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第14話
あのときに戻りたい。ときどき、いや、ほとんど毎日、ぼんやりとそう思っていた。
あのとき、っていうのは曖昧すぎるかもしれない。具体的には彼女と過ごした時間すべてのこと。たとえば、飽きもせず海を見つめた夕暮れ、日暮れにつれて閉じていくふたりきりの世界、どこまでも続く堤防を歩いた夏の日、とか。
もう何回願ったかも覚えていない。都合のいい神さまなんていないってわかっているのに、惰性で噛み続けるガムのように、いつまでもなくならない安いシャンプーのように、ずっと同じことばかり願っていた。
一年かけて行ってきたツアーのファイナルは今日、日比谷野外音楽堂で開催される。
ツアータイトルが印字された垂れ幕が、ステージ後方にぶら下がっている。黒地にシルバーの文字がよく映える。ツアー中、ずっと使い回していたこの垂れ幕も、今日で見納めだ。心なしかやつれているようにも見えるし、自信を持って胸を張っているようにも見える。描かれている文字を目で追うと、なんだか感慨深い思いがこみ上げてきた。
会場を隔てる木々のカーテンの向こう側では、今日という日を楽しみにしてくれていたお客さんの気配を感じる。ここは静かで、向こうは賑やか。
お昼前に会場に入ると、まだ誰もいない客席に座って、メンバーそれぞれが感傷に浸っていた。目を閉じて木々のざわめきに感じいる者、ステージのさらにその向こうを見る者、寝そべって青空を見つめる者、過去に想いを馳せる者。それぞれが、それぞれの時間を過ごす。初夏の風にあおられて、全員が浮き足立っているのは間違いなかった。
「俺さ、ずっと野音でライブやりたかったんだよ」
客席の一番後ろ、ステージが一番よく見える柵に寄りかかって、タカちゃんが遠くを見ながら呟いた。彼の声に振り返ると、そこにない何かを慈しむような目をしている。
彼は昔から野外の会場が嫌いだった。理由は簡単、天候に左右されやすいからだ。雨が降ればお客さんは濡れてしまうし、最悪中止にせざるを得ない。ただ、自分たちや機材が濡れるのは構わないらしい。お客さんが雨に降られているのをステージから見るのが、どうしても我慢ならないと言っていた。機材よりもお客さん、優しい彼らしい理由だ。
なのに、野音は好きだという。無口な彼ですら、普段なら言わないようなことも、つい口にしてしまう。なぜなら、興奮して地面から半歩浮いているから。毎公演毎公演の重みを抱えたツアーファイナルだし、今日が終われば楽しい楽しい打ち上げが待っているから。
「タカちゃんにも野望とかあったんだね、意外」
ああ?と彼が眉間に皺を寄せる。
「好きな女と初めてライブ観に行ったのもここだし、好きなバンドが解散したのもここだからな」
「タカちゃんにもそういうのあるんだね」
「そういうのってどういうのだよ。つうかソラ、いい加減タカちゃん呼びはやめろ。この間も言っただろう。おまえのせいで、ファンの若い女にまでそう呼ばれてるんだよ。勘弁してくれよ」
タカちゃんの怒りの主張に、ついメンバーから笑い声が溢れる。それを聞いて、「なんで笑ってるんだよ」と、彼はますます不機嫌になる。
「みなさん、写真撮ったらリハですよ」
「はあい」
リハの二文字が聞こえると、先ほどとは打って変わった空気が会場に流れる。幸せだった高校時代の面影も、好きな女の子とライブに行った思い出も、全部そこに置いていく。
ほかのメンバーに続いて立ち上がると、今日という日を祝福するように、ぶわっと風が吹いた。
「おまえは、」
背中越しに問いかける声が聞こえる。
「だいじょうぶ、ソラは天空のギターボーカル。忘れてないよ」振り返って答える。
目が合うと、彼は舌打ちをした。
「ならいいんだ」
✳︎
「お客さん、たくさんだね」
控え室のモニターから客席の様子をうかがうと、端から端までお客さんで埋まっていた。どの会場でも、必ず、控え室から客席の状況は見るようにしている。いつから習慣になったかは忘れたが、たぶん単独でライブができるようになってからだと思う。ある程度、人が集まるライブハウスで演奏するようになってから、お客さんのありがたさに気がついた。本当にありきたりな話だけど、自分たちの音楽を楽しみにしている人がこれだけいると思うと、胸がいっぱいになる。
今日はいつものライブハウスよりも明るいから、一人一人の顔がよく見える。みんな天空の登場を待ち望んでいる。その事実だけで、これからも生きていけると無責任に思ってしまう。
「チケット全部はけたんだろ。立ち見もソールドアウトだって」
ついさっき、ストレッチから帰ってきたタカちゃんが汗だくで笑う。ライブ前の彼は、よく笑う。始まったらいつも通り仏頂面だから、限られた人しかこの顔を知らない。
ライブの前に、彼は入念にアップをする。だいぶ昔、ユウくんが加入したての頃に一緒にやっていたけど、キツすぎて早々にギブアップして帰ってきた。ユウくん曰く、アスリートのそれとほとんど同じだった、とのことだ。
どうしてそんなに真剣にストレッチするのか、と本人に尋ねたところ、中学時代、サッカー部だったときの名残らしい。ウォーミングアップとダウンは入念に、不要な怪我は防げる。これがタカちゃんの口癖だ。まるで監督みたいだ。
「僕たちすごいね」
「そうだよ、俺たちは結構すごい」
なんてったって今売れっ子のバンドだからな、と彼は快活に笑っている。ライブ直前のムードメーカーはタカちゃんだ。彼が笑うと、緊張していたメンバーの空気が緩むのがわかる。
「そろそろスタンバイお願いします」
スタッフの声が聞こえる。メンバー全員の表情が変わった。コップギリギリまで注がれた水が、溢れずに表面に張り付いているみたいな、あの感覚だ。
無言で全員が集まり、肩を組む。毎回ライブの直前に、円陣を組んで気合いを入れる。掛け声はいつもソラの仕事。いまだに恥ずかしいけど、なんか格好いいこと言って、団結を高める。
それにしても、高校生の部活みたいなノリをいつまで続けるんだろう。前々から疑問に思っていたので、前回のツアー中にタカちゃんに聞いてみた。彼は「解散するまでやる」と断定した。「解散することあるの?」と尋ねると、「まあ、ないだろ。俺たちは俺たちの音楽が好きだしよ」とぶっきらぼうに語っていた。だから、たぶん、この円陣はずっと続くのだろう。
「さあ、行こうか」
それぞれが思い思いに叫び、ステージへ向かう。
満員御礼、拍手喝采。祝福を全身に浴びて、自分が生きているのを感じる瞬間。全身に血が巡る。
風そよぎ、木々の歌声に混じり、会場にはいつも通り、ビートルズの『Blackbird』が流れている。
荘厳な雰囲気が漂い、聴衆がだんだんと静かになる。どうやら、この曲は野音と相性が良いらしい。風の音や森の声に、歌声や鳥のさえずりがよく調和している。まるで、世界に許されているみたいだ。
だんだんと日が落ちていくのを肌に感じながら、演奏をするのはとても気持ちが良かった。野外での演奏自体は、夏フェスで経験したことがあるが、出番はいつも日中だった。日暮れから夜にかけて、外でライブを行うのは初めてのことだ。まるで、世界の終わりに自分たちだけが音楽を奏でているような、一人ぼっちなのに怖くないような、不思議な感じがする。悪くない。というより、とても良い。
「こんばんは、天空です。今日はファイナル、楽しんでいってね」
二曲目の終わりに、マイクに向かって静かにそう告げると、観客から歓声と拍手が届く。観客に煽られたからなのだろうか、ドラムから奏でられるリズムがほんの少しだけ速くなる。思わず、笑みがこぼれた。
✳︎
「反省点も課題も見つかりましたが、とりあえず、みなさん本当にお疲れさまでした」
長いようであっという間だったライブが終わり、楽屋ではマネージャーがほっと胸をなでおろしている。真面目なマネージャーは、ライブが終わって五分と経たないうちからスタッフの荷物をてきぱきと片付けていた。
「ねえ、今日のライブって円盤になるんですか」
ケイちゃんが散らかった楽屋を一緒になって片付けながら、マネージャーに尋ねる。
「一応、その予定です。野外のワンマンははじめてですし、来れなかった方もきっと観たいと思うので」
タカちゃんの方を伺う。
「俺は嫌だね」お行儀悪く机に腰掛け、腕を組み、素っ気なく呟く。「記録に残しちまうと、また野外のライブが観たいとファンに言われるだろうが」
「そうなったらまたやればいいじゃない、ねえ?」ユウくんが笑う。
「ぜってぇ嫌だね。野外は一回きりだし、誰がなんと言おうと今回のツアー映像はお蔵入りだ。幻のツアーってことでいいじゃねえか」
はいはい、とマネージャーも笑った。駄々をこねる子どもをあやす親のようだった。
コンコン、と楽屋のドアがノックされる。マネージャーがドアを開けると、見知った顔が現れた。
「お疲れさまっす」
ミッキーだった。メンバーの注目が彼に集まると、無表情で頭を下げた。
「ミキも観に来てたのか」入り口に一番近いところにいたタカちゃんが話しかける。
「ソラさんにチケット貰いました」
「あ、そ」タカちゃんは無愛想に呟いた。
言葉とは裏腹に、楽屋の椅子をひとつ彼に寄越す。どうも、と言って彼は腰を下ろした。彼はそのまましばらく、楽屋に出入りをするスタッフの様子を眺めていた。彼にしてはめずらしく視線が慌ただしい。まるで落ち着きない子どものようだった。
「ミキくん、なにか用があったんじゃないの?」ケイちゃんが尋ねる。
「え?」
「楽屋まで来てくれるなんてめずらしいから。いっつも顔出さずに帰っちゃうじゃない」
「あ、それは」そこで一旦言葉を止めると、突然立ち上がる。「ソラさんに用事があって」
「ソラに?」
彼の真剣な瞳に心臓が跳ね上がる。その瞳に見覚えがあった。そして、いつかのファミレスで彼が口にしていたことを突然思い出した。
「ソラさんが会いたい人がいるんだ」
待って、と自分は口にしていたと思う。少なくとも、それに近い何かを発していたはずだ。
彼は、ちょっと待っててください、とだけ言い残し、楽屋のドアを開けて廊下に出ていく。閉まりかけの扉に向かって、ちょっと待ってよ、と自分はまた口にした。
扉が閉じた直後、彼の野蛮な怒鳴り声が聞こえてきた。
「この根性なしが」
彼は戻ってくるやいなや、乱暴に扉を閉める。大きめの舌打ちが聞こえた。
「おまえ、公共施設は丁寧に扱え。壊れたら色々大変なんだぞ。あと、あんまでかい声出すな。スタッフがびびるじゃねえか」
タカちゃんが眉を顰める。
「すみません」
「ミキくん、どうしたの」ユウくんは困惑している。
彼はどんどんと足音を鳴らし、ソラのもとへやってきた。
「来てるんです、聡子さんが」
空気がしぼむ音が聞こえた。たぶん自分の喉から出た音だと思う。
「あなたの、大事な、聡子さんだ」
彼が肩を揺する。それから、一言一言噛み締めるように言葉を発する。
「あの人が、勇気を出したんだ。わかるだろう、これがどれほど凄いことだって。あの臆病な聡子さんが、わざわざ、休日を縫って、嫌いな電車を何本も乗り継いで、あなたの演奏を観に来た」
なあ、と彼の大きな掌が肩を揺らす。
「走れ」
彼の言葉と、自分が床を蹴る音、どちらが先だったろうか。気がつくと、楽屋のドアをほとんど蹴るような勢いで開け、廊下に駆け出していた。
✳︎
目的の人物はすぐに見つかった。小柄な彼女は人混みに紛れていたが、バンドTシャツに身を包むスタッフの群れの中では、明らかに浮いていた。灰色のTシャツに黒のロングスカートを履いて、まっすぐ前を向いて歩いている。相変わらずラフだけど、どこか品の漂う格好をしている。
「サトコ、待ってよ」
前を行く背中語りかける。
「サトコ」
小さな背中からは一向に返事がない。
数人のスタッフが、気を利かせて道を譲ってくれる。
「ねえってば」
さっきよりも大きな声を出すと、彼女の肩が揺れた。
なんだ、聞こえてるじゃん。ソラの声が聞こえているのに、それでも無視するんだ。そう思うと、子どもみたいに単純な感情が沸き起こってくる。
「サトコのバカ」
口を衝いたのは、ほとんど衝動的な言葉だった。途端に廊下が静かになる。大人たちが自分のことを見ているのを感じる。なんだ?彼女か?そういう雑音が聞こえてくる。
「ソラ、怒ってるんだからね」
ようやく、彼女が歩みを止めた。二メートルくらい先、彼女は振り返ると、眉を顰め、口元を歪ませて、ソラのことをじっと見つめる。
数年ぶりの彼女は、相変わらず警戒心の強い猫のような瞳をしていた。しっかりと目が合うが、彼女はにこりともしない。
「ソラね、サトコの好きなものが知りたかった。サトコの世界を教えてほしかった。聡子が何を見て、何を感じていたのか。ソラにもサトコの秘密を教えてほしかった。あのね、別にソラの好きなものを好きになってほしかったんじゃないよ。ただ、知ってほしかったの。知りたかったの。それだけだったんだよ」
まっすぐに伸びた長い髪は肩の上で切りそろえられていて、彼女が呼吸をするたび黒髪が揺れる。
「でもサトコは全然教えてくれなかった」
彼女はほんの僅かに顎を引いた。話の続きを促すような仕草に見えた。
「それを知ったからといって、何かが変わるわけではないこと、そのくらいはソラもわかっていたよ。でもね、知りたかったの。私たちはわかりあえない、ってサトコずいぶん昔に言ってたけど、それでも知ることは悪いことじゃないでしょう。だって大好きな人のことだもん。知りたいよ。それなのに、サトコのバカ」
その野良猫のような表情に、彼女が言葉を選んでいるのを感じる。頭の中で、選んだ言葉をつまんでは脳みそに戻す、その繰り返しを必死におこなっている。
「久しぶりに会ったのに、バカはないでしょう」
結局、彼女が選んだ言葉はそれだった。
「知らないよ。サトコが無視するのがいけないんじゃん」
そうか、こうやって、まっすぐ感情をぶつけたり、理不尽に怒ったりしたかったのかもしれない。さっきまで狼狽えていたはずなのに、自分が子どもみたいな言葉を使って不貞腐れていることにおかしくなる。
「もう絶交だよ。友だち解消」
「そうだね。私はあなたにひどいことを言ったし、ひどいこともしたから、もう」
「そう。ソラたち、もう無理だよ」
彼女は「むり」と呟いて、下を向いてしまった。
彼女の仕草を見て、思ったよりも強い言葉を口にしていたことに気がつく。言ってしまったことは取り消せないとあれだけ後悔してきたのに。
彼女の目線の先を辿ってみる。ソラの靴を見ていた。彼女の黒いバレエシューズまで、正味二メートル。それが今のふたりを隔てる心の距離。
「あなた、三村くんと友だちなんでしょう」
静寂を破ったのは、彼女だった。
「ミムラくん?ああ、ミッキー?そうだよ、ソラとミッキーは友だち」
「実は私もね、彼と友だちなんだ」
「うん?」
いつも理路整然としていた彼女にしてはめずらしく、話の流れが読めない。余計な口を挟まずに、話の続きを促す。
「友だちの友だちは友だち、ってあなた昔言っていたじゃない。三村くんとあなたは仲良しで、私も三村くんと友だち。だから、私たち、友だち」
「え?」
彼女が言ったことがよく分からず、思わず聞き返してしまう。人通りが激しかった廊下がいつのまにか閑散としていて、束の間の静寂が訪れる。
ふと顔を上げると、またしても彼女は、眉間にしわを寄せて唇の端を歪ませていた。
ああ、そういえば、これが彼女の笑った顔だった。怒っているようで、泣きそうにも見える、彼女にとっては精一杯の笑顔。自分が許されているように感じるあの表情。大好きだった少女の笑顔。
思い出は堰を切って溢れ出し、あたたかな祝福を授ける。泥みたいだね、っていつか彼女が言っていた。これが、そうなのかもしれない。あたたかくて、やさしい気持ちになれる、不思議な魔法。
「ずいぶんこじつけだなあ」
「あなたがそう言っていたんじゃない」
彼女は怒ったように呟き、下を向いてしまった。耳がほんのり赤く染まっているのが見えた。
「でも、悪くないね」
ソラが笑うと、彼女は顔を上げる。
一歩だけ彼女に近づてみる。
ふたりの距離は二メートル。そこから始めればいい。
「そういえば、時間は平気なの?」
「あ、やばい」慌ててスマホの画面を見ると、もうとっくに撤収の時間を過ぎていた。「タカちゃんに怒られる。ああ、もう怒ってるか」
「彼は相変わらずそうなのね」懐かしいな、と彼女がこぼす。
「えーっと、どうしよう。あ、明日空いてる?」
「ええ、日曜日だから」
「じゃあ夜の九時にいつものファミレスね」
「いつもの、ってどこよ」
え、そんなことも知らないの、と心の中で驚く。渋谷の、宇田川町の道路沿いにあるファミレス。いつもソラとミッキーがくだらないお喋りをするところ。サトコ、本当にミッキーと友だちなの?と心の中で悪戯心が芽生える。
「ミッキーに聞いて。友だちなんでしょ。ソラもう行かなくちゃ」
タカちゃんが本気で怒ったら怖いし。それに、もうだいじょうぶ。うまくやれる気がする。人生とか、バンドとか、サトコとのこととか、そういうの全部、うまくいく気がする。川が下流に向かって流れるように、暖かい季節になると花が咲くように、ぜんぶぜんぶ上手くいく気がするんだ。
「ねえ、ちょっと」と、彼女はまだ何か言いたげだったが、「じゃあ、また明日」と言い残して、楽屋へと走った。
また明日。
その言葉をもう何年もずっと、君に言いたかったんだ。
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