星になれたら

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 手元に広げた専門誌の同じページを何度も行き来しながら、私の意識は空気中に浮遊する。  今朝天文部の部室に入ったら、これ見よがしに机の中央に鎮座していた彗星の特集雑誌。何でも今はネオワイズ彗星というのが見頃を迎えているらしい。ご丁寧に過去の彗星に関する記事のスクラップ、専門誌を取り揃え、全てに目を通しておくようにという御触れまで出た。部長は観測する気満々というより、殺気立っている。新彗星の観測となれば、我が校の天文部部長が素通りするはずもない。彼はいつか新彗星の名付け親にでもなっているのではないか。  ふっと小さな苦笑を浮かべてから、顔を上げた。頬をカーテンの隙間から吹き込む風が撫でてゆく。  いつもの高揚感はどこに行ったのか、水に溶けてしまった絵の具のように散逸してしまった。代わりにどんよりと重い水銀が胸の中を埋めている。  日光を全て吸収した窓のサッシが熱く肌に触れる。焦げそうなアスファルトの匂いと砂漠へと化す校庭。  真夏の夜に天体観測ができるという、なんて贅沢な人間に私は属しているのだろう。そう思わずにはいられない。  脳裏に浮かび上がるのは、濃紺の夜空。縫い付けられた星のビーズは細かな点滅を繰り返す。ごくたまに銀色の針を散りばめるような流星に息を呑む。流星はなんてささやかで美しく、まさに儚い存在なんだろう。はらはらと零れ落ちる空の涙みたいに。  それに比べて彗星は何だ?煌々と激しい光の塊。青白い亡霊みたいな顔をして、それでいていつまでも見た者の脳裏に焼き付く。どの写真も空恐ろしさを掻き立てるようなフィルターをかけて。甘酸っぱい儚さとそれに伴う美しさなんて、欠片もない。  何しろ彗星の別名は「汚れた雪だるま」。氷に纏わりついた氷のおかげで光を発するとは、美しさと醜さは紙一重だと暗に言っているようなものだ。  ぱたりと本を閉じる。  背筋がきんと冷たい。冷水を流されているかのように。じっとりと纏わりつき、しまいには薄氷が軋む音を立てながら、私の胸は振動を止める。  私は今も、そして永遠に彗星のことを拒絶し憎み続ける。それは私のことを一生憎み続けるのと等しい。  汚れた雪だるま、不吉な星。どうして彗星は、憎まれる運命にあるのだろう。そして、私も。  「彗ー、またこんなところに座って」  がたんと窓に身体を預け、城崎あおいが私をちらりと見やった。右手に握られたオレンジジュースのパックには、相変わらず噛み跡がついたストローが刺さる。  私は開け放たれた窓の隙間にちょうど身体を沿わせ、窓の境界線を跨ぐように座っている。  今風が吹いたら。  このままぐらりと視界がは歪んで、真っ逆さまに落ちてゆきそう。彗星みたいに。  自由落下運動をする私に見える世界は、どんなだろう。  「彗星?また世紀の大発見でも目指してるの、彗の天文部は」  「いや、別にそういうわけじゃ」  苦笑しながらあおいを見る。いたって普段通りの遠慮のない笑顔。  溜息。部長が殺気立つせいで、科学者気取りの大発見に身を捧げている集団というレッテルを貼られてしまうのだ。もちろん私を除いての話で、彼らは生粋の星空の美しさと宇宙のロマンに陶酔した者なだけなのだが。  「彗星って、流れ星と何が違うの?」  「――知りたい?」  「あ、遠慮しておく。彗は話すと止まらないから」  覗き込む瞳をさっと手で制止されて、うっと言葉を飲み込む。吹き出した彗星の疾走を止められなくなる前に、彼女は素早く察知するのだ。  「そういえば彗の“すい”って、彗星と同じだよね」  ガシャン―――。  ふっと一瞬重なる。あおいの細い指先が、紙パックに食い込んだ。  鼻腔をくすぐる熱い砂漠のような匂い。  目を見開く。ぐるぐる脳内で星が回って、わっと彗星が扉を開けて降り注ぐ、そんな感覚。  「それは……」  砕け散ったガラスには指を触れられない。逃げられない、やっぱり私は彗星の呪いに縛られたままだ。
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