二章 藍原唄は歌いたい

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 翌日、また俺は放課後に藍原のタワーマンションを訪れた。と言っても、車道を挟んだ向かい側からヘッドホンをつけてエントランスをじっと見つめているだけだ。  藍原唄はギターを持っている。夜になるとギターを持ってどこかへ出かけることがある。現状、掴んでいる情報はそれだけだった。  プリシアにもっと臨機応変な行動を取る応用力があればより多くの情報が掴めたかもしれないが、それは考えても詮無きこと。学校のグループワークと同じである。グループの中にちょっとダメな子が混ざっていても責めてはいけない。大事なのはその不運と向き合う姿勢である。  ちなみに今日のナンバーは「耳かき専門店」をテーマにしたタイプの耳かき音声。癒やしを求めて店を訪ねた主人公が、耳かきはもちろんのことヘッドスパ、シャンプー、マッサージ、肩たたきといった全身のご奉仕をしてもらうものだ。  音声作品なのにマッサージとか何を言っているんだ? と思われるかもしれないが、そういう奴はバイノーラル録音をなめている。肩たたきなんて音を聞いているだけなのに身体が本当に肩を叩かれていると錯覚するほどだし、シャンプーの泡が耳元で弾けるような効果音はもはや入浴の代わりになるのではないかと思うほどだ。  作品によっては添い寝だとか他のサービスが同時に行われる場合もあるが、今回はとにかく耳かきに重点を置いた王道を征く作品で、 「カキタロー、出てきたよ」 「チッ」 「なんで舌打ちしたのいま!?」 「気のせいだ、耳がおかしくなったんじゃないのか、いい耳鼻科を紹介してやろう」 「耳が心配なのはいつもヘッドホンつけてるカキタローの方だよ」  生意気にも俺の身体を気遣ってくるプリシアの言う通り、タワーマンションから藍原が出てきたところだった。その手には確かにギターケースが握られている。  藍原との間に適度な距離を置きつつ、見失わないように尾行する。ヒーローの力は使わない。感情エネルギーの消費はプリシアの耳かきが遠ざかることに繋がってしまう。一日でも早くこの精霊から解放されるためにも、節約はするべきだ。  やがてたどり着いたのは、駅前から少し離れた通り。時刻はすでに夕暮れを過ぎている。夏場とはいえ空も藍色に染まり始めている時間だ。  藍原はおもむろにケースからギターを取り出すと、それを弾き始めた。 「ん……」 「どうしたの?」 「いや、なんでもない」  物陰に隠れて藍原の演奏を聴く。その旋律には覚えがあった。確か、二年前ぐらいから売れ始めているバンドの曲だ。そのバンドが歌番組に出ているのを、梨子が食い入るように見つめていたのを覚えている。  イントロはほどなくして終わり、やがて歌声が聞こえてくる。  座間の話によれば、藍原はクラスでは孤立した存在のようだ。話し相手などいるはずもなく、座間でさえ彼女がどんな声をしているのか記憶にないと言う。  実際に聞いてみた藍原の声はとても澄んでいて、風鈴の音を思わせる涼やかさを伴っていた。耳かき音声の声優をやらせたら、けっこう人気が出そうだ。耳元で囁いてほしくなる。そんな声だった。  しかし、まあ……、 「下手だな」 「う、うーん」  プリシアは首をひねっている。言葉を濁しているのか、はたまた芸術的センスがなくて上手下手の判断がつかないのか。  俺も音楽に造詣が深いわけではない。とはいえ、たいていの人間は他人の歌声を聞いて上手・普通・下手の三段階評価は下すことができるだろう。有り体に言って、藍原は音痴だった。  思わず耳を塞ぎたくなる、というほどではない。一緒にカラオケに行ったとしたらそっとしておいてやれるぐらいの下手さではある。結局のところ下手は下手なので、彼女の演奏に足を止める者はほとんどいない。立ち止まったとしてもほんの数秒程度、物珍しそうに視線をやって帰るだけだ。 「しかし、まさか路上ライブをやってるとはな」  とても物静かな女子高生がやることではないように思う。軽音部に入っているということもないだろう、というか入っていたらもうちょっと歌が上手くなっているのではないか。  藍原がどうして路上ライブなんてしているのかはわからない。まさかこの実力で小銭稼ぎに勤しんでいる、というわけでもないのだろう。  ただ、たとえ下手でも大きく口を開けて歌声を奏でる彼女の姿は―― 「ねえ、カキタロー。なんだか様子が変だよ」  プリシアの声に我に返る。知らぬ間に目を閉じて彼女の演奏に浸っていたらしい。  気づけば歌声もギターの音色も止んでいて、なぜかおっさんの怒鳴り声が耳に届いた。  まさか藍原の音痴に拍車がかかっておっさんみたいな歌声になった、などということはあるまい。事実、視線の先では一人の男性が藍原につっかかっている。 「おい嬢ちゃん、うるっへぇんだよっ、さっきからょっ!」 「あ、あの」 「こんなっ、とこでっ、迷惑だろっ!? あんっ!?」  呂律も怪しいうえに足取りも覚束ない、どうやら酔っ払いに絡まれているようだ。  思わず嘆息する。気の毒だが、助けてやる義理はない。ああいう手合いに絡まれた時はおとなしく退散するのが上策だろう。藍原もさっさとテキトーに謝罪して立ち去ればいい。 「らいたい、よぉっ」  もうすっかり萎縮してしまっている藍原に向けて、酔っ払いの男性は言い放つ。 「下手なくへに、うたってんらねぇよ!」  そのあまりにも暴力的な一言は、藍原を見捨てて帰ろうとした俺の頬に強烈な平手を放ったかのようだった。 「カキタロー……?」  プリシアが呼びかける声を背後に、俺は藍原達に近づく。 「おい、おっさん」 「あぁ?」  男性がこちらを向く。所詮俺は一介の高校生、酩酊状態とはいえ大人の男性を前にした時に受ける威圧感には足がすくみそうになる。  けれど、そんなことは関係ない。 「うるせぇのはあんただよ」 「あぁん?」 「おい藍原、俺はよく知らねぇけど、こういうとこで演奏するなら警察とか役所とかから許可もらってんだろ?」 「え……うん」  目を丸くした藍原がか細い声で頷く。よし、もし許可もらってなかったらどうしようかと汗だくだくだったが、よかった。本当によかった。  俺は気を取り直して男性に向き直る。 「ってことは、あんたにこいつの邪魔をする権利はないよな?」 「んだとぉ? 許可もらってようがなんだろうがなぁ、耳障りなんだよ!」 「大人のくせに、そんなわかりきったことをしたり顔で言ってて恥ずかしくないのかよ」 「……おん?」  眉を寄せる男性の目をにらみつけ、俺は言い放つ。 「こいつの歌が下手なことぐらい、ここを通る全員がわかってるって言ってんだよ!」 「へぅ」  背後から小さな叫び声みたいなものが聞こえた気がしたが、今はかまっている暇はない。 「いいか、こいつの歌は確かに下手だよ。聴く価値があるかないかの二択で言うなら、間違いなくないよ」 「お、おう」 「でもな、こいつはちゃんとした手順を踏んでここで歌ってんだ。だからあんたが文句を言いたいなら、こんな下手くそに許可を出した行政に言えよ。もしくはさっさと電車に乗って家に帰って布団に潜って二日酔いで苦しめ!」  ずずいっ、と歩み寄ると男性が一歩後ずさる。 「まあ、正直そのあたりのことはどうでもいいんだけどさ」 「ど、どうへも、いいのか?」 「いいに決まってる。あんたが二日酔いになろうが玄関に倒れ込んで風邪引こうがどうでもいい。ただあんた、さっき『下手なくせに歌うな』とか言ったよな?」  俺は右手の親指を立てて、そのまま下に向けるジェスチャーをする。態度が悪い? 上等だ。はなから自分のことを上品な人間だと思ったことは、一度もない。 「他人の『好き』なことに対してケチつけるあんたの方が、よっぽど耳障りだ」  一瞬の沈黙。 「そ、そうだよな」  その声は、俺のものでも、男性のものでも、ましてや藍原のものでもなかった。 「その子の言う通りよ」  気がつけば、周囲には小さな人だかり。集まっていたサラリーマンやら主婦やらが、次々に口を開く。 「許可をもらってるなら、歌うのは自由よねぇ?」 「上手くは、ないけど。誰かに迷惑かけてるかっていうと、そうでもないし」 「というか、言い過ぎ。女の子に向かって大の大人が、みっともない」  男性が鼻白む。アルコールで上気していた顔は今や蒼白。あわあわと口を開け閉めするだけのオモチャのようになっている。 「早く帰った方がいい。長引くと動画とか録られてネットにアップされるかもしれないぜ? 現代社会は怖いんだから」  脅しも込めてそう忠告してやると、男性はすっかり酔いの覚めた様子で小走りに駅の中へと逃げていった。  なぜかまばらな拍手を受け取りながら人心地つくと、背中をつつかれる。 「あ、あの」  振り向けば、そこには藍原がいた。 「その……ありが、とう」 「別に、ちょっとムカついたから口喧嘩しに来ただけだよ」 「それでも、お礼は言う。だけど……」 「あん?」  首をかしげた俺に対して、藍原はなんだか赤く染まった顔で、 「私、君のこと、好きじゃない」  そう言って、ギターを担いで去って行ってしまう。  取り残された俺はただ呆然と立ち尽くすのみ。なぜだか先ほどまでは拍手を送っていた観衆から、今度は哀れみのこもった視線を注がれている。  おかしい、どうして告白されてフラれたかのような状況になっている。どうして公開処刑を食らったみたいな空気に包まれている。  そもそも「好きじゃない」ってなんだ。嫌いってこと? なんで嫌われてるの? その答えにはせいぜい二秒程度でたどり着いた。 「あんだけ下手くそって言えば、そりゃキレるか」  あまりにもわかりやすい真相に気が抜けるようだった。  好感度を上げるために庇ったわけではないのだし、気にすることでもないのだが。  ――好感度?  そういえば、どうして藍原の動向を観察していたのだったか。その答えも三秒ほど記憶の引き出しを漁るだけで思い出せた。  俺はあいつに、ヒーローになってもらおうとしていたのだ。 「……おいおい、まずくねぇか?」  男性と向かい合った時よりも大量の冷や汗が背中に流れるのを感じた。  今の状況をゲームに例えるのであれば、好感度がマイナスの状態から始まっているヒロインを落とさなければならないギャルゲーだ。  それでもゲームなら選択肢を選ぶだけでシナリオは進むし、勝手にイベントが発生するうえにセーブデータだって何個も保存できる。  しかし、俺が生きているのは悲しいかな現実である。リアルはクソゲー、よく言ったものだ。  絶望に打ちひしがれている俺をよそに、いつの間にか傍まできていたプリシアがなぜか笑顔で言う。 「カキタロー、なんていうか、かっこよかったよ」 「バカにしてんのかポンぱい」 「えぇっ、褒めたのに!?」  すぐ涙目になるプリシアの相手などしている余裕はない。ちなみにポンぱいとはポンコツおっぱいの略称である。多分、近いうちにポぐらいまで略すことになるだろうが、それを考えるのは今ではなかった。
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