真昼の幽霊

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「もう終わったの?」  それは、一時間目が始まって十五分ほど過ぎた頃だ。さらさらとよどみなく動いていた彼の手が、ぴたりと止まった瞬間だった。 「すごいね。数学、得意なんだ」  この中学では複式学級という形で、三年生の穂乃花ちゃんと二年生の私たちは一緒に授業を受けている。その特性上、授業の半分は自習だ。  学年によって学ぶ範囲が異なるため、仕方がないといえばその通りだが、学習に遅れが出るからと昔は批判もあったらしい。  チョークを走らせる先生の反対側の手には、今も三年生の教科書が握られている。 「得意ってほどでもないけど。えーっと……」 「結菜だよ。瑞原結菜」  今更のように自己紹介をすると、彼の唇から「瑞原さん」という聞き慣れない音が静かに零れた。ここでは私のことをそんな風に呼ぶ人は誰もいない。だからこそ違和感があったし、それが一方では新鮮で心地良かった。  他人行儀だけれど、なんだかくすぐったくて柔らかな響きだ。  その呼び方に合わせる格好で、私も「一ノ瀬くん」と呟いてみた。しかし相手の反応が返ってくる前に、まるめた教科書がパコンと落ちてくる。 「こら! 全然進んでないじゃないか。転校生にちょっかいかけてる場合じゃないぞ」 「ちょっかいって……」 「来年からは一人ひとり気にかけてくれる先生はいなくなるんだからな。今のうちに集中力を身につけて、苦手を克服しないと駄目じゃないか」  唇を噛みしめているだけで息が詰まりそうだ。お母さんも先生も、どうしてすぐに来年のことを話したがるのだろう。発した言葉の鋭さに、大人は少しも気付かない。
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