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ただ、その言葉だけが
たぶん、あれは一目惚れだったのだと思う。
遠い昔に思いを馳せる。
街で見かけた彼女はとても愛らしくて、まるで周りに星々が舞っているのだと錯覚しそうなほどに輝いていた。
西洋風の顔立ちに淡い白金髪を背中に流し、瞳は碧く、宝石のような瞳というのが本当にあるのだと、このとき感じたのだった。
誰もが彼女のことを目で追っていたけど、誰よりも僕が彼女を見つめていたように思えた。
彼女はそんな周りの視線など意にも介さず街中を歩いていて、まるで輝きに虫が惹かれるように、トラックが彼女に近づいていったのだ。
もちろん、虫なんかとは比べものにならない速度と質量を持って。
『――』
そのときたまたま近くにいたのが――そして彼女のことを誰よりも見ていたのが僕だった。ただ、それだけなのだ。
もし、僕が近くにいなければ他の誰かが彼女に手を差し伸べたのだろう。
もし、その誰かが僕よりも要領がよければ、彼女を助けられたのだろう。
しかし僕はどんくさくて、たいしたことができる人間なんかではとてもとてもなくて……。
そうして、彼女に惹かれた僕は、彼女と共にトラックに轢かれたのだった。
僕らは遠い昔に思いを馳せていた。
「うーん、4年ぐらいかな?」
愛らしかった彼女は、とても綺麗になった。
僕より3つぐらい年下らしいけど、今じゃあ同い年ぐらいに見えるだろう。
「きみはけっこう童顔だしね」
「いや、それ少し気にしてるんだから言わないでくんない?」
「かわいいよ?」
「女の子に『かわいい』って言われたくないんだっつーの」
僕らは4年ほど前、仲良くそろってトラックに轢かれた。痛いとか息ができないとか、苦しいとか、それから……悔しいとか。そういう諸々の感情がぐちゃぐちゃになった状態で気付いたら見知らぬ街の中にいた。
街の喧騒の中に置いてけぼりにされそうになりながらも、少なくとも日本ではないであろうその場所で、僕の頭の中は次第に疑問符で満ちていった。
傷は治っていて、隣には可愛らしい女の子がひとり。彼女も不思議そうに自分の手を見つめながら、『なんなの?』とかそんなことを呟いたのだったと思う。
僕に話しかけているわけではないことはわかっていたけど、つい反射的に『わからない』とか答えたのだ。
「……!?」
それに彼女は驚いて僕の顔を見た。
この状況に――というよりは僕の返答に対して驚いていたように思えたけど、その理由がすぐにはわからず、更に疑問符がひとつ増える。
「あなた……、わたしの言葉がわかるの?」
「まあ、うん」
「日本人はもれなく英語が苦手っていう話を聞いてたんだけど?」
「『もれなく』って言い方は少し日本人嘗めすぎだけど、大体の日本人はそうだろうね」
「ちなみにあなたは?」
「『大体』側。っていうか全然しゃべれないし、話せないし、書けないし、読めない」
正直『ハロー』のスペルが怪しかったりする。『Hallo』で合ってるよね?
「うわ。英語ができないって恥ずかしくないの? 世界の共通語よ?」
こ、この子……可愛い見た目のわりに結構言い方にトゲがあるな……。
そもそも、英語と日本語は形式が違いすぎるのだ。動詞は最初に持ってくるし、ひとつの単語に品詞がいくつもあるし。
「そういうこと言うなら君は日本語少しぐらいわかるよね?」
「わかるわけないでしょ。あんな一国でしか使われてない言語なんて。そもそも文法変だし」
んなこと言ったら英語だって僕からすれば変だよ。
「でも、わたしはあなたの言葉がわかるわ」
そうなのだ。僕も彼女の言葉がわかる。
僕は英語がわからないし、彼女も日本語はわからない。
それなのに僕らはいま、意思疎通ができている。
「僕、いま日本語以外を喋ってる?」
「逆に聞くけど、いまわたし、英語以外を喋ってる?」
…………よく耳を傾けてみたが、そもそも彼女が喋っている言語が英語かどうかわかるほど、僕にはリスニングスキルがないことを思い出した。
なるほど。確かに、そもそも英語ないしは日本語のリスニングができないと、相手がその言語を発しているのか、それとも無意識に別の言語を発しているかの判断がつかないのか……。
「あー、じゃあ、復唱してみて。『こんにちは』」
「なんでそんなことしなきゃいけないのよ」
「僕らが今なにを喋っているのか調べるためだよ。ほら、『こんにちは』」
「わかったわよ。『こんにちは』」
彼女はしぶしぶと僕と同じ言葉を繰り返した。でも、よく見てみると口の動きが『こんにちは』とは異なっている。
「君、いま英語で『こんにちは』って言った?」
「うん」
なるほど。つまり、僕が言った『こんにちは』という言葉は彼女には英語の『ハロー』に聞こえたわけだ。
そして、彼女は聞こえた通りに『ハロー』と返して、それが僕には『こんにちは』に聞こえたということだろう。
うわ、なにこの超便利な全自動翻訳機。ここやっぱり現実じゃないんじゃないか?
こんなに便利な物、流石にまだどんな企業だって開発していないはずだし、そもそも僕はそんな翻訳機的な機械を持ち歩いていない。
「別にあなたと喋れようが、喋れなかろうがどっちでもいいわ。それより、この状況を調べないと」
そう言うやいなや、彼女は近くを歩く人に話しかけに行くのだった。
「いや、思い出してみれば最初の君ってつっけんどんすぎない?」
4年前、はじめてこの世界に足をつけた日のことを思い出してみれば、彼女は僕に敵対心すら抱いていたように思える。
「だって知らない男の人といきなり変なところに飛ばされたのよ? それにあのときは日本にまだ慣れてなくてストレスが溜まってたし」
彼女は少しバツが悪そうに目をそらした。
そのあとも、彼女が僕へ向ける敵意のような態度はなかなか薄れてくれず、しばらくは別行動をしたんだったっけ。
「それからしばらくして、わたしたちは〝魔王〟を倒すためにこの世界に召喚されたっていうことを知ったのよね」
そう。僕と彼女はそれぞれ別行動をしながら、この世界を調べ、なじみ、ギルドなんかに入ったりしながら、やはりここは僕らが住んでいた地球とは別の世界であることを認識し始めた。
「最初に魔法を見たときはビビったなぁ」
「わたしは最初に大型のモンスターに襲われたときはおしっこちびるかと思ったよ」
「あ、ごめん、僕もその経験あるわ。流石に恥ずかしいから言ったことないけど」
そうして、僕らは2人、顔を見合わせて笑い合う。
魔法には攻撃魔法とか防御魔法とかいろいろ種類があって、その中でも少し異彩なのが召喚魔法だ。まあ正直、ファンタジーな世界でしか魔法を見たことがなかった僕からすれば、魔法そのものが〝異彩〟なわけだから、その中で召喚魔法が更に特別だと言われてもピンとこなかったのだけど。
『考えてもみろよ。魔法ってのは基本的に「世界を一時的に騙してる」わけだ。炎の攻撃魔法だって、水の防御魔法だって使い終わったら消えちまう。でも召喚魔法――特にお前らみたいな〝勇者〟を召喚する召喚魔法は異彩度が桁違いだ。
普通の人間にゃできねぇし、それこそ勇者に近い系列の〝英雄〟か、そうでなければ竜族やエルダーエルフってところだろ。
まあ、高位の魔族もできはするだろうが、魔族が勇者を召喚するなんて、メリットがねえ。その線はないだろ』
という魔法どころかこの世界にも初心者だった僕らにも親切に、それでいて気さくに話してくれた彼は、今頃なにをしているのだろう。
まさか、本当に僕らが〝勇者〟として〝魔王〟と戦い、こうして倒してしまったとは思うまい。
視界の端で世界が一部、崩れ落ちる。
「結局、僕らを召喚したのが魔王だって知ったときは驚いたけどな」
「わかったのって魔界に移動してからだったっけ? 魔界暮らしも結構長かったよねぇ」
魔王を倒すために、魔界に足を踏み入れた僕らは、魔族からの一斉攻撃が飛んでくる覚悟でいたのだが。
「まさかの歓待ムードだったもんね……」
「街に入った瞬間『おいでませ! 勇者様御一行』だったからな……。あそこの温泉、また入りてぇなぁ」
露天風呂の仕切りから女湯が覗けることを教えてくれたあの魔族の人。元気かなぁ。
いや、まあ結局トラブルが起きて何も見られなかったんだけどさ……。だからこそ、また入りに行きたい!
「なにか邪なこと考えてない?」
「いや、考えてないよ?」
「ふーん……」
視線が痛い……。いや、あのときのこと、バレてないよね?
「元の世界に戻ったらさ――温泉旅行とか行こうよ。……今度は覗き穴のないところに」
バレてるじゃねえか、おもいっきり!
くそぉ! 露天風呂の仕切りから女湯が覗けることを教えてくれたあの魔族の人ぉ! 元気かなぁ!?
「ま、まあそれはともかく……。結局本当の敵は人間界で教会が奉ってる女神だったっていうのがまたなんともなぁ」
「しかもその女神が魔王と融合しちゃってどうしようもなくなってるから、魔王に残っている善の心がわたしらを召喚したって……ねぇ?」
まあ衝撃的な展開ではあったのだが、一方でなんかありがちと思ってしまったのは内緒だ。特に真の敵が教会だったっていうところ。
実際、僕らと一緒に旅をしていた仲間たちはみんな『信じられない』とか『教会が……? 嘘でしょう!?』とかもはや半狂乱の状態だったし。
その中で僕と彼女がやけに静かなものだから、『流石勇者様方は心がお強い』なんて言われちゃったし。
「このあとは久しぶりに君と長い間離れなくちゃいけなくなっちゃって、寂しかったなぁ……。最後の戦いなのに一緒に戦えないってどういうこと!? って思ったし」
「思ったっていうかおもいきり口に出してたよね!? みんな君を宥めすかすのにめっちゃ苦労してたからね!?」
とうとう僕らの目的がはっきりしてきて、僕は魔界で魔王を、彼女は人間界の教会で女神を同時に倒すことで、魔王と同化した女神を完全に滅ぼす、という作戦を立てたのだ。
しかし、このときにはもう僕と彼女はお互いがお互いに好意を持っていることを言うまでもなく察していて、っていうか彼女の駄々のこねっぷりが凄かった。
いや、可愛かったんだけどさ。
でも、僕は僕の気持ちを伝えることで、なんとか彼女を女神との戦いに赴かせることができたのだった。
魔王戦の途中、あともう一息で倒せるというところで、魔王がその本体を置く精神世界に逃げ込んだのである。精神世界まで追うことができるのはその場では特殊な装備を持つ僕だけで、仲間を置いて精神世界に飛び込んでみれば、そこには女神と戦っているはずの彼女もいたのだった。
「まさか最後に肩を並べて戦えるとは思わなかったよね」
「ああ、なんで悪魔と女神は同化しているのに魔界と人間界っていう別の場所にいるんだろうって思ったら……、精神世界ではきちんと同化してやがるんだもんな」
精神世界での魔王=女神の強さは魔界で戦っていたときの比ではなく、勝ちを諦めかけたとき、僕はまだ諦めていない彼女の横顔を見たのだ。
たぶん、あれは一目惚れだったのだと思う。
遠い昔に思いを馳せる。
彼女を見つけ、一緒に轢かれ、異世界に飛ばされて、最初は別行動をしたり、一緒に旅をしたり、魔界のお風呂でトラブルが起きたり、一時の別れに駄々をこねたり、そうして肩を並べて戦って、そのたびに僕はこの横顔を見て――。
そのたびに僕は君に惚れている。
だから、僕はあのときと――トラックが彼女に突っ込んでくるときと同じように彼女の隣に立ったのだ。
でも、今度は彼女を殺させはしない。
きっと、あのときより少しぐらいは要領がよくなっているはずだから。
僕は、諦めない。
魔王=女神を倒すと、精神世界は崩壊していった。恐らく、この空間を形作っていた魔王=女神を倒したから、空間がほころびを持ち始めたのだろう。
僕らは遠い昔に思いを馳せていた。
思いを馳せて、馳せて、馳せて。
そして、今に至る。
「好き」
「どうしたの、急に」
彼女が僕の目を見てゆっくりと口を動かした。
よく見てみると、その口は『好き』という発音とは違うように発しているのがわかる。
きっと『アイラブユー』と言っているのだろう。
「元の世界に、『魔界』とか『人間界』じゃなくて、わたしたちが元々いた世界に戻ったらさ……、もうこんな風に言葉を伝えられないでしょ?
だから、今のうちに言っておこうかなって」
そうか……。今でこそ、僕と彼女はなんの不都合もなく会話をできているが、元の世界に帰ったらそうはいかなくなる。
彼女は英語しか喋れないし、僕は日本語しか喋れない。
特に今までなんの苦労もせずに意思の疎通ができていたぶん余計に、伝わらないことに痒い思いをすることになるだろう。
そこにはストレスが生まれ、煩わしさが生まれ、次第にはそれが相手自身に向いてしまうかもしれない。
今のこの『気持ち』が別の嫌な物に塗り替えられてしまうかもしれない。
「好きだ」
彼女に抱きつく。彼女が抱きしめ返してくる。
「好き」
「好きだ」
「好き」
「好きだ」
彼女の顔は見ない。顔はいつだって見られる。でも、言葉は。僕が違和感なく口にできて、彼女が違和感なく聞き取れるのは今、この異世界にいるときだけなのだ。
視界の端で世界が一部、崩れ落ちる。
そのあとも、僕らは誰もが知っている簡単な単語を大切に、大切に相手に投げかけ続けた。
そこは、見知らぬ街――いや、そんなことはない。ただ、久しぶりで少し記憶が曖昧だけど、僕と彼女が異世界に飛ばされる前に歩いていた街中だった。
人だかりができていて、近くにはトラックが止まっていた。どうやらトラックが歩道に突っ込んできたらしい。
「君たち大丈夫かい!?」
トラックの運ちゃんらしき人が、僕に慌てた様子で話しかけている。いや、いまこの人、『君たち』って言ったぞ。
そこで、ようやく僕は右手に何かを大事に握りしめていることに気付く。その手の先を見てみると、そこには白金髪の美少女がいた。
少女は僕より3歳ほど年下だろう。愛らしい外見から、それぐらいの年齢差だろうとうかがえる。
もちろん、何歳の彼女だって愛らしいのだけれど。
さっきまでの抱きしめていた彼女より体が小さくなっていて、4年前のあの始まりの時に戻ってきたのだとわかった。
「ねぇ」
「っ!」
僕が話しかけようとしたら、白金髪の少女は慌てて立ち上がり、走り去ってしまう。
「あ、ちょっと、待って!」
僕はトラックの運ちゃんに怪我がないことを伝えてから、少女を追いかける。
少女の足はそれほど速くはなかったが、僕の足も同じようにそこまで早くなかった。
どうやら向こうにいたときとは体の感覚が違うみたいだ。
少女は近くの公園にある森の中に入り込み、周りに誰もいなくなったところでようやく少女の手に僕の手が追いついた。
「好きだ!」
「~~~~~~」
僕の愛の告白に対して、彼女もなにか言ってくる。
でも、聞きとれない。
なんて言っているのかがわからない。
僕の『好き』という言葉が数分前よりも随分薄っぺらになってしまったように感じた。『好き』という2文字が伝えきれなくて、それじゃあ言葉を重ねればどうかというと、どんどんと伝わらなくなってくる。
『好き』という言葉は散々言った。だから、今、彼女が聞きたい言葉は『アイラブユー』とは別の言葉だろう。
どんな言葉を掛けたら、彼女は安心してくれるだろう。
彼女とこれからもいられるだろう。
「教、えて……」
「……?」
僕が呟いた言葉の意味がわからず、彼女が悲しそうな顔をする。
英語は『イングリッシュ』だ。それぐらいはわかる。
あとは『教えて』はなんて言うんだ? 『教えろ』でも『教えてください』でも『教える』でもいい、単語がわからない。
待てよ……? そういえば『教師』のことを『ティーチャー』って言うよな? 日本語の方にも『教』の字が入ってるんだし、『ティーチャー』にも『教える』と同じような意味が含まれているんじゃないか?
彼女の肩に手を乗せる。
余計な言葉は言わない。どうせ伝わらないのならば、それはただのノイズだ。彼女を混乱させるだけだ。
彼女になにかを伝えたいのならば、英語を話せ。英語だけを話せ。
別に文法が間違っていたっていい。単語が間違っていたっていい。
日本語と英語の形式が全然違っていることなんて、僕も彼女も知っている。
だから、僕は知っている単語を最大限使って、気持ちを伝えればいい。
「ティーチャー、イングリッシュ」
その瞬間、彼女の瞳から涙がこぼれた。
宝石のような、碧い瞳。
そして、次第には大きな声を上げて笑い出す。
大笑いしながら、いろいろ喚いているのだが、あいにくとなんと言っているのかわからない。
彼女も別に伝えようとしているわけではないらしく、まったく伝わっていない僕に優しく微笑んで、今度は僕の肩に両手を乗せた。
そして、ゆっくりと、たとえどんなに英語が苦手な人でも知っているであろう単語をゆっくりと口にしたのだった。
「Yes」
今はただ、その言葉だけがあればいい。
〈了〉
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