第8話

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第8話

俺は結局、大学生になった。 誰かに諭されたわけでもないし、親に怒られたわけでもない。ただ、なんとなく大学に通ってみようと思った。心のどこかで、所属が無くなることへの恐怖を感じていたのかもしれない。大学でサークルにでも入れば、またバンドを組めるかもしれない、と思ったのも大きい。 ろくに勉強もせずに受験に臨んだが、ぎりぎりで第二志望に引っかかった。そこそこ名の知れた東京の私立。俺は自分がそこそこ勉強できてよかった、と心から思った。親の遺伝子に感謝したのは後にも先にもあの一回だけだ。 音楽で生きていきたい、という思いは相変わらず胸の奥にずっとあった。でも、それはどうすれば叶うのか見当もつかなかった。俺から見たら、ありとあらゆるカリスマ性を兼ね備えたソラさんだって、ぎりぎり音楽だけで生活していけているぐらいだ。ロックだけで暮らしていけるなんて、昔の大人がついた嘘なのかもしれない。 ソラさんとはあの日以降も何度か会っている。あの人たちのバンドのギターが、「ノ」から始まって「ス」で終わるこれまた感染力の強い病気に罹ったので、またライブで演奏させてもらったり、その後もスタジオで何度か会ったり、そんな感じだ。サポートギターは一回きりのイレギュラーだと思っていたので、何度か現場に呼んでもらえたことは素直に嬉しかった。それに、あの日俺が感じた虚しさは、俺の実力をほんの少し底上げさせてくれた。 ちなみに、正規メンバーのギターは後日、俺の家までお礼と謝りに来てくれた。年下の俺になぜか敬語を使う、律儀で真面目そうな人だった。身体の弱さは困りものだけど。 ソラさんは、友達なし、金なし貧乏大学生の俺を哀れんでか、たまにご飯にも連れて行ってくれる。仲間の多いソラさんが俺をかまってくれるのは、割と嬉しかった。ギターのこと、バンドのこと、歌のこと、作曲のこと、あの人はいろんな話をしてくれるから、俺としてはかなり勉強になっていた。 今日の夜もソラさんとご飯の予定だった。日中は大学に行ったものの授業を適当にサボり、軽音サークルの部室で適当にギターを練習したり、部屋に落ちてる漫画を読んだりしていた。あっという間に夕方になった。これが大学生というものだ。 地下鉄を乗り継ぎ、山手線で渋谷に向かう。時間が時間だったので、帰宅ラッシュに巻き込まれる。本を読むこともスマホを触ることも、イヤホンを耳に突っ込むことすらかなわない。仕方がないので、目の前にある山手線の路線図をぼーっと眺める。輪っかのように丸い線路。ほとんど常にカーブしながら走行しているはずなのに、まっすぐ進んでいるように感じるから不思議だ。地球が丸いのに、地面を平らに感じるのと同じ原理なのかもしれない。いや、どんな理論だよ。 渋谷でほとんど無理やり電車から押し出された。ギターを庇うように電車から降りると、乗客の誰もが俺のギターに目を向ける。彼らは皆、人ひとり分くらいある大きなギターケースを、諸悪の根源かのような目で見ている。電車を降りた人も、車内にいる人も無言の圧力を加えてくる。かわいそうなギター。 ✳︎ ハチ公前にソラさんはいた。ギターケースを下ろし、銅像によりかかって本を読んでいた。空色のギターケース、黒いブーツ、オレンジ色の靴紐、黒いオーバーサイズのトレーナー、真っ赤な本、そして銀色の髪。今日も全部がちぐはぐなのに、全部が彼にぴったりはまっている。 「お待たせしました」 ソラさんは俺に気づくと、読みかけの文庫本を閉じた。角が丸まっていて、全体的に波を打っている。ずいぶん年季が入っているから、お気に入りなのかもしれない。知らない本だったが、同じ名前の曲がビートルズにあったな、と思い出す。 「ソラが本読んでいるのって意外?」俺の視線にソラさんが気づいて笑う。 「いや、別に。その本タイトルがビートルズの曲と同じですけど、何か関係あるんですか」 「最初に登場するんだよ。大事なところでも出てくる。辛くて、悲しい物語」 「じゃあ何で読んでるんですか」 俺はほとんど本を読まないが、どうせ読むなら、楽しくて面白い物語を読めばいいのに、と思う。 「ビートルズが出てくるからだよ」ソラさんは真剣だった。「ソラ、あんまり本読まないけど、ビートルズが登場する本だけは読んでるんだ」 「特に好きじゃないのに?」俺がそう言うと、困ったような複雑な顔をしていた。 「わざわざ好きって公言するほどファンじゃないけど、普通に曲は聴くんだよ。ほら、ドラえもんとかみたいなものだよ。みんな好きだけど、好きのレベルにも何種類かあるというか」 ソラさんが口にしたドラえもん理論が面白くもない本をわざわざ読む理由にはなっているとは到底思わなかったが、それ以上聞くことはしなかった。俺たちはそれらしい会話もせずに、ファミレスへと向かった。 ✳︎ 「ミッキーさ、いつもファミレスで飽きないの」 ドリンクバーのオレンジジュースが二杯目に差し掛かったころ、ソラさんが不満げに主張する。 ソラさんに誘われる日はファミレスが定番だった。宇田川町の道路沿いのファミレスで何時間も語り合う。ご飯時なら、俺はだいたいミートソーススパゲッティ。ソラさんはいつもチーズハンバーグ。あとは二人ともドリンクバーを注文する。 「ファミレス美味しくないっすか」 「安いし、美味しいけどさ。でも君がお酒飲めないにしても、もっといい店あるでしょう。ここ渋谷だし、選択肢は多いはずだよ」 ソファに深く座っているソラさんは、メロンソーダを飲みながら、チーズハンバーグをつついている。食後にプリンも頼んでいた。ファミレスを一番満喫しているのは、他でもないこの人だった。 美味しそうに頬張るソラさんの姿を眺めていると、ふと、違和感がよぎった。見逃しがちな些細なそれ。注意深く観察すると、彼は左手で器用にフォークを操っていた。ギターは普通に持っているから、今まで気がつかなかった。 「あ、もしかして売れないバンドマンのソラに気を遣ってる?」 彼は悲しそうな顔をしながら、お金ならあるよお、と嘆いている。なにも言わなかったから、同情していると勘違いされたのかもしれない。 「いや、左利きって格好いいなって思って」 「なにそれ。あ、もしかしてはぐらかそうとしている?」 ソラさんたちのバンドは、今年の冬にメジャー移籍が決まったらしい。ファンも着実に増え、何度かワンマンツアーも行っている。ソラさん自身がもつ不思議な魅力と、楽曲の何とも言えない寂寥感と、メンバー全員の誠実な態度で着実に人気が出ているらしい。これは、この間読んだ音楽雑誌の受け売りだ。 実際には、事務所の猛プッシュと、ソラさんの軽やかで得体のしれない魅力によるところが大きいと俺個人としては思っている。もちろん曲はかなり良い。ただ、音楽的な良しあしというのは一般人にはよく分からないものだし、ソラさんの書く歌詞はほとんど英語だから、さらに一般大衆からしたら理解不能だろう。個人的な意見としては、音楽は好きか嫌いかで判断する主観的なものだから、それでいいと思っている。 「俺、ファミレス好きなんですよね。何時間でもいて大丈夫だし」 これは本心だった。少しでも長く、ソラさんと一緒にいたかった。人前ではのらりくらりとした態度をとっているのに、二人きりになると、案外口数が少なくなる。その静かになったときの空気が好きだった。 ソラさんは口を閉ざすと、一人で本を読んでいた時のような、誰も寄せ付けない孤独を纏う。冷たく尖った空気ではなく、たとえるなら、そう、森の奥深く、鳥さえも寄り付かない静かな湖畔。俺は、その畔に存在することを許されていることが嬉しかった。 ソラさんは俺の言葉を聞くと、「ならいいんだけどお」と言いながら三杯目のドリンクバーを貰いに行った。 絶対アンタが一番楽しんでるよ。俺は心の中で呟いた。 「俺、どうやったらモテますかね」 カルピスソーダとぶどうジュースを混ぜた飲み物をソラさんは持ってきた。一杯目はコーラ、二杯目はメロンソーダ、三杯目はいつもこれ。今日はいつもよりも色が薄かったので、カルピスソーダを入れすぎたのだろう。ライブハウスで照明を受けて輝くソラさんの髪色みたいだった。 「ええ?もしかして、女の子にモテたいの?」突然の質問に、唖然としている。 「女というか、全般的に。人にモテたいんです。俺、ギターボーカルだから一番矢面に立つというか」 「ああ、なるほど」 「ソラさん、女にすごいモテるじゃないですか。なんかコツとかあるのかな、と」 「コツねえ」右手で後頭部をクシャッとする。困ったときのソラさんの癖。「特に何か気を付けているわけではないけど」 乱れた髪を、今度はやさしく撫でる。店内に飾られている中世ヨーロッパの絵画を、ひとつずつ眺めている。左から、天使、女神、フルーツ盛り合わせ、そして天使。 「昔ね、ソラは愛される才能を持っているって言われたことがあるよ」 目の前にいる俺に視線を戻し、なんてことのないように、彼はそう言った。どういうことなんだろうねえ、と笑っている。 愛される才能。その言葉を聞いて、俺はこの人のことが急に輪郭を持って見えるようになった。ソラさんの立ち振る舞いや喋り方は恐らく持って生まれたもの。天賦の才ってやつだ。きっと、小さい頃からこうだったのたろう。それらによって、この人は誰からも愛されている。この言葉をソラさんに言った人は、ソラさんの側にずっといて、そしてソラさんのことを深く愛していた人なのだろう。 でも、みんなから愛されるということは、一方で全方位に優しくする必要がある。それは強くしなやかな心を持っていないと難しい。愛される才能は、言ってみれば諸刃の剣だ。誰に対しても誠実に、明るく、優しく。それが生まれながらにできるというのは、果たして恵まれていることと言えるのだろうか。 「それ、誰に言われたんですか」 「ソラが大好きだった人」手元にあった紙ナプキンをクシャッと握りつぶす。 昔の恋人。ソラさんとその人の間には何があったのだろうか。俺は湖に足を踏み入れることは許されていない。 「ビートルズの彼女ですか」 「みんなに愛されたって、大事な人に愛してもらえなかったら意味ない」 ソラさんは乾いた声で笑い、所在なさげに右腕をさすっていた。 「あ、同じフロントマンとしていえるのは、君はもう少し笑った方がいいかもしれない。人には向き不向きがあるから無理にとは言わないけど。ライブ中の冷たいまなざしも悪くはないんだけど、ステージに上がっていないとき、たとえば道でファンに声を掛けられたとき、もっとにこやかに対応した方がいい。ソラや親しい人と話しているときしか笑わないのはもったいないよ。素敵な笑顔なのに」 ソラさんはいつもより早口でそう言うと、四杯目の飲み物を貰いに行った。 その姿はまるで、湖のさらに奥に立ち込める、鬱蒼とした森へと向かっているようだった。俺は対岸の切り株に腰を下ろして、だんだんと小さくなる背中を見つめていた。
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