真昼の幽霊

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「先生」  長く続きそうだった説教を遮ったのは、隣から上がった静かな声だ。 「ここ、ちょっとわからないんですけど」  さっきまで綺麗に埋まっていたはずのプリントに、不自然な空白が出来ている。私は噛みしめていた唇の力を抜いてゆっくり息を吸い込むと、彼の席の端にころがっている消しゴムをぼんやりと眺めた。  * 「さっきはありがとう」  振り向いた一ノ瀬くんに、助けてくれたでしょ? と言葉を重ねる。 「本当にわからなかっただけだよ」  視線が合わない彼は素っ気ない態度だが、どこか照れているようでもあった。休み時間の教室には今、一ノ瀬くんと私の二人だけだ。  先生に頼まれた教材を取りに行った穂乃花ちゃんは、まだしばらく戻ってこないだろう。 「ねぇ、東京ってどんなところ?」  半分空いた窓際に立って、私は少し大きな声を出す。また唐突だね、と背中の向こうで一ノ瀬くんが笑った。 「だって……ここには何もないでしょ? お店もないし、駅もない。車の運転ができない子供はどこにもいけないし何も出来ないんだよ」 「でも、バスが通ってなかった?」 「朝昼晩の三回だけね」  おらこんな山~いやだ~。と、親戚のおじいちゃんが好きだった古い曲を替え歌にして口ずさむ。 「東京にだって、何もないよ。建物と人は多いけど……それだけだ」  柔らかな声音とは裏腹に、ひどく淡泊な回答だった。それだけだと一ノ瀬くんは言い切ったが、それで充分だと私は思う。 「ここはいいよね、自然がいっぱいで」 「そんなの意味ないよ」 「そうかな、僕は好きだけど……」  彼はまだ知らない。けれどこの山で生まれ育った私はよく知っている。終わりを待つだけのこんな集落に、未来なんてないのだから。  四月末という中途半端な時期に、電車も通っていないような田舎へ引っ越す事になるなんて本当に気の毒だ。先生は家庭の事情だと言っていたけれど、私が同じ状況だったならきっと全力で反対する。もしも強行突破されてしまったら、お父さんやお母さんとはしばらく口を利かないかもしれない。
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