心臓

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心臓

 当選者 松田聖子(41歳、女性)  正月元旦の午前10時過ぎ。 「なんで、こんなもんばっかり当たるのよ!」  松田はくじ券を握りつぶすようにぐしゃぐしゃ丸めると、ゴミ箱に向かって投げた。くじ券は狙いを外れて壁に当たり、跳ね返って松田の足元近くまで戻ってきた。  ドラッグストアの登録販売者――実質的にはレジ係だが――として、時給920円でパート勤務する松田は、世間では正月休みの真っ最中である今日も午後一時から出勤しなければならない。  一人暮らしの粗末なワンルームマンションの床に落ちている、ボール状に丸まったくじ券を足で蹴ると、朝起きて着たきりだったパジャマ代わりのジャージを脱ぎ始めた。  自分はなぜこんなに、運が悪いのだろう。ため息どころか、涙すら出てきそうだった。  38年ほど前になるらしいが、物心つかないうちに松田の両親が離婚し、松田の親権は母親が持った。母が結婚前のファミリーネームに復姓したため、それまでは「岡田聖子(おかだしょうこ)」だった名前が、「松田聖子(まつだしょうこ)」になってしまった。  読み方は違うものの、老若男女問わず日本人であれば誰もが知っているであろうこの国民的アイドルと同姓同名となったときから、自分の不幸は始まったような気がする。  小学生のころから、男子に付けられるあだ名は「せいこちゃん」だった。もちろんそれは、敬意をこめてそのあだ名で呼ばれるのではなかった。 「ブスのまつだせいこ」や「まつだせいこのくせにブサイク」と言われたことは、数限りない。松田の容姿は十人並で、決して他人と比べてひどく劣るというものではなかったのだが、本物の松田聖子とは比べるまでもない。  こんな名前じゃなかったら、こんないじめは受けずにすんだかもしれないのに。離婚したときに復姓した母や、「聖子」と名付けた一回も会ったこのない父を恨まない日は一日もなかった。  しかし、容姿に関する悪罵は、呪いとなって実現する。  繰り返し「ブス」や「ブサイク」と言われ続けた松田は、自分に対して自信を失い、いつも暗い表情をしてしまっているため、思春期を過ぎるころには見紛うことなきブスになってしまっていた。  さすがに高校のころになると、容姿のことでいじめを受けることはなくなってはいたが、同じクラスの女子が次々と彼氏をゲットしていくなか、松田に言い寄ってくるような男子はついにひとりも現れなかった。  高校卒業後は簿記や税務などについて勉強する、会計の専門学校に進学したが、そのころちょうど大不況のまっただ中だったため、専門二年になってすぐに開始した就職活動は、全くうまくいかなかった。  面接に行くと、試験官を務める男性あるいは女性は、松田の履歴書を見ると、「へえ、まつだせいこって言うんだ」と半笑いの表情で言う。  松田はそのたびに、「まつだしょうこです」と訂正した。  名前のせいなのか、容姿のせいなのか、それとも不況のせいなのか、とうとう松田はどこにも就職が決まらないまま卒業し、フリーターとしてアルバイトを続けることになった。  以降、一度も正規雇用されることなく、40代を迎えた。  松田は今まで男性とお付き合いしたことは一度もない。というか、キスも男性と手をつないだこともない。  正確には、30代半ばのころに若い男と手をつないだことはあるのだが、相手はホストだった。  バイトが終わった後、ひとりで映画を見に行った帰りに、繁華街でホストクラブの客引きに遭い、ほぼ強引に店のなかに連れて行かれたのがきっかけだった。  ホストクラブでのサービスは、それまで一度も男にチヤホヤされたことのない松田にとっては、竜宮城にでも迷い込んだかのような、異次元の快楽をもたらした。 「今年の下半期で、店のナンバーワンになったら、オーナーが大阪に新しく出店する店を任されることになる。すごいチャンスなんだ。もしよかったら、しょうこちゃんも俺と一緒に関西に行こうよ」  羽瑠翔(はると)という名前の、21歳の美男子は松田をそのように繰り返し口説いた。  松田は日々の食費を倹約し、早朝から午前9時までの週に4日のバイトを始め、お金がたまると羽瑠翔の働くホストクラブに行き、ドンペリピンクを注文した。  気付けば消費者金融三社に合計400万円の借金ができており、羽瑠翔はいつのまにか店からいなくなっていた。携帯に電話すると、着信拒否されていた。  ようやく騙されていたことに気づいて、途方に暮れた松田が、人生を逆転させる唯一の頼みとしたのが宝くじだった。「一等前後賞合わせて○億円!」というふれこみで広告される、季節ごとの宝くじは毎回購入した。  しかし、ドラッグストアの安い給料で借金を返済しながら生活しているので、宝くじを何枚も買うことはできない。だいたいいつも、1枚だけ買うことが多かった。  去年の暮れにも、よく当たるという評判の郊外にあるショッピングセンターの宝くじ売り場で、年末ジャンボ宝くじを買ったのだが、家に帰ってくじ券をよく見てみると、それは現金が当たる宝くじではなくて、臓器があたる「年末ジャンボ臓器宝くじ」のほうだった。  きっと、売り場の店員が間違ったに違いない。  容姿も良くなく運にも恵まれていない松田だったが、身体だけは人一倍頑強にできていた。子供のころから、大きな病気はしたことがないどころか、風邪ひとつひいたことがない。健康診断以外で最近病院に行ったのは、薬缶のお湯をこぼして左足首まわりを火傷したときのことだったが、もう15年以上前になる。  当然、松田は臓器移植など必要としていない。  派手な虹色の柄に、心臓を表しているのだろうか、ピンク色のハート形の顔をしたキャラがプリントされている臓器宝くじのくじ券を見て、 「あした、宝くじ売り場にいって、ふつうのジャンボ宝くじと交換してもらおう」独り言を言った。  もう10年近く前になるのだろうか、臓器移植のための臓器が当たる宝くじというのが試験的に販売開始になったことは松田も知っていたが、購入したことは一度もない。臓器宝くじの仕組みも、商品以外がふつうの宝くじとどう違うのかも、知らない。 「まあ、いっか。どうせ私には関係ないし」  松田は臓器宝くじを財布のなかに戻した。  翌日、仕事が始まる前に、前日と同じ宝くじ売り場に行った。 「あの、すみません。昨日、こちらでくじを買ったんですけど、ふつうのジャンボ宝くじをお願いしたんですけど、もらったのが臓器宝くじだったんです。だから、ふつうのほうに交換してください」  そう言いながら、臓器宝くじのくじ券を窓口に出すと、昨日とは違う若い女性店員は、ちらりと松田の顔を見上げた後、 「一度販売したくじ券は、返品や交換はできないことになってます」と言った。 「え、そんな……、私はちゃんとふつうのジャンボ宝くじくださいって言ったのに、間違ったのはそっちじゃないですか。交換してください」 「そう言われましても、ルールとなっておりますので……。くじ券はその場でお確かめいただかないと」  納得いかない。もっと強く要求しようと思ったが、よく当たると評判の売り場なだけあって、すぐに後ろに人が並んできて、順番待ちをしている。  たかが300円で争うのも馬鹿馬鹿しいと思ったので、 「それじゃ、いいです。現金が当たるふつうのジャンボ宝くじ1枚ください」と言って、百円玉三枚を財布から出した。  大晦日も松田は出勤だった。世間では年末年始を家族や恋人と過ごす人も多いのだろうが、松田には普段と変わらない一日だった。12月31日に午後1時から閉店の夜10時まで勤務し、家に帰るとドラッグストアで買って帰ったカップ麺の天蕎麦を食べると、軽くシャワーをして寝た。  翌、元日。この歳になると、昔からの友人や知り合いは皆結婚していて、ともに初詣に行く相手もいない。  ふとんに入ったまま、特番ばかりのテレビをザッピングしながら見ていたが、まだ宝くじの当選を確認していないことを思い出して、起き上がった。  財布から、二枚のくじ券を取り出す。  そして、スマホのブラウザを開いて、見慣れた宝くじ公式サイトを開いた。  年末ジャンボ宝くじの結果は、はずれ。一等どころか、下一桁が合ってさえいればいい七等の300円も当たっていなかった。  ため息を吐いて、ブラウザを閉じた。  しかし手元にはもう一枚、臓器宝くじのくじ券がある。「どうせ、当たっても意味ないし……」そう思いながら、くじ券の裏を見てみると、 一等 心臓 二等 肝臓 三等 腎臓A・腎臓B 四等 肺A・肺B 五等 骨髄 六等 角膜A・角膜B 七等 現金300円  と、臓器宝くじの当選賞金(商品)一覧が目に入った。 「ひょっとしたら、こっちのほうで七等が当たってるかも」  松田は閉じたブラウザを再び開いて、宝くじ公式サイトを表示した。  当選番号案内  第8回年末ジャンボ臓器宝くじ 一等 心臓  142007  松田は手元のくじ券をもう一度見た。「142007」と書いてある。 「ウソでしょ?」とつぶやいた。  もう一度確認する。やはり、一等の心臓が当選している。  何度もスマホのディスプレイとくじ券の番号を見て、当選したことをはっきりと認識した。  しかし、そのときに松田が感じたのは、喜びよりも怒りだった。 「なんで、こんなもんばっかり当たるのよ!」と叫んだ。  心臓が当たったところで、松田にはなんら使い道はない。健康な心臓を、健康な心臓とわざわざ入れ替える物好きが、世界のどこにいるだろうか。七等の300円が当たったほうがはるかにマシだった。  こんなしょうもないくじで運を使うくらいなら、なぜ現金が当たるほうのくじで使わなかったのか。自分の運命のあまりの残酷さに、松田は情けなさを感じた。  その日、仕事を終えて帰宅した後に、松田はふと思い付いた。  この心臓が当たったくじ券、誰かに売ることはできないだろうか。  くしゃくしゃになって床に転がったままのくじ券を広げて、裏面の規約をじっくり読んだ。 第三条 当選者は当選くじ券及びレシピエントになる権利を第三者へ譲渡・販売することはできません。(ただし配偶者又は3親等内親族への無償譲渡は認められる場合があります。)譲渡・販売が判明した場合は、譲渡契約無効又は当選取消となります。  そう書いてはあるものの、買うときに身分証等を提示したわけではないし、事務局というところでは譲渡があったかどうか確認できないのではないだろうか。  しかし、公式には禁止されているから、当たりくじ券の写真付きでネットオークションなどでおおっぴらに販売するのは難しいだろう。  仮に売れるとしたら、どれくらいの値段が付くのだろうか。なにせ心臓なんだから、10万円や20万円ではないはずだ。  譲渡したことがバレて当選が取り消されたとしても、松田にとっては痛くも痒くもない。試してみても損はないだろう。  松田はウェブメールのアカウントでツイッターアカウントを開設し、 「ジャンボの当選くじ券、お譲りします。1等。詳しくはDMで」  それだけを書き込んで、その日は布団の中に入った。  翌朝、ツイッターを確認すると、同じように最近開設したばかりらしいアカウントから、1件のDMが来ていた。 「はじめまして。ジャンボ当選くじ券の件、興味があります。臓器宝くじの一等の心臓という意味でしょうか? それなら、ぜひお譲りいただけないでしょうか。500万円までなら用意できます」  それを読むと、松田は布団から飛び起きた。まさか、500万円とは。いまだに残っている消費者金融の借金を返済しても、まだ余る。まさに、宝くじに当たったようなものだ。  このDMを送ってきた人がどんな人物なのか、松田は知る由もない。ただ、心臓移植が必要だということしかわからない。が、そんなことはどうでもいい。お金に換えられるものは、換えたほうがいいに決まっている。  まるで自分が臓器売買の闇ブローカーをやっているような気分にはなったが、それが何の問題があるというのか。  会計の専門学校に通ってたころ、経済学の授業もあった。そこで習ったのだが、アメリカのフリーなんとかという名前の経済学者が、「新自由主義」という、こんな内容のことを唱えていたらしい。曰く、企業や消費者の自由を奪う政府の規制は完全に撤廃すべきであり、あらゆる商品サービスを市場で自由に取り引きすれば、社会の豊かさは最大になる。規制は社会を貧しくする。  なぜドラッグストアで自分と同じ仕事をしている正規雇用の薬剤師は、自分と給料が3倍も違うのか、松田にはまったく理解できなかった。そこには、正規雇用と非正規雇用という、わけのわからない線引きがあるせいだ。松田も時給が上がるということで、医薬品の登録販売者の試験を受けたが、薬なんか自由に売って自由に買って、自由に使えばいいじゃないか。自分は過度に抑圧され、余計な苦労を強いられている。自由を求めることは、搾取された自分の富を奪い返すこととイコールなのだ。  心臓を売れば、松田はお金をもらえる。買った人は移植を受けるチャンスをゲットする。両者が得をして、誰も損はしない。立派な取り引きじゃないか。そもそもくじ券を転売してはならないという規制が馬鹿げている。  松田はツイッターのDMを送ってきた相手への返信として、「そのとおり、年末ジャンボの一等の心臓です。当たりくじの写真も添付して送ります。ぜひ500万円でよろしくお願いします。」そう書いたが、送信を押そうとした寸前で、指を止めた。  まだほかに、このくじ券をほしいと思う人がいるかもしれない。もっと高い値段を付ける人がいるかもしれない。申込期間は、まだだいぶ先だ。焦る必要はないのだ。  記入した未送信のメッセージを削除し、 「お問い合わせありがとうございます。おっしゃる通り、臓器宝くじの一等心臓の当選券です。証拠の写真も送信いたします。しかし、すでにほかにも数名、欲しいというお問い合わせをいただいておりますので、もうしばらくお待ちください」と書き直して送信した。  すぐに返事が来る。 「700万円でいかがでしょうか?」  意図しないまま、松田の顔に笑みが浮かんだ。  数日のうちに、やはりほかにも数名、譲ってくれというアカウントが現れた。  最終的には心臓のくじ券に2000万円の値段を付けたアカウントに販売することになった。 「振り込み確認後、書留郵便で送付いたします。秘密は厳守いたします」  そう返事をした翌日、松田の預金通帳にはそれまで見たこともない数字が印字された。  約束通り、松田は北海道に住む購入者へ心臓の当選くじ券を送付した。そして役目を終えたツイッターアカウントは即刻削除した。  思わぬ大金を手にし、松田はドラッグストアのパート勤務を退職することを決意した。2000万円という金額は一生をすごすには足りないが、しばらくは働かなくてもじゅうぶん生きていけるだろう。さすがにホスト通いはもうやらないが、美味しいものを食べ、ずっと欲しかったブランドもののバッグを買うくらいの贅沢をしても何ら問題ない。 「やったー! 臓器宝くじ、ありがとう~!」ワンルームマンションの自室で、松田はひとりそう叫んだ。
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