2020年の夏に行われたリアルソーシャルディスタンスゲーム

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2020年の夏に行われたリアルソーシャルディスタンスゲーム

 クソッ! クソッ!  なんで今なんだよ!  いやいや、あんまりクソクソ言っちゃダメだ。この場所――トイレの個室でそれを言ってると、なんかダジャレ言ってるみたいになっちゃうから。  それにしてもなんで、よりによって今……お腹が痛くなっちゃうんだよ……! 『リアルソーシャルディスタンスゲーム』。そんな名前のイベントが行われたのは、2020年の春を奪った新型コロナウイルスがひとまず落ち着いた夏のことだった。  会場はとある廃校舎。といっても昨年廃校になったばかりだとかで、少なくとも床が腐っているとか、そういったことはない。  なぜそれを知ってるかって?  さっきまで、その廃校舎の中を右往左往してたからだ。  リアルソーシャルディスタンスゲームは、簡単に言えば「他の参加者に近付かずに過ごすゲーム」だ。  俺はセンサー付きマスクの鼻に当たる部分を指で微調整しながらまた「クソッ」と悪態をつく。自分の鼻息で眼鏡が曇る。  しかしいくら邪魔でも、このマスクはゲーム終了まで外すことはできない。このマスクのある位置が、すなわちゲーム参加者の位置だからである。  基本ルールとして、このマスクがある位置の半径2メートル以内に他のマスクが侵入すると、両者の『感染ポイント』が上がっていく。ゲーム終了時点でこのポイントが最も低い参加者が優勝となる。  参加者は30人で、10位まで賞品が出る。1位はなんと和牛券10万円分。ちなみに、ゲームの参加費は3千円。  制限時間は3時間だ。参加者はA・B・Cの『型』に分けられており、ABCCBAの順番で30分ごとに『コロナ役』が変わる。今は最後の「A型コロナフェイズ」。そして俺はA型参加者。そう、今の俺は、憎きコロナウイルスなのである。  自分がコロナ役のフェイズは、他の『市民』役の参加者に近付いても感染ポイントは上がらない。ただし、コロナ役に近付かれた市民役は、毎秒通常の――つまりは市民役同士が近付いた場合の――3倍の速度で感染ポイントが上がっていく。要するに今のフェイズの俺は、市民役の参加者にダメージを与えるため、鬼ごっこよろしく追いかけ回す役割なわけだ。  が……! この腹痛である。  まさかノロウイルスなんじゃないだろうか。もしそうだったらシャレでは済まない。  もう収まったか、と思ったころにまた低く唸りだす俺の腹。無駄となるトイレ紙。広々とした運動場の片隅に設置された狭い仮設トイレの中、むわっと顔面に立ち上る夏の熱気と臭気に、額から汗がしたたり落ちる。  やれやれ、二回目のC型コロナフェイズまでは、調子良かったのにな……。  腹も、ゲームの調子も。  最初のフェイズでコロナ役だったA型参加者の俺は、5分先行して校舎内に入っていったB・C型参加者を見つけるためというよりは、校舎内の地図を頭に入れるために歩き回った。コロナ役のフェイズが終わって自分が市民役のフェイズになったときに、上手く隠れられる場所はないだろうかと、そんなことを考えながら。  歩き方も気をつけなければならない。配布されたセンサー付きマスクは振動をも検知し、走るとピーピーという感染ポイントの上昇を知らせる警告音が鳴る。走るだけで感染ポイントが上がるのはなんだか不可解に思えるが、まあゲームとしてケガ人を出さないために設けられたルールなのだろう。  だから俺はできるだけ顎の位置を動かさぬよう心がけながら、可能な限りの早足で廊下を歩き回った。  当初俺が抱いていたかくれんぼのイメージは、早々に覆された。各教室に置かれている縦長の清掃道具入れや、教卓の下などに隠れている市民役参加者がいるのではないかと思って教室を見て回ったのだが、清掃道具入れなんかは外から扉を押さえ込まれてしまったら一巻の終わりだし、そもそも隠れると視界が悪くなるうえ、近付かれるだけで感染ポイント上昇の警告音が鳴るため、コロナ役に見つからずに過ごしきるのは難しい。  走ると感染ポイントが上がるのはコロナ役も同じなので、移動速度の差はほとんど出ない。ならばむしろ見晴らしの良い場所に立ち、他の参加者に近付かれたら随時早足で逃げるという競歩作戦のほうが良いと考えた参加者が多かったようで、渡り廊下から運動場を見渡すと、当初は(隠れる場所がないため)ありえないと誰もが思っていたであろうそのだだっ広いだけの場所にも、何人かの参加者の姿が見えた。ただし炎天下なので逃げる側も追いかける側も暑そうだ。  校舎内のトイレも、男女共に侵入を許可されている。ただし水道を止められているため、本来の用途としては使用できない。そして清掃道具入れと同じく、コロナ役に見つけられたら逃げるのが難しいためか、そこに隠れている参加者もいなかった。  結果、このゲームは競歩状態で廊下を徘徊するサバイバルホラーゲームみたいになっていった。  最初のA型コロナフェイズが終わるころ、俺はこのゲームの必勝法を考えついた。  このゲームは「離れるゲーム」ではない。「近付くゲーム」なのだ……と、ゲームの根本となるテーマとはまるで逆のことを思っていた。  コロナ役は市民役に近付くことで毎秒3倍の感染ポイントを与えることができるが、コロナ役も感染ポイントが上がってしまうケースが二つある。一つは、走るなどして自身が着けているセンサー付きマスクに振動を与えてしまった場合。そしてもう一つは、「コロナ役に近付いた場合」だ。  そう、コロナ役同士が近付いた場合、互いに毎秒3倍のダメージを受けるのである。  だからコロナ役は、市民役には近付きたいが、他のコロナ役には近付きたくない。  ここでポイントなのが、「コロナ役と市民役を見分けるためのビジュアル的な違いはない」ということだ。  しかし、コロナ役に近付かれれば市民役は一方的にダメージを受けるため、市民役は逃げることになり、コロナ役はそれを追うことになる。  必然的に、「逃げる参加者が市民役で、追う参加者がコロナ役」という前提ができあがる。  その前提を逆手に取るのが、俺が思いついた必勝法だ。  ゲーム開始から30分が過ぎ、第2フェイズであるB型コロナフェイズが始まった。A型参加者である俺は市民役となるので、他の市民役やコロナ役の参加者たちに近付かれないようにしなければならない。  ……と、誰もがそう思うだろうが、俺はそうしなかった。  俺は、逆に! A型コロナフェイズのときと同じように、積極的に他の参加者を見つけにいった。 「俺はコロナウイルス、俺はコロナウイルス……」そう言い聞かせ、自ら他の参加者に近付きにいったのである。  するとどうなるか。他の参加者は、俺をコロナ役だと誤認し、逃げるのである。  他のコロナ役も、コロナ役同士が近付くと互いにダメージを受けてしまうので、コロナ役に見える俺に近付かない。誰も俺に近付いてこないのである。  俺は全てのフェイズで狂ったように参加者を追い回し続けた。追いつかない程度に追い続けた。時には「あれ? おまえさっきのフェイズもコロナ役じゃなかったか?」という感じの顔をする参加者もいたが、俺が追いかけるとみんなとりあえず逃げた。  その甲斐あってか、ABCCBAの第5フェイズ、二度目のB型コロナフェイズを終えたとき、校内放送を使って伝えられるフェイズ終了時のランキングで、俺は2位となっていた。1位の参加者は「ルシフェル」という名前で、おそらくこいつも、俺と同じ必勝法を考えついたのではないだろうか。  となれば、俺が最終フェイズに取るべき行動はただ一つ。常時コロナ役を装っているであろうルシフェルを見つけ出し、感染ポイントを上げるのだ。幸い、A型参加者の俺は最終フェイズにおいて本当にコロナ役! 神が俺に言っているのだ。「勝て!」と……!  がっ……ご存知の通り、今俺は運動場の片隅の仮設トイレ(洋式)の中にいる。  突如として痛み出した俺の腹は、貴重な最終フェイズを丸ごと奪っていった。  どうにかきりをつけて俺が便座から立ち上がったとき、ちょうど最終フェイズ終了のアナウンスが学校中に響き渡った。 「クソッ……クソッ……!」  流水音と共に仮設トイレから出ると、さっきまで俺が何度も呟いていたその言葉を漏らし、トイレの順番待ちをしている若い男の姿があった。 「すみません」  長時間トイレを占拠していた負い目から、俺は即座に謝った。するとその若い男は、「あなたはいいんですよ、本当に腹下してたんでしょうし。ただね、僕がトイレ待ちしてる間も、トイレ待ちしてるの見れば分かるだろうに、コロナ役の人たちが追いかけ回してきて……。せっかくさっきのフェイズまで、僕が1位だったのに……」 「えっ……!? じゃあきみが、ルシフェル……!?」 「はい。あなたは『ゆうた』さんでしょう? ずっとコロナ役みたいに動いてましたもんね。きっと1位になってますよ。ナイスファイト」  ルシフェルは嫌味なくそう言って親指をグッと立て、トイレの中へと消えていった。  その後、体育館で行われた表彰式で、俺はルシフェルと再会した。  ルシフェルが言っていた通り、俺は1位になっていて、対照的に彼の順位は10位へと転落してしまっていた。 「10位の賞品、ひどくないですか。『一時は貴重品となっていた……』なんて紹介してウケてましたけど、正直持って帰るの面倒ですよ。恥ずかしいし」  最寄りの駅へと向かう帰り道、彼は手に持っている12個入りのトイレットペーパー2袋を示しながら文句を言った。その賞品はむしろ、今の俺にこそ相応しい気がする。 「1袋、くれよ。代わりに焼肉奢るからさ」  俺は10万円分の和牛券が入った封筒を見せながら言った。 「和牛焼肉ですか」 「ああ。祝勝会だ!」 「ははっ! いいですね!」  センサーの付いていない普通のマスクを着けた俺たちは、それでも誰が見ても分かるくらいに大声を出して、笑い合った。
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