プロローグ

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プロローグ

 何の悔いも残らないお別れなんてないね。  竹井小夜子の挨拶を聞きながら、森下希美はふと母の言葉を思い出した。空に浮かんだ鰯雲が遠く夏の終わりを知らせていた。夕暮れで茜色に染まった居室で小夜子は退職の挨拶をした。  会社生活五年間の思い出を振り返り、ときおり目を潤ませながら鼻に皺を寄せて無理に笑おうとする小夜子を見て、もうこの笑顔も見られなくなるのかと思うと、急に寂しさが込み上げてきた。  小夜子が来月に結婚を控えたことを報告し、花束を受け取ると一斉に温かい拍手が部屋を包んだ。 「あかんやったら、いつでも戻ってき」  拍手の中、そう叫んだのは小夜子とともに実験をしてきた主任研究員の長原実之だった。長原のそんな言葉にいつもなら大笑いするみんなも、そのときばかりは涙交じりに小さく控えめにしか笑わなかった。  小夜子を見送るときには、とっぷりと日も暮れていた。みんな彼女との別れを惜しむように、研究所のエントランスホールで代わる代わる小夜子と写真を撮った。  研究所のみんなに見送られる中、小夜子は大きな花束を抱え研究所を後にした。通りを歩きながら何度も振り返り、手を振った。小夜子のスラリとした長身が隣に立つ研究所の角に吸い込まれるようにして消えたとき、実際に誰かが漏らしたわけでもなかったが、希美の耳にはみんなのついた溜め息が微かに聞こえたような気がした。
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