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(一)
『ホタルイカの身投げ』という現象をご存じだろうか。
ホタルイカは普段、水深200から600メートルの深海に住んでいる。それが春になると産卵のため水面へと浮上し、人間たちが寝静まった夜半、浅瀬に泳いでいく───のだが、その際、浅瀬に近づきすぎたために波につかまり、浜に打ち上げられるものたちが出てくる。その数は少なくなく、何百、何千と打ちあがることもある。こうして波打ち際には瀕死のホタルイカの列が長く伸びるわけである。まさに悲劇。しかし、人間の目にその光景は、幻想的で美しいものに映る。
ホタルイカはその名の由来通り、全身が蛍のように発光する。主に青、わずかに水色、緑。ゆえに夜闇の中、波打ち際に伸びるホタルイカの列は、さながら星の橋、天の川のように見えるのだ。その光景を目にした者は一瞬、上下の感覚を見失う。いま自分が立っている地面は、夜空ではなかろうか。しかし見上げれば、雲一つない藍色の空に幾千もの星がまたたいている。
どうしてこの現象を『ホタルイカの身投げ』などという陰気臭い呼び名にしたのか。美しい光景に似つかわしくないし、ホタルイカだってなにも自殺する気で自ら浜に打ちあがりに行ったわけじゃないだろうに。そう、ただ方向感覚を見失って、それで誤って浅瀬に近づきすぎただけで───。それとも産卵後、まもなく死に絶える自らの運命を嘆いて、潔く、そして美しい死を選んだのか。本当のところ、ホタルイカが浜に打ちあがる理由は謎に包まれており、諸説ある見解も憶測の域を出ない。
ホタルイカは直径7センチほどの小さなイカ。別名『海の宝石』。1年で寿命の尽きる、星の光のように儚い生き物である。
(二)
倉橋の屋敷には広い地下室があり、そこには数多くの珍しい品々や変わった生き物たちが展示されている。それぞれにきちんと展示スペースが設けられ、暗い空間の中でスポットライトを浴びてぼんやりと浮かび上がる。その地下には『世話係』と呼ばれる男がいた。
男は二十代前半の青年である。彼の仕事は展示物の世話をすること。400年前、名のある武将が愛用したという甲冑や刀、または偉人が使っていたペンなど、無機物に関してはほこりを拭ったり、磨いたり、それほど大変な作業はない。午前中の1時間ほどですぐに済む。けれど、生き物たちの世話は大変だった。なんせ、厄介な生き物ばかりである。
たとえば別々の檻に囲われた肉食獣たち。ライオンや、トラ、狼。彼らにはそれぞれ別の肉が用意される。何の肉かはよく知らない。
「肉食獣といってもひとくくりにはできねえ。それぞれの体に合った肉ってのがある。間違えずにやるんだぞ」
世話係の青年はエサを運んできた業者の命令通り、箱の表面のラベルをしっかりと確認し、肉食獣たちに間違いのない肉を与えていく。
「これはライオン用。これはトラ用───」
積み上げられた箱のひとつに、中から騒々しい音を響かせるものがある。箱にピン止めされた紙には『ライオン用』と書かれていた。見ると、中身は生きたブタだった。肉食獣には時々、生き餌が与えらる。
「今日はライオンか」
世話係の青年は台車で重たい箱を引っ張って行き、専用の出窓からブタを檻の中へ送り込んだ。ブタは落ち着きなく周囲の匂いを嗅ぎ、見渡すように首を振る。そしてライオンを見つけ、飛び上がる。壁際に逃げたブタを、ライオンは睨んだだけで追わない。すぐに殺しては面白くない、と思っているようだ。つい先ほど別のエサを食べたので、腹は空いていない。ブタはライオンの『おもちゃ』として与えられたものなので、これでいい。青年は出窓の鉄扉を閉め、次に行く。
サメ用。書かれた箱を開け、青年は驚いた。物音一つ聞こえなかったので気づかなかったが、これも生き餌だった。黒い瞳を潤ませたゴマアザラシ。くぅん、と人懐っこく鳴いた。青年はそれをサメの水槽に投げ入れた。体長5メートルのホオジロザメである。サメは鋭い牙をのぞかせ、すぐにアザラシを追いかけ始めた。あのおもちゃはすぐになくなりそうだと青年は思った。そしてこうも思った。今頃この趣味小屋の主である倉橋は、監視カメラの向こうで彼のコレクションたちの生き様を見て楽しんでいるのだろうかと。
次に世話係の青年は、この趣味小屋で唯一人間の展示物である少女に会いに行った。
少女はこの広い地下の世界を自由に行き来することが許されている。そのため、彼女を探すには長い時間歩き回らねばならなかった。少女はサメが閉じ込められている水槽の、ガラストンネルの下にいた。
彼女の姿が白く見えるのは、水槽の真上に設置された白色蛍光灯に照らされているから、ではない。少女の髪や肌は元々雪のように白い。彼女はアルビノだ。
少女がこちらを向いた。そこだけ異様に浮かび上がって見える紫の瞳が青年を見上げる。アルビノはそう珍しいものではないけれど、彼女の瞳の色は珍しい。それが彼女を展示物たらしめている理由だ。
細い腕に、女の子の人形が抱かれていた。ライオンにとってのブタ、サメにとってのアザラシが、この少女にとっての人形なのだと頭の隅で確認する。
「かわいそう」
少女は無表情に言った。声音も平坦で、本当にそう思っているのかわならない。
再び水槽に顔を戻した少女の視線の先には、ホオジロザメの尾があった。すでにアザラシの姿はなく、サメの周囲に赤い霧が漂っている。
「食べられる瞬間を見たの?」
聞くと、少女はあいまいに頷いた。
「一瞬だったから、よく、わかんなかった」
「そう」
どこかほっとしながら、少女に歩み寄る。
「今日は新しいおもちゃを持って来たよ。ほら」
小脇に抱えてきた絵本を差し出す。少女は人形を右腕に抱きなおし、左手だけでぎこちなく本を受け取った。
「ぼくは別の展示物の世話に行ってくる。あとでまた来るよ」
少女の返答はない。またぼんやりと水槽を見上げていた。青年は少女に背を向け、次の展示スペースへと歩みを進めた。ニシキヘビにエサを与えねばならない。箱の中、エサのネズミが既に死んでいるのを確認し、青年の心は少しだけ軽くなる。
(三)
地下にあるただひとつの時計───100年以上前に作られたというこの時計も、何やら特別なストーリーを有しているらしいが、青年はよく知らない───が18時を回ったころ、青年は再び少女のもとを訪れた。少女はまだトンネル水槽のアーチの下にいた。座り込んで絵本を広げている。ここは蛍光灯のおかげで明るいから、本を読むのに適しているのだろう。少女はとても熱心に絵本のページを目で追っていた。
成年は少女の隣に腰を下ろした。冷たい大理石に胡坐をかいて座る。少女が顔を上げ、青年は思わず「お」と声をあげた。いつも無表情な少女の口元にわずかに笑みが浮かんでいる。心なしか頬も紅潮しているように見えた。
「星、きれい」
少女が指さすページには、青い光がひしめく星の写真があった。『世界一きれいな星空。ニュージーランド。テカポ湖』と題が振られている。絵本だとばかり思っていたが、彼女に渡した本は星の写真集だったらしい。
倉橋は、と青年は自らの雇い主を苦く思う。
なんて残酷なことをするんだろう。
展示物の少女は、一生この地下から出られない。星を探して夜空を見上げることは、だから一生できない。それなのに、倉橋は無責任にも、少女に星への憧れを植え付けた。
「星って不思議なんだ。いま光が見えてるからって、その星が存在してるかどうかわからないの。星の光が地球に届くまではすっごく長い時間がかかって、その間に、星は消失してるかもしれない。たしかにいま、目の前で光ってるのに」
写真集の説明書きから得た知識をそのまま披露したのだろう。彼女が口にする「存在」とか「消失」といった言葉は外国語を意味も分からず発しているような響きがあった。
「星、見たことある?」
少女の熱っぽい声音に、青年はたじろいだ。自分の返答しだいで、少女の憧れをさらに煽ってしまう可能性がある。迷った末、「ある」とだけ答えた。しかし少女の追及は終わらない。
「どんなだった? この本の写真みたいにきれい?」
「どうだったろう───」
言葉を慎重に考える。
ふと思う。最後に星を見たのはいつだったろう。思い出すのは、ガラスを一枚隔てた暗い空。星は数えるほどにしか浮かんでいない。この屋敷の一階から見上げた空だ。
世話係の青年は、朝から晩まで一日中展示物の世話をするために住み込みで働いている。生き物たちのエサや貴金属の手入れに使う研磨剤などの必要な道具は別の人間が持ってくるので、それらを調達しに青年が屋敷を出ることもない。
思い出したのが屋敷から見た貧相な星空だったので、青年は気負わずに答えることができた。
「ぼくの見た星はこの写真みたいにきれいなものじゃなかったよ」
「そうなんだ。じゃあ、見てないのといっしょね」
束の間安心しきって微笑み合うも、次の瞬間、青年の顔から表情が消えた。少女の口から危惧していた一言が吐息と共に放たれたからだ。
「星、見たいなぁ……」
少女は水槽を見上げる。水の揺らめきに輝く紫の瞳は、水槽を通り越し、まだ見ぬ夜空を夢見ているのだと青年は気づいた。
見せてあげたい。
言葉を解さない展示物の中にあって、唯一話し相手となってくれる少女は、孤独な青年の心の拠り所となっていた。彼女の願いならば、出来る限り叶えてやりたい。
しかし少女を地下から連れ出すのは不可能だ。
展示物にはそれぞれセンサーが取り付けられている。この地下から持ち出されれば、すぐに警備会社に連絡がいくシステムである。少女の首にはめられた金属の輪が、そのセンサーだ。もちろん、特殊な器具がなければ取り外すこともできない。青年の危うい考えに警告を出すように、首輪の中央で赤い光が点滅している。
やはり無理だ。
諦めかけたそのとき、青年の頭にある考えがふっと浮かんだ。
青年はすぐさま夢見る少女に約束した。
「ぼくが君に星を見せてあげる」
(四)
青年は夜の海にやってきた。藍色の空には雲一つなく、あの写真ほどでは到底ないにしろ、星がきれいに見えた。一方で月はいまにも消えそうなほど痩せていて頼りない。こんなふうに暗い春の夜は、町の光を月光と勘違いしたホタルイカたちが浜辺に押し寄せる。
使用人の目をかいくぐり、屋敷を抜け出すなど初めてのことだった。緊張と興奮で、青年の足は急く。
青年が足を踏み入れた海岸は、ホタルイカを楽に仕留めようとする、もしくは幻想的な風景を求めてやってくる人間がほとんどいない、穴場だと言われている場所だった。青年はそのことをよく心得ていた。
はたしてその海岸に、目的の光景は広がっていた。ホタルイカがつくる青い天の川。何百もの星が海に落ちてきて、波にさらわれ、浜に打ち上げられたかのようなその光景。青年は束の間何もかも忘れ、青い光に魅入った。それから少女のことを思い出すと、大きなバケツを二つ抱え、波打ち際に歩いていく。重たい砂に足を取られ、何度も転けそうになった。
波打ち際に着くと、青年は屈んで青い光を掴んだ。持ち上げ、じっくり見ると、やはりそれは小さなイカである。この美しい光を放つのが宇宙人のような姿をした生物だとは。少しだけ感心し、あとはひたすら作業を続ける。青い光をつかみ、バケツに放り込む。波の冷たさでだんだんと指先の感覚が鈍くなり、イカのぬめりや柔らかさを感じなくなっていく。感じるのはただ重さだけ。そうなると、いよいよ無機質な星を集めているような気分になってくる。
二つのバケツがいっぱいになると、青年は屋敷へ急いだ。ホタルイカが死に、青い光が失われないうちに、帰らなければならない。
少女に星を見せるために。
(五)
水槽のトンネル部分、そのアーチの下で、少女は揺れる水を見上げていた。ずっと向こうでサメが緩慢な動きで泳いでいる。少女はそちらへは目もくれない。ただ一心にアーチの天井を見つめた。ガラスと水と屋敷の床と屋根を通り越し、夜空が透けて見えるのを期待するように。
そのときだ。水槽を照らしている白い蛍光灯がふっと消えた。
突然のことにどう反応してよいかわからないのか、少女は水槽を見上げたまま微動だにしなかった。刹那、少女が見つめる一点に、青い光が現れた。その光はあっと言う間に増えていき、水の中にどんどん広がっていく。
数多の青い光のおかげで、水槽が明かりを取り戻した。少女の白い頬を青い光が浮かび上がらせる。紺色に染まった瞳は、少女が憧れたあの写真の光景を現実に映している。テカポ湖の星と同じ、青い光。
「見れたね、星」
青年が声をかけると、少女は青い光を見上げたまま「うん!」と元気よく返答した。
「ありがとう」
満面の笑みを向けられ、青年は胸がいっぱいになった。頬がピクリと引きつって、慣れない感覚に戸惑い、そして気づく。
───ああ、ぼくはいま久しぶりに笑ったんだ。
少女によりそって、数多の青い光を───満点の星空を眺めた。微笑んで、水色に染まった少女の髪を柔らかく撫でる。いまこの瞬間、ぼくもこの子も幸せだと青年は疑いなく信じた。
そこへ、パチン、と乾いた音が割り込んできた。パチン、パチン、パチン、空間を切り裂くようなその音はひどく耳障りだった。
「いやあ、すばらしい」
続く足音と共に、高級そうなスーツに身を包んだ男が現れた。少女をこの地下に閉じ込め、青年を世話係として雇い入れた倉橋である。
まずい、と青年は反射的に少女を背中に隠した。まずいのは少女と一緒にいるところを見られたからじゃない。青年が水槽の中に勝手に放ったホタルイカの存在を知られることだ。倉橋は展示物に手を加えられることをひどく嫌う。前にいた世話係は、掛け軸の修復を勝手に業者に依頼し、それは善意であったはずなのだが、激高した倉橋になじられ、以来姿を見ていない。大事な水槽にホタルイカを投げ込んだことは、それよりはるかに勝手なことだ。間違いなく、猛烈に叱られるだろう。それになにより、屋敷から抜け出したことがバレてしまう。罰を恐れ、ぎゅっと目を閉じる青年の前で、しかし倉橋は優しく微笑んでいた。パチパチと手を鳴らし、上機嫌ですらある。それは不気味なほどであった。
訝しむ青年に、倉橋は心底楽しそうに話しかける。
「この子のために君が屋敷を抜け出すまでするとは、正直、思わなかったよ。賭けは私の負けか。まあ、しかし気分は悪くない。君にも揺れ動く感情があるのだと知ることができたからな」
「賭け?」
「君の首輪のセンサー、地下を抜け出しても作動しないように電源を切っておいたのだよ。少女の願いをかなえるために、君が屋敷を抜け出すまでするか。私の罰を恐れている君が。今回の賭けの内容はそれだった。いやあ、楽しませてもらって感謝しているよ。愉快、愉快」
首輪? センサー?
心臓が嫌に存在感を増した。薄く開いた唇が小刻みに震える。強張った指先を自身の首に這わせ、青年はひゅっと息を飲んだ。
ぼくは、いったい。
薄明りの中、倉橋の目と唇が半月形に笑う。
「おや、その子もずいぶん古くなったもんだなぁ。新しいものに変えてあげよう」
倉橋は青年の後ろに回り、少女の腕を掴んだ。物のように持ち上げる。
「やめろ!」
わずかに反応が遅れた青年が、慌てて倉橋から少女を引き離そうとする。しかし倉橋は少女の腕をひょいと引き、彼女の体を宙に舞わせることで青年が伸ばす手をかわして見せた。倉橋が扱うと、少女はまるで綿の詰められた人形のように重さを無くして見える。それにどういうわけか、ひどい扱いを受けているのに、少女は悲鳴どころかうめき声すら上げない。倉橋はまた、少女の体をぶんと振り回した。腕が変な方向に曲がり、ちぎれそうである。青年はぎょっとして悲鳴のように叫ぶ。
「やめて! その子の腕、怪我するよ!」
「何を言っているんだい」
倉橋の濁った瞳が、あざ笑うように青年を見下す。
「この子は人形なのだから、怪我なんてしないよ。壊れることはあってもね」
人形。
何をふざけたことを。
しかし倉橋がぶら下げる少女を確認して、
ひっと短い悲鳴が、喉から洩れた。
白い髪と肌、紫の瞳、少女はつぎはぎの目立つ小汚い───人形だった。
どうして思い出すのがガラス一枚隔てた星空なのか。
どうして少女には『エサ』がなかったのか。
どうして自分は『ホタルイカの身投げ』が見れる穴場を知っていたのか。
閉じ込められたコレクション。おもちゃ。星の写真集。
この青年こそ、珍しい紫の瞳を持つアルビノ。少女は彼の姿をかたどった人形にすぎなかった。
思い出した。
『世話係』は、前の担当が辞めてから暇つぶしで始めたものだった。それがいつの間にか、自分の仕事だと認識するようになっていた。
全身から力が抜け、青年は膝から崩れ落ちた。
「良い子にしているのだよ」
倉橋は言い残し、少女の人形を引きずるようにして去っていく。地下の重たい扉が閉められると、そこはいっそうの闇に包まれた。光源といえば、ホタルイカが放つ青い光だけ。しかしその光も徐々に輝きを無くしていった。たった一年のホタルイカの寿命が、いま尽きようとしている。ひとつ、またひとつとまたたく青い光が水の中を流れるように落ちていく。トンネル水槽のアーチの下で膝をつく青年の上に、左右に、降り注ぐ。真夜中に似た闇に消えゆくそれは、まるで大地に降り注ぐ数多の流れ星。
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