第9話

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第9話

じっとりとしていた空気がいつの間にか入れ替わり、吸い込む空気が肺に届くのを感じるこのごろ。長くいようであっという間だった夏が終わり、秋が到来する。 季節の到来よりもはやく、制服は夏服から冬服に衣替えが行われる。二学期の始まりは冬服のスカートだとまだ暑い。紙みたいに薄い夏物のスカートを懐かしく思いながら、クリーニング帰りのかたくて張りのある生地に包まれ、毎日登校する。季節が深まっていくにつれて、いつのまにかそんなことは気にならなくなる。そのときにようやく、秋がやってきたのだと実感するのだった。 私と空には、共通で使っているものがいくつかあった。美術で使うアクリル絵の具の黒と赤と白(これは私がなくした)、落書きだらけの家庭科の教科書(これは彼女がなくした)、ディズニーランドの缶に入っている大量のお菓子(これは彼女のロッカーに入っている)、そしてウォークマン。 青いボディの、黄色のイヤフォンが刺さったウォークマン。もともとは彼女のものだったが、音楽を聴かない私のために、共用で使おうと彼女が提案してきたのだった。それ以来、二人でかわりばんこにウォークマンを使いあっていた。 「いろんなジャンルの音楽が入っているから、サトコが気に入る曲もきっとあるよ」 私は彼女の勧めに従い、ウォークマンを借りていた。JPOP、ロック、アニメ系、KPOP、ヒップホップ、クラシック。空はジャンル問わず、どんな曲でも聴くらしい。音楽への造詣の深さに、素直に尊敬する。今年の夏に、彼女が聴き込んでいたビートルズももちろん入っていた。 ジャンルの多さに目が眩んだが、家で勉強するときのBGMとして、通学のお供として、私はひとつひとつ根気よく耳に流し込んでいた。 昼休みのはじまりを告げるチャイムが鳴る。私の隣にはめずらしく空がいなかった。先生に呼ばれたからだった。彼女は授業後すぐに、生徒指導室に連行された。この学校は身なりに関する規則が緩く、普段どんな格好をしていても怒られないのに、定期試験の前はなぜか生徒指導が厳しくなる。彼女のほとんど金色の髪の毛と、真っ赤なスウェットが担任の目に留まったのだった。 私は教室で一人、黙々とパンを食べる。騒がしい彼女がいないと味気ないので、ウォークマンを取り出し、学校に来るときに聴いていた曲の続きを流す。よく分からないロックバンドが愛を歌っている。曲に集中していると、いつの間にか目の前に見慣れない男子が突っ立っていた。 「おい」 話しかけられたことに驚き、イヤホンを外す。顔を上げると、仏頂面の男子が私のことを見ていた。 「これ、おまえのだろ。間違えて借りていたみたい。悪い」 話したことのない男子に、いきなり家庭科の教科書を渡される。裏を見ると、たしかに自分の名前が書いてあった。受け取って中身を確認すると、ソラが書いた珍妙なキャラクターの落書きが至る所に見つかった。間違いない、これは私のものだ。 「どうもありがとう」と言って、教科書を受け取る。 「おまえさ、」彼はそこまで言うと、途端に口を閉ざした。続きの言葉を探して、みるみるうちに眉間に皺が寄る。 「おまえって失礼じゃない?」 見知らぬ人に「おまえ」呼ばわりされるのはかなり癪だったので、とりあえず指摘する。彼はあまりにも不愛想だった。乱暴な言葉遣いがそれを際立たせている。目の前の男子は目を丸くして、眉間の皺を解いた。 「それで用はなに?何か言いたいことがあったのでしょう」 「ああ」と彼はまた少し眉間に皺を寄せる。「俺は不愛想だし、言葉が悪いし、だからか女に人気がないし、もとからこういう顔なんだが、怒っているわけじゃない。気に障ったなら謝るよ」 「私も不愛想で、言葉遣いはそこまで悪くないけど、男にも女にも人気ないよ。そして、あなたと同じで別に怒っているわけじゃない」 思ったよりも彼は素直だった。ちょっとだけ気に障っていたことは水に流すとする。 「はは、君はすごいな。いろいろと、すごい」 「はあ」思わず、大きな声が出る。 「この教科書、聡子さんのでしょう。ソラから借りたんだけど、君の名前が書いてあったから」 「ああ、タカちゃん」 空、という名前で、彼がバンドメンバーの「タカちゃん」だと気付く。ベースの、不愛想だけど、面倒見のいい「タカちゃん」。空がよく懐いている男子。それにしても、こんな顔だったっけ。空の前では、もっと穏やかに笑う印象があった。 「タカヤです。鳥のタカに弥生時代のヤで鷹弥」 タカちゃんはやめてくれ、と眉に皺を寄せて、口を歪ませる。怒っているのか、笑っているのかよく分からない表情。ああ、この顔は見たことがある。空の前ではよくこうやって笑っていた。 「鷹弥くん」 「おう」と彼が答える。「そのウォークマン、あいつの?」 「空から借りている。というか、一緒に使っている」 「あ、そう」彼は少々意外そうな顔をした。 「なにか問題があるの」 「いや、それ、誕生日に親父さんから貰ったって嬉しそうにしていたからさ。俺らにしょっちゅう自慢するほど大事にしてたからさ、人に預けるのかと思って」 「空は私に音楽を好きになってほしいみたい。自分の好きなものを、私にも好きになってほしいのだと思う。とにかく曲は聴くようにしているんだけど、残念ながら、あの子の要求を満たすことは難しい気がしている」 「それはちょっと違うんじゃないか」 「どういうこと」 「別に、ソラは自分の好きなものを君に押し付けたくて、そんなことしているんじゃないと思う。そうだな、たとえば、」と言ったきり彼は続きの言葉を探して口を噤んでしまった。 彼はしばらくの間、空色のウォークマンをじっと見ていた。たとえばの続きを口にすることもなく、かといってそれらしい答えを探している素振りもなく、ただ私の前に立っている。まだなにか用事があるのだろうか。 「空から、私と仲良くなりたがっているって聞いたけど」 「それは、」彼は口に手を当てて少し考える。「それは間違いじゃないけど正しくもない」 はっきりとした口調でそう言った。 「だよね」その潔さに私は笑った。 想像通り、彼が社交性を持ち合わせている人間には到底見えなかった。どこからどう見たって、私と同じ種類の、かなりコミュニケーション下手な人間だ。 「聡子さんと仲良くなりたくないわけじゃないよ。ただ、君とソラがどうして仲が良いのか知りたかったんだ」 「あなた、空の保護者なの」 「ああ?別にそういうのじゃねえよ。ただ、気になって」 乱暴な言葉遣いに、思わず眉を顰める。私のその顔を見て、「ああ、ごめん」と呟く。そういう喋り方に慣れていないだけで、別に怒っているわけじゃない。気を許されているのだと思うと、むしろ悪い気はしない。空の友だち、というただ一点で私たちは交わっている。そういうのは、私にとって初めての経験だった。 「気になったから、わざわざ私に会いにきたの」 「あいつさ、やじろべえみたいじゃん。もしくはだるま落としとか、おきあがりこぼし的ななにか」 「ああ、うん。言わんとすることは分かるよ」 空の感情は、あっちこっち行ったり来たりと忙しい。穏やかな気性の中に、得体のしれない不安定な感情が隠れている。それが、十代特有のものなのか、なにかはっきりとした原因があるのかは分からない。ただ、ときどき、彼女の不安を肌で感じるときがある。痛くて、底なしに暗い。だから、彼が言いたいことも分かる。 「心配っていうほど大げさなものじゃないけど、なんだかね」 「‘氷の女王’だけど大丈夫かって」 彼が昔、「‘氷の女王’と一緒にいて大丈夫なのか」と、空に質問しているところを偶然聞いてしまったことがある。あのときはなんとなく腹が立ったけど、今では彼の不安はよく分かる。 目の前に立つ鷹弥くんは、眉に皺を寄せて、一層不愛想を募らせている。これはたぶん、驚いているんじゃないだろうか。私がそのあだ名を知っているとは思わなかったのか、もしくは、そういう冗談を言うとは思わなかったのか。少しのあいだ、そのまま固まっていたが、やがて、笑顔になり、こう言った。 「君はソラをないがしろにしない。あいつの愛情を踏みにじらない。たぶん、そんな気がするよ」 彼は、昼飯の邪魔をしてすまなかった、といって自分の教室へ帰っていった。私は途中で停止していた曲を再開する。ベイべー、なんとか、アイラブユー。直球のラブソング。うん、良さが分からない。このウォークマンに入っている曲はもうほとんど聴き終えたが、残念ながら、どの曲も特に私の心に響かなかった。 空は、Yシャツ一枚で生徒指導室から帰ってきた。髪の毛はどうしようもないから、とりあえず服装だけでも、ということなのだろうか。当の本人は、ブレザー持ってないから寒いよお、とぶつぶつ文句を零していた。 「ごめん、やっぱり音楽に興味を持てないみたい」 嘘をついてもしょうがないので、正直にそう言うと、彼女はさらに落胆していた。借りていたウォークマンを返すと、わかったと頷く。 「私は空と違って、音楽を愛せないし、音楽にも愛されていないみたい」 「そんなこと言わないでよお」彼女は悲しそうな顔をする。 「だってそうじゃない。空はたくさんの人に愛されて、その愛を受け止める力も持っている。音楽に対してもそうよ。あなたは、音楽ときちんと向き合って愛し合っている。でも、私はそうはなれない。空が羨ましい」 「ソラが羨ましいの?」首をかしげて聞き返す。何を言っているのかわからない、という顔だ。 「ええ、あなたのことが羨ましい」 彼女は不思議そうな顔をしていた。眉が下がり、なんだか泣きそうな顔に見えた。 「サトコはさ、小説や映画には詳しいじゃん。どうして音楽はダメなんだろうね」 ウォークマンにイヤホンを巻きつけながら、空が呟く。それは、質問というより、ずっと胸にあった疑問が口からこぼれた、という感じだった。 「よく考えると不思議だね」 「なにが違うの?」 なにが違うのだろうか。今まで、真剣に考えたことがなかった。音楽と小説や映画の違い。前者には、楽器があって音がある。後者には、文字があって物語がある。音と物語。ああ、そうか。 「物語があることかな」 「音楽にも歌詞があって、それぞれに物語があるよ」 「ああ、たしかに。でもね、私にとって物語は救いだったんだよ。それさえあれば、それに没入していれば、世界は少しだけ私に優しくなる。知らない街を知っている。乗ったことのないバスにも乗ったことがある。貰ったことのない愛情を知っている。この世にはいない動物の手触りを知っている。そういう優しさが、生きていくには必要だった。小説や映画は、あと漫画もそうだね、それを教えてくれたの」 「ソラはね、音楽を通して世界と繋がっているよ。世界を知る、とも言えるかも」誰も知らない秘密を教えてくれるように、悪戯っ子の目をして彼女が笑う。 「ああ、あなたはたしかにそんな感じだね」 私にとっての物語は「逃げ場」として機能していたが、空は「遊び場」として音楽と繋がっている。音楽を奏でる彼女にはネガティブなイメージが一切ない。だから、音楽をまっすぐに受け止めて、愛しているように見えるのかもしれない。とても純粋で、子どものように自由で無垢な愛し方だ。私のそれとはまるで違う。 「ねえ。空は自分の好きなものを、私にも好きになってほしかったの」 「ううん、違うよ」 「じゃあどうして。どうして、ウォークマンを貸してくれたの」 「ないしょ」と彼女は言った。 なんとなくはぐらかされたような気がしたが、それ以上追及することはしなかった。 「あ、さっきの話だけどさ」空は再び口を開く。「サトコは、世界についてわからないことだらけでも問題ない?」 「問題はあるのかもしれないけど、私が私として生きていくためには、今のところ音楽は必要ないのかもしれない。これは暫定的な話で、いつか音楽を欲するときが来るかもしれないけど」 「音楽とか本とか、なんにも必要ない人っているのかなあ」 「そりゃあ、いるでしょう。父と母がまさにそうだったよ」 「へえ、どんなお父さんとお母さんだったの?」 「どんな人だったんだろうね。私にもわからないよ」 「わからないの?もしかして、あまりお話ししなかったの?」 「話は、たしかにしなかったね。でも、私が二人のことをよくわかっていないのは、そういう理由からじゃないよ。かれらは私とは違う人間だから、なにを考えているか、なにを考えてていたかわかるはずがないの。それに私には、かれらにもそれぞれの人生があったことを知らなかった。あの人たちが親である以前から、ずっと人間として生きていたことを、きちんと理解していなかった」 空はまん丸の目で私を真っ直ぐ見つめていた。 「ただ、すくなくとも私には、ふたりが自分自身の存在に疑問を持っていないように見えた。それで、この世界に馴染むのが上手い人たちだった。だからかな、人と同じように真っ直ぐ歩けない私のことを、受け入れられなかったのかな。一度言った言葉や、一度してしまったことは取り消せないのにね」 「それは本当に正しかったの?」 「かれらにとっては、そうだったんじゃないかな」 両親が、私に向かって放った言葉の数々を思い出そうとして、よく覚えていないことに気がつく。あれ、と私は驚く。そして、二人がこの世界から姿を消してから、もう三年という歳月が経ったことにまた驚く。かれらの顔やかたちを思い出そうとしても、壊れた歯車みたいに記憶と記憶が上手く繋がらない。そうか、もう三年か。私はたぶん、こうやっていろんなことを忘れていくんだろう。たとえば、三年後の自分の姿を想像しようとしてみてもピントのぼけた写真みたいになってしまうように、過ぎた出来事も褪せていくのだろう。 「でも、上手く生きることと、ちゃんと深呼吸して生きることは別物だと思う」 私の後ろに広がる窓の外の景色の、さらに遠くを見ながら、空はぽつりと呟いた。 風に乗って運ばれた潮風の香りを感じて、鼻がツンとする。まだ秋が始まったばかりとはいえども、窓を開けっ放しにするのは案外寒い。そう思って教室の窓を見ると、全て閉じられていた。 この香りはどこからきたのだろうか。私の鼻は、むせ返るほどの潮の香りをたしかに感じたというのに。 「ねえ、あの曲はウォークマンに入っていないの。空が初めてつくった曲」 「ええ?あれ、お蔵入りしたんだよ。世界観が合わない、ってタカちゃんに一蹴されちゃったから」 「私、あの曲が一番好き。ほかのメンバーには評判良かったって言っていたじゃない。どうしてお蔵入りしちゃったの」 空は何も答えない。うつむいてしまったので表情が分からないが、耳が赤くなっていた。 空が初めてつくったのは、ある少年が大好きな人と猫になって暮らしたいと、神様にお願いする曲だった。猫になって彼女の腕に包まれていれば、どんな邪魔も入らないふたりだけの世界ができるから、と少年は言う。どんなに懸命にお願いしても、神様はうんともすんとも言わなかったが、最終的に、神様はお願い事を叶えてくれて、少年は猫になって大切な人と海の見える街でいつまでも幸せに暮らす。めでたしめでたし。 まるでしあわせな夢を見ているような、優しくてあたたかい曲。空の人柄がよく表れていて、私はその曲が好きだった。 「この間あなたが言っていたけど、次の人生があるなら、猫になるのも悪くないね。いつまでもふたりで一緒にいられたら、それは本当に難しいことだと思うけど、素敵な生涯になる思う」 「サトコはいつかいなくなっちゃう?」弾かれたように顔を上げて、消え入りそうな声で私の名前を呼ぶ。 たくさんの友だちがいて、音楽にも愛されていて、大切なものがたくさんあるのに、私のことを驚くほど愛してくれる空。彼女は、たくさんある大切なもののひとつでしかない私のことも、平等に愛してくれる。 それがどんなに難しいことなのか、彼女は分かっていない。物事には優先順位をつけないと。人に対しても、いつでもどこでも平等でいることなんてできないと私は思っていた。 「ねえサトコ。サトコはいなくなっちゃうの?」 「ううん。ずっと一緒にいるよ」 私はできるだけ優しい声を出した。そして、彼女の手を握る。 私はずるい人間だから、彼女からの「平等の愛」ができるだけ長い時間与えられればいいな、と心のどこかで思っている。底無し沼のように汚くて醜い感情。優越感と独占欲が私の心の中には大きく陣取っていた。 だから、彼女に対しても優先順位をつけろとは言わない。いつか、彼女がいなくなってしまうとしても、できるだけ長く、私は彼女の大切な何かでいたかった。たとえ、それがたくさんある中のひとつでしかなくても。 「約束だよ。サトコとソラはずっと一緒」 たった今、この世の真実を知ったかのような顔をする。そして、空は今日一番の笑顔になった。曇りのない、真っ青な空。一説によると、日照時間が長い地域に住む方が、そうではない地域に比べて、前向きに生きていける確率が高いという。人はできるだけ長く太陽の近くにいたいと願う。私も多くの人間と同じだった。 あなたには、きっとこれからたくさんの出会いがある。そして、あなたが望もうと望むまいと、あなたはどんどん変わっていく。いつか私はあなたの人生に必要がなくなる。 だけど、あなたがいなくなるまではずっと一緒だよ、と心の中で呟いた。魔法のように、呪いのように、十代の私は何度も何度も繰り返していた。 ✳︎ 「サトコ、いつの間にタカちゃんと仲良くなっていたの」 中間試験も終わり、学校が通常授業に戻り、テストの緊張感と先生たちの厳しい眼差しからも解き放たれ、校内には平和が戻った。私たちは相変わらず机を寄せ合い、ふたりでお昼を食べていた。 彼女の方を見ると、あんぱんと牛乳を両手に持ち、不満げに頬を膨らませている。いや、頬が膨らんでいるのは、あんぱんを詰め込みすぎているせいだ。 「別に仲良くなったわけじゃないよ」私は答える。 「でもでも、タカちゃんが『聡子さんと喋った』って言ってたもん」 「ああ、それは、彼が私の教科書を間違えて持って行っちゃったみたいだから、返しに来てくれたの。そのとき少しお話ししただけだよ」 「ソラ、そんなの知らなかった」 ますます空はむくれている。知らない間に、自分の友だち同士が仲良くなっていたのが気に入らないらしい。 「言い忘れてた、ごめんね」 「なに話したの?」 「今度ライブにおいでって」しれっと嘘をつく。 「サトコ、来る?ライブ、観に来てくれる?」 インスタントの味噌汁をせわしなくかき混ぜながら、嬉しそうに笑う。こういう時の空は、まるで犬みたいだ。 「行っていいの」 「もちろんだよ。来て、観て!」 空は興奮していた。私はそんな彼女の様子が不思議でならなかった。というのも、私がウォークマンに入っている空のオリジナル曲を聴こうとするたび、彼女は顔を真っ赤にしながら阻止してきた。最終的に、共用のウォークマンに入っていた自作の曲は全て削除されてしまった。だから、当然ライブも嫌がると思っていた。 彼女はスケジュール帳を出し、ライブの予定をチェックしている。 「来週、文化祭でライブするよ。ぜったい来てね」 ✳︎ まさか自分が文化祭に参加する日がくるなんて。校門にそびえ立つ巨大なアーチを見ながら、心の中で感嘆と嘆息の混じったため息をつく。 うちの学校は、隔年で文化祭と体育祭が秋に開催される。私たちは、一年が文化祭、二年は体育祭、そして、三年は文化祭だった。体育祭は全員参加で一年間みっちり準備するのだが、文化祭は部活に入っていなければ、参加せずとも許されてしまう緩い行事だった。ちなみに出席もとらない。私は帰宅部だから、文化祭に参加したことがなかった。 学校の最寄りの駅を出た時点から、うちの文化祭に来るであろう人の多さに圧倒されていた。ふだんうちの学生と近所に住む人しか利用しない駅だから、これほどまでに混雑することは滅多にない。私は、帰りたい、とほとんど口に出して呟いていた。 駅から校門まで、人々は列をなして歩いていた。うちの学校は曲がりなりにも進学校だから、受験を控えた中学生やその保護者などがこぞって訪れているのだろう。私はここを受験するときに、文化祭も体育祭も学校説明会ですら参加しなかったから、新鮮な気持ちでかれらを眺めていた。 下駄箱が封鎖されているので、いつもは使わない入り口から校舎に入る。上履きを持ってこなかったことにふと気がつき、どうしようかと思う。仕方がないから靴下で中に入ろうと思い、履いていた革靴に手をかけると、土足で中に入る人々が目に入る。どうやら、今日は校舎内を土足で歩いていいらしい。足下を見ると、緑色のシートが廊下の先まで続いている。いつ設置されたのか知らないが、おそらく、これが校舎中に張り巡らされているのだろう。毎日来ている学校なのに、知らないところに迷い込んだみたいだ。不思議な気持ちで校舎を進む。 カラフルな看板を横目に、派手な衣装を着た人々を眺めながら、目的の音楽室へと向かう。そういえば、音楽室に入ったことがないことに、今更ながら気がつく。この学校は、芸術科目は音楽か美術のどちらかを選択する制度で、私は美術を取っていたから音楽室に足を踏み入れたことがなかった。 三階の教室が並ぶ通路を通り過ぎ、曲がり角のすぐそばの薄暗い廊下に音楽室の入り口はある。普段はほとんど人気がないのに、今日は軽音楽部がライブを行なっているため、いつもより断然、廊下が賑やかだ。 防音の重たい扉を両手で開けると、熱気と音量と人の匂いに五感を刺激される。思わず、耳を塞ぎ、目を閉じそうになる。なんとかこらえ、人混みを避けながら、一番奥の端っこに避難する。 前日に空からもらったパンフレットを見ると、彼女たちのバンドの出番は一番最後の十六時から、と記載されていた。大きく赤丸が付いているので間違いない。「バンド名言っても、サトコはすぐに忘れちゃいそうだから」と、空が印を付けてくれた。開始まであと五分。慣れない環境に頭がクラクラする。目を閉じて待っていよう。 Blackbird singing in the dead of night 聞き慣れた歌声に、弾かれたように目を開ける。驚いて腕時計を見ると、ちょうど十六時ぴったりだった。ステージに目を向けると、空と鷹弥くんと、笑顔が印象的な大柄な男子が下手から登場する。フロアにいた人々は波を打ったかのように静かになり、ただ中央を見つめている。 ポールの声が徐々に遠くなる。声が完全に聞こえなくなったとき、空の歌声がまっすぐ、私の真ん中に届けられる。高くもなく、低くもない、独特の声質。喋る時とは少し違って、高い音を出すときに少しざらつく声。心地良いのに、ちょっとだけ悲しくなる歌声に、すぐに心を掴まれた。 ライブはあっという間に終わった。長い時間演奏していたのか、本当に数曲しかやらなかったのかはよく分からない。空の歌声と、大音量でかき鳴らされる楽器の音にただただ圧倒されていたら、すぐに終わってしまった。楽しいとか、感動したみたいな感じではない。ただただ打ちのめされた。普通の学校の音楽室だから、おそらく音響はよくないと思う。楽器の音が大きすぎて、ボーカルのの声が聞こえない時もあった。それでも、真っ直ぐな感情が、丁寧に包まれた贈り物のように、しなやかな歌声で伝わってきたことは間違いない。 やはり音楽の良さは分からないけど、こういう音楽体験もありなのかもしれないと私は思った。少なくとも、悪くはない。 人の流れに従って外に出ると、空たちは廊下にいた。後輩らしい子たちに囲まれて、なごやかに談笑している。たしか、三年生はこれで引退するとか言っていたから、お別れの挨拶でもしているのかもしれない。後輩の女の子が目元に涙を浮かべていて、それを見た鷹弥くんがギョッとしている。 邪魔しちゃいけないからそのまま帰ろう。そう思って、彼女たちの脇を通り過ぎようとしたとき、不意に空と目が合う。 「サトコ」大きな声で名前を呼ぶと、そのまま私の元へ駆けてくる。 「どうだった?」 前髪が汗で額に張り付いて、いつもは見えないおでこが丸見えになっている。どうして彼女はこんなに眩しいのだろうか。目が眩むのに、まっすぐ見ていたいと思ってしまう。そう、まるで、天上にどこまでも広がる空みたいだ。 「音が、とても、大きかった」 「それだけ?」首を傾げて私を見つめる。 「空が楽しそうで、私も楽しかった」 「へへ。サトコ、来てくれてありがとう。あのね、」 「ソラ、久しぶり」 彼女が何か言おうとしたとき、見知らぬ男の人が肩に手を置き、笑いかける。私服だし、多分大学生だろう。軽音楽部のOBなのかもしれない。 「お久しぶりです」 空は後ろを振り返り、会話が遮られたことなんて気にもせず、軽やかに挨拶をする。自然と私に背を向ける格好で会話を始める。 ふいに大学生が私を見た。目が合う。こんにちは、と私は言った。 「話し中だった?」 「あ、いえ、」空がまごつく。 「ソラの同級生?軽音の子じゃないよね」 「はい」と私は答える。 空が私と彼との間にすっと入ったので、声をかけてきた大学生の顔はよく見えなかった。 「そういえば、タカちゃんが先輩に会いたいって言ってましたよ」 「ああ、タカな」と彼は笑う。空気が漏れるような笑い声だった。「さっきまで、あっちでタカたちと話してたんだ。ソラも早く来いよ」 「もうちょっとしたら行きます」 「行きなよ」思ったよりも大きな声が出て、驚く。空も私の声に弾かれるようにして振り返り、困った顔をしている。 「でも、」 「今日はありがとう。また週明け、学校で会おう」 「うん、サトコごめんね」 眉間に皺を寄せて彼女は笑っていた。何か悪いことを隠している子どものようで、少しおかしかった。 彼女は私に謝ると、大学生の後を追って、走り去っていった。そのまま、制服姿の女の子たちや、私服の男女の輪の中に吸い込まれていく。 泣いている女の子。花束をもらい、困惑する男子。肩を叩き、笑い合う男女。なんというかフィクションみたいだ。作り物みたいによくできた光景。ありふれた、かけがえのない青春。その真ん中に空はいた。私はそれを薄暗い廊下の隅っこから眺めていた。
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