙色の海に沈む。 「どうして、そんなに頑張るの」沈黙を破ったのは彼女だった。今まで見ていた優しい景色が一気に彩りを失い、ファミレスのチープな音楽が耳に届く。 「頑張るって何をですか」 「私たちのことをどうにかしようとしてくれたり。あとは、そうね、留年しちゃうくらいバンド活動を頑張って、アルバイトだって真面目に取り組んでいるじゃない。何でそんなに頑張れるのかな、ってときどき不思議に思うの」 「別に頑張ってないですよ」謙遜ではない、これは本心だった。 「音楽で生きていくのが夢じゃないの?」驚いたように彼女が首をかしげる。 「夢?何ですかそれ。そんな綺麗なものじゃないですよ。憧れとかより、どっちかって言うと惰性とか、執念とか、そんな取るに足らない情熱の燃えかすしかないですよ」 情熱と呼べるものが俺の中に残っているのかどうかも定かではない。分からないのに、分からないから進むしかない。俺の人生は荒野をひたすらまっすぐ進むような格好いいものではなく、砂漠の真ん中であっちこっち右往左往しているだけなのかもしれない。そのくらい不安定で、現在地も行き先も不透明な旅だ。 そうだよね、と彼女は呟いた。俺の言葉に納得したのではなく、自分自身に言い聞かせているような声だった。 「あ、あなたたちのことに関していうならば、そうですね」先ほどの彼女の質問を真面目に考える。子どものような大人たちの幸せを願ってしまう理由。ああ、そんなの簡単なことだけど、何でかな、素直に言いたくない。俺も大概子どもだ。 「さっきも言いましたけど、俺、この歌すげえ好きなんですよね。だから、この歌の幸せな結末を知りたい、ってことでどうでしょうか?」彼女に語りかけたにもかかわらず、返答はなかった。ただ、目を丸くして俺のことを見つめていた。 再び沈黙が訪れると、またしても世界が夕暮れに染まった。幻みたいな現実のように、橙色はじんわりと視界を侵食していく。ゆっくりと、水位が上がるように、夕焼けは輝きを増す。 これは一体、誰の記憶なんだろうか。こんな景色、俺は知らない。俺が育った街はビルが立ち並ぶ都会だ。夕焼けの美しさに感動したり、本当の暗闇に心を奪われたりした経験はない。 制服姿の少女たちが堤防を歩く。一列に並んで、ゆっくり、まっすぐ。先頭を歩く少女はときどき、振り返って後ろを歩く少女のことを確認する。制服のスカートを風が攫う。後ろの少女が揺れる髪の毛を抑える。沈みゆく太陽に全てが溶かされ、景色がぼやけて滲んでいく。 ああ、これはソラさんの記憶だ。ソラさんと聡子さん、ふたりが過ごした夏の記憶。あの曲を通して、俺は彼女たちと同じ景色を見ている。 こんな幸せな日々があったのに、もう楽しい曲が書けないと彼女は言った。美しく輝かしい日々を忘れないでほしい。祈りのような願いは一体誰に届くのだろうか。 「伏線、だったんですよ。全部」気づいたときには、祈るように、歌うように、一言一言を刻むように口にしていた。 「え」俺の言葉に、彼女が顔を上げる。 「ソラさんがあなたを庇って事故にあったことも、あなたが彼女の元から逃げたことも、もっと言えば、あなたたちが出会ったことも、全部全部、伏線だったんだ。ドラマチックな再会のための伏線、そう考えるのはどうですか?」 「それは…それは、ずいぶんと安っぽいドラマね。正直、売れないと思うわ」 「世間では王道って言うんですよ」 精一杯笑ってそう言うと、彼女は俺の笑顔につられて笑っていた。泣きそうになりながら、かろうじて唇の両端を歪ませた表情だった。泣きたいような、怒っているような、太陽が眩しくて目を細めるような、そんな不思議な顔をしていた。
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