星降る夜に

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星降る夜に

「あの赤い星がベテルギウスね、その左下に見えるのがおおいぬ座のシリウス、そのシリウスの左上にあるのがこいぬ座のプロキオンで、その星を結ぶと冬の大三角が出来上がるのよ」 「…………」  彼女はもう何回も見てるであろうその冬の大三角を、はじめて見たときのように眺めている。 「プロキオンのちょうど真上に、少し明るめの星が二つ並んでるのがわかる? あれが双子座のカストルとポルックスで、下にあるほうがポルックスね」 彼女の細い人差し指の先には煌めく二つの星が見えた。 「………」 「ポルックスからこう右上にぐーっと行くとぎょしゃ座のカペラが見えて……」 「寒ーーーい!!!寒い寒い寒い寒い!」 「……なによ」  まだ天体観測は始まったばかりよ、と言わんばかりの目で睨まれる。 「いや寒すぎるよ!!!」 「……」 「ほら、僕の歯! 見て!」  彼女が真面目に星の案内をしてくれているところ忍びないけどあまりにも寒い。寒さによる全身の震えで、歯がガチガチ鳴っている。自分自身がなにかの打楽器にでもなってしまったかのようで、止めたくても止められない。 「そ、そうね……あっ」と彼女は持ってきたキャリーバッグを開けて「そんな時のために」とゴソゴソしはじめた。はじめから気にはなっていたけれど、あえて触れなかった二泊三日分の物が入りそうな大きさのキャリーバッグの中から「これを持ってきたのよ」としたり顔で取り出したのは、ポット型の魔法瓶だった。 「来る直前に豆から焙煎してきた、挽きたてのブレンドコーヒー」 「ホント!?」  この寒さの中、あったかいコーヒーは砂漠でのオアシスと同じくらい貴重なものに思えた。 「砂糖とシロップとミルクもあるから好みに合わせて使ってね」  彼女の細かな配慮に泣きそうになるもなんとか堪える。 「さっそく飲もう」 「先に飲んでいいわよ」 「いいの? 君だって寒いだろう」 「私が誘ったんだもの。ほら、飲んで」  そう言って魔法瓶を手渡してくれる。その時に触れた彼女の指先がとても冷たくて、途端に愛おしくなった。手を握りたい衝動が駆けたけどなんとか抑える。 「ありがとう」  蓋を開けると小さな穴が見える。その穴からコーヒーの焙煎された香りが湯気とともに漂ってきて鼻腔をくすぐった。 「匂いだけで体があったかくなるよ」 「そう? 淹れてきた甲斐があったわね」 「うん、ほんとに美味しそうだ」 「きっと美味しいわよ。私のお気に入りの豆のブレンドだもの」 「それはぜったい美味しいだろうね」 「そうよ」 「うん……あの、ごめん、コーヒー持ってきてもらってるのに図々しいお願いかもしれないけど、コップみたいなものある?」 「え、その蓋コップにならない?」 「oh my god……」神はいなかった。  僕は寒さとは別に冷や汗をかきはじめる。  彼女もその様子を見て、血の気を引いたように青くなる。 「ウソでしょ、そういうのって大抵蓋がコップの代わりになるんじゃないの?」  そう言って僕の手から魔法瓶を取り上げる。確かに蓋は付いていたけれど、それをコップとして使うにはかなり無理のある形状だ。 「…………」 「…………」  彼女の手にある魔法瓶。その中には彼女が一生懸命淹れたコーヒーが入っている。一生懸命かどうかはわからないけど、それでも良かれと思って持ってきてくれたであろうそれを飲まないのは気の毒に思えたし彼女も報われない。 「ちょっと貸して」と魔法瓶を取り上げる。 「飲む」 「だめよ、ぜったいやけどするわ」  そうだとしてもこれを飲まないのはなにか、なにかわからないけどだめな気がした。エゴなのかもしれない。カッコをつけたいだけかもしれない。だけど僕はこれを飲む。飲まずにはいられないと強く思った。 制止する彼女を無視して僕は魔法瓶を傾ける。小さな穴からゆっくり飲めば大丈夫だろう。舌をチロチロと出して、熱さを確認しながらなら安全だ。  熱々のコーヒーが重力に従うまま僕に向かってくる。  季節は冬。大寒の時期。一週間分の天気予報を見て、彼女は天気が良く、いちばん寒くて空気の澄んだ日を選んだ。少しでも僕に綺麗な星空を見せるためだ。  体はキンキンに冷え、僕も彼女も寒さに打ち震えている。  ポット型の魔法瓶を持つ僕の手も想像以上に震えていた。それは寒さから来るものなのか、恐怖から来るものなのか。  いずれにせよ傾き具合の微調整に失敗した。 「熱ーーーーい! 熱い熱い熱い熱い!!」 「ぎゃーーー!」彼女が叫ぶ。  熱々のコーヒーは上手いこと僕の口へと行かず、少しずれて胸あたりにどばっとかかった。  僕はとっさに着てきた服を脱ごうとするも突然襲う熱さにパニックになる。彼女も混乱している中、「服! 服脱いで!!」と僕の服を脱がす。 「熱い熱い熱い! いや寒い! 熱い寒い熱い寒い!」 「………」 「死んじゃうーーーー!」  彼女はパニックに陥る僕を絶対零度よりも冷ややかな目で見ていた。  不思議と僕は少し安心した。困惑して、空回りしている彼女を見るよりもこっちのほうが彼女らしいや。 だけど本当に熱かったし本当に寒かったのだ。僕はしばらく熱い寒いを繰り返したあと、新しい服に着替えた。彼女の服だ。キャリーバッグの中には何故か着替えも入っていたので、サイズは合わないけれど、この寒さの中何も着ないというわけにもいかないので貸してもらうことにした。  それにしても、痛い。やけどしたところがヒリヒリと痛む。暗くてよく見えないけど僕の胸元はきっとベテルギウスに負けないほど真っ赤になっているだろう。  結局僕たちは体をくっつけ合うことで暖を取ることにした。  自分のせいで僕を寒い思いさせてる後ろめたさがあるのか、彼女もやっぱり寒いのか、どちらにせよこんな至近距離で彼女のことを感じられる機会はそうそうない。照れ屋な彼女は手すらまだ繋がせてくれないのだ。  夜を眺めている彼女の横顔を、僕は見つめる。  それに気づいたのか「星を見なさいよ」と彼女は言った。  そう言う彼女はこちらを見ようとしない。 「こっち見てよ」  彼女は黙って星を見てる。 「あ、今横目で見たしょ」 「見てないわ」 「見た」 「虫が見えたのよ」 「ひどい」  彼女の口角が少し緩んだ。  ふと、こんな風に彼女のわずかな変化が間近で見れるというこの時間、距離にとてつもない幸福を感じた。 「抱きしめてもいい?」 「……寒いの?」 「うん、寒い寒い超寒い」 「そう……それなら仕方ないわね」  その言葉を聞いて僕はそっと彼女に手を伸ばす。出来るだけ優しく、だけど強く、彼女の小さな体を引き寄せる。 「苦しくない?」 「大丈夫」 「そっか」  あぁ、なんか照れくさいな。だけどあったかいな。 身体も心も満たされていくのがわかる。 もっと抱きしめたいと思った。  僕の中で渦巻く感情というか衝動というかなんだかよくわかないそういったものをどう表したらいいのか、そのすべも知識も経験もぜんぜん足りないし、どうすればいいのかもわからない。  大人になればわかるのだろうか。 このもどかしさや焦ったさがどこからくるのか、どこへ持っていけばいいのか。  今はまだわからないし、もしかするとわからなくてもいいのかもしれない。知ってしまうことで、なにか変わってしまうのなら今の僕たちにはまだ必要のないものなのかもしれない。今はまだ、このなんとも言えない気持ちの中を行ったり来たりしていても良さそうな気がした。  だからとりあえず僕はもう一度腕に力を込める。 彼女もそうであればいいなと思う。  同じように思っていてくれたら嬉しいなって。  薄暗くて彼女の表情はよく見えないけどさ。  そんな彼女の横顔にうっとりしていると、彼女は小さく声を上げた。 「流れ星!」 「えっ」  僕も空を見上げる。ああチクショウ、彼女の顔に見惚れていたから見逃しちゃったよ。 「オリオン座らへんに流れたよ、短いのが」彼女が言う。 「また流れるかな」 「流れるよ」 「よし」  僕と彼女は再び空を見上げる。  星降る夜に、僕たちは同じものを見ている。  僕と彼女。それぞれが今、ひとつのものを共有している。これほど尊いものがこの世にはいくつあるのだろうか。 「あっ」  今度は二人とも声を上げる。  流れ星が次から次へと流れ落ちていく。  折り重なるように降る星を、僕たちをいつまでも眺め続けていた。
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