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【2】伝説の男
遠くの山際に重なる落陽と、一面に広がる夕焼けを眺めつつ、飛鳥は感嘆の息を吐き出した。
屋上の存在を知ってから幾度となく目にしてきたが、じっくり観察してみると新しい発見があるものだ。
この時間帯は、様々なものが変化している。
夕闇に飲まれていく空もそうだが、巣に帰還する鳥の群れや家路につく学生たち……それに住宅街に点々と灯る食卓の光など、街全体が姿を変え始めている。
ちょうどここは麓を一望できる特等席だ。
――それにしても、本当に時が経つのが早いなあ。
こうしている間にも、刻々と宵に近づいていた。
瞬く間に過ぎ去ってしまう光景を、直に見られるのは貴重だろう。
大概の人は、変化する街の一端を担っていたり、夕日を眺める余裕がなかったりと、忙しなく動いているはずだ。
移り変わる様子を心置きなく見られるのは、おそらく学生のうちだけだ。
ゆっくりと眺める機会もだんだんと少なくなり、数年後には……この純粋な気持ちさえもなくなってしまうのだろうか。
――ずっと、この時間が続けばいいのに。
夕映えに魅入っていたら、ふいに「百瀬」と呼びかけられた。
声に誘われて振り向くと、数メートル先に黄昏色の髪をなびかせている男が佇んでいた。
彼は小気味な足取りで飛鳥の横につき、ヨッと手をあげる。
口を開く代わりに小さく手振りを返すと、悠介は顔前に片手を持ってきて「わりぃ、遅れた」と軽く頭を下げた。
慌ててふるふると頭を振る。
「ち、ちょうど、僕も来たばかりだから……」
実際は、自分が着いてから一時間ほどが経っていたが、それほど気にすることではない。待っている間に、今の生活が得難いものだと気づけたのだ。
むしろお礼を言いたい。
「マジ? ならいいんだけどさ……そうだ、この前のアレなんだけど――」
ころころと表情を変えながら話を進める彼につられて、ぎこちなかった飛鳥の顔も少しずつ緩んでいく。
和気藹々としているが、この取り合わせを他の生徒が見たら、さぞ違和感を感じることだろう。
現に、飛鳥も現状を受け入れるのに時間がかかった。
まさか、毛色の違う彼と肩を並べて談笑する日が来るなんて、夢にも思わなかった。
幻なんじゃないかと疑ったが、自分に向けられる笑顔や触れた手の感触……何より、あの授業以降も続いているやり取りの痕跡が手元に残っていることから、ようやく実感することができた。
そしていつの間にか――彼の方から引っついてくるようになったのだ。
今では、自分の隣にいるのが彰ではなく、悠介といるときの方が多くなり始めている。初めは、彼が行動を起こすたびにおっかなびっくりしていたが、こうも毎日のように傍にいると、案外慣れるものなのだな。
嵐のようにテリトリーをかき回していった悠介は、相も変わらず横で楽しそうに笑っている。
取り巻きには見せない素顔を知っていることに、ほんの少しだけ――優越感に似たものを感じていた。
「……でさあ、"ヒガシユウヤ"って、知ってる?」
突如、悠介の口から出てきた名前に一瞬思考が止まったが、頭の中で繰り返して記憶を辿っていく。
――ヒガシユウヤ……ヒガシ……あっ……!
脳裏に、"ある男"の姿がブワッと浮上する。
「し、知ってる!」
柔らかな栗色の髪に、トレードマークの白いジャケットを身に着けた細身の出で立ち。顔に似合う甘いハイトーンボイスが特徴的な――歌謡歌手だ。
「うっそマジで!? じゃあ……『傷だらけのジュリエッタ』っていう曲は?」
興奮した様子で間合いを詰めてきた。飛鳥は距離の近さに戸惑いつつ、顎を引いた。
もちろん知っている。
その曲で彼は新人賞を取っており、次の年以降も数ある賞レースを総なめにしていた。
彗星のように現れた大型新人に世間が注目し、彼のビジュアルを真似する人々が続出するなど、社会現象にもなっていた。
「えっと……『MY MY MY HONEY』だっけ?」
間近に迫る悠介の顔にドギマギしつつ、歌詞の一部を述べる。
「そうそう! あの独特なフレーズ、頭に残るよな〜」
世代じゃないのによく知ってたな、と覗き込まれた。耐え難い顔圧に目線をそらし「祖母の影響で……」とボソボソ呟く。
「なるほどな……同年代で好きなやついねえから、凄え嬉しい」
よほど嬉しいのだろうか、イケメンオーラがさらに増した気がする。
「そ、そっか……とっ、東道君は?」
「あぁ、俺? 俺は叔父さんの影響」
悠介は元の位置に戻り、少し照れくさそうに頰を掻いた。
「叔父さん……歌手だったんだ」
過去形ということは、もう引退してしまったのだろうか。
それとなく疑問をぶつけると、彼はしばし空中を見つめたのち、ポツリと吐露した。
「亡くなった」
その言葉を聞いた瞬間、喉が引きつるのを感じた。
「事故だったんだ。十年くらい前……ちょうど節目の年でさ、人気も絶頂でこれからってときに、道路に飛び出した子供を助けようとして……まったくついてねえよ」
懐かしそうな表情で空を見つめている。
「昔からお人好しなんだよなあ……ま、あの人らしいか」
――あれ、"十年前"って確かあの人も……。
年数に引っかかり意味深な視線を送ると、彼は瞼を伏せて小さく頷いた。
「もう、気づいてるかもしんねえけど、さっき話したヒガシユウヤ……あの人が、俺の叔父さん」
やっぱりそうかと、一人納得する。
ちょうどそれくらい前の時期に、彼のニュースが延々と流れていたので、印象に残っていた。
――でも、東道君に辛い記憶を思い出させちゃったな。
気まずそうに俯く飛鳥の肩に、悠介が腕を回す。
「そんな顔すんなよ。俺から勝手に話し始めたんだから、気にすんな」
彼は、沈んだ空気を払い飛ばすかのように手をあげて背筋を伸ばした。身体を反転し、柵に背中を預けて両肘を乗せる。
「……小さい頃、たまに遊んでもらってたな。そんときよく音楽の話してたけど……まあ、ガキ過ぎて全然内容わかんなかったなぁ」
と、苦笑した。
「でも、あの人がギター抱えてる姿だけは覚えてるんだ……俺の誕生日のとき、二人っきりのスペシャルステージやってくれてさ。あのヒガシユウヤが、俺のために作った曲を俺だけに向けて歌ってくれたんだぜ」
嬉々とした表情で続ける。
「随分と前だから歌詞とかは忘れちまったけど、あの人が弾くギターの音と歌声だけは、今でも耳に残ってるんだよなあ」
とまあこんな感じで……と、無邪気な顔をこちらに向けた。
「ずっと昔から、あの人に憧れてるんだ」
夕日を反射させてきらめく彼の双眸は、在りし日の影を追いかけているのだろう。
「意外だろ? こんな格好してる俺が歌謡曲好きで、あまつさえヒガシユウヤに憧れてるなんて……」
少し自嘲気味に苦笑いを零す。
悠介が自分のことを掘り下げるのは、今回が初めてだ。放課後に落ち合うようになってから色々と話してきたが、どれもこれも当り障りのない内容ばかりだった。
こうやって素顔を見せることは多くなったが、悠介は未だに一線を引いていた。相手には進んで突っ込むくせに、こちらから近づいた途端に壁をつくって、これ以上入ってくるなという意思を会話の端々から感じていた。
そんな彼が一歩踏み込んだ話をしてくれた……これは嬉しい事実だ。
「あーあ、言っちまった。叔父さん……ヒガシユウヤのこと話したの、お前が初めてだ」
思わず両目をひん剥く。
「……百瀬になら、いいかなって」
と、破顔一笑する。
「それにお前、人のことペラペラ喋るようなやつじゃなさそうだし」
信用してもいいかな……と頬を染めて、髪を掻く。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだ。普段彰たちに頼ってばかりの自分が頼られるなんて。
密かに喜びを噛み締めていると「そういうお前は、何か好きな歌手とかいないの?」と問いかけられた。
「ぼ、僕は――」
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