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10.潮目が変わりはじめた日
今、自分を抱きしめている相手は相田さんなのだとわかっているけれど、僕のなかに残る記憶では、こんなことをしてくる相手は東城でしかあり得ないんだ。
だから、相手の見た目だけでなく、匂いも感触もなにもかもがちがっていた。
東城じゃない人に、お芝居の一環としてではなく抱きしめられている。
それを脳が認識したとたんに、違和感が一気にふくれあがってきた。
───つまり、最終的に湧いたのは、嫌悪感でしかなかった。
「っ!」
とっさにその胸板を突き飛ばしそうになったところで、あわてて自制する。
そんなのは過剰反応だと思うし、なにより相手に失礼だ。
「あぁ、ごめん、またからかいすぎちゃったかな。嫌だったよね、こんなの」
そう思ったものの、どうやら顔には出てしまっていたらしい。
サッと僕を解放し、申し訳なさそうにあやまってくる相田さんに、むしろこちらが申し訳ない気持ちになってくる。
「いえ……こちらこそ失礼な態度で、申し訳ないです……」
「うぅん、本当に悪いのは僕のほうだから。これって、ふつうにセクハラでしょ。女優さんにやったら一発アウトなことなら、だれにやっても結局アウトだからね。だからごめん」
おたがいにあやまり合うという、なんとも言えない気まずさがただよう。
「……それにしても、これでもそれなりに人気ある役者のつもりだったけど、この僕でもダメだったかー。いやぁ、湊斗くんからの一方的な片想いなのかと思ってたけど、なかなかどうして彼も愛されてるね」
だけどその空気を払拭しようとしたのか、相田さんはさらなる爆弾を投げ込んでくる。
「へっ?!」
なにを言われたのか理解すると、一度は落ちついたはずの頬がふたたび熱くなってくる。
だってそれって、僕も東城のことを愛してるんだって感じたという意味だろ?
世間一般では男同士でのハグくらい、どうってことないものだし、なんなら相田さんもふつうにイケメンで、見た目的な意味での嫌悪感を抱かれにくいのも事実だ。
なのに僕は、嫌だと感じてしまったんだ───だって、相手が東城ではないから。
お芝居ではないからこそ、東城以外の人からのハグを受け入れることができなかったわけで。
それって、つまりは僕のなかで東城だけが『特別』なんだっていう、証でしかないと思う。
「でも湊斗くんの心配を考えたら、いい傾向だよ?放っておけば君の隣で、24時間警備でもしそうないきおいだったからね。君自身でも、身持ち固く自衛してくれるなら、少しは彼も安心できるんじゃないかな」
「そういうもの、なんでしょうか……?」
あごに軽くにぎった手をあてたまま話す相田さんを、そっと見上げる。
「んー、でも湊斗くんの心配は理解したよ。前に君の言動すべてがかわいいから、周囲がそれに気づいてしまったらと思うと心配だってのろけてたけど、あながちまちがいでもなかったよね」
東城のヤツ、なにを言ってるんだよ?!
もう、穴があったら入りたいって、こういうときのことを言うんだろ?
「まぁ、その前に『羽月さんはいつだってあきらめずに、努力を怠らなくて、どんなに辛くても決して俺の前では弱音を吐かない、そんなカッコいいところに惚れました!』ってメロメロな感じにベタ褒めしてたんだけどねぇ」
「………………………………」
ダメだ、そのセリフ、東城の声での再現も余裕できるな。
「それのあとには、決まって『そんなふだんのお仕事でカッコいい羽月さんは、素がかわいいんですよ!だからそんなギャップ見せられたら、どんなヤツも落ちるしかないでしょう!?』なんて力説してたっけ」
ああああ、なんてはずかしいこと言ってんだよ、東城のヤロー!!
おかげで、さっきから赤面が止まらない。
「たしかに、あの殺陣見せられたあとで、この素のかわいらしさを見てしまったら、納得するしかないよね」
「うぅ、勘弁してください……」
相田さんのような、すごい俳優さんにそんなことを言われるなんて、どうにも落ちつかない。
口もとを手で隠しながら、そう泣きごとを口にする。
「うんうん、そんな風に照れる姿もかわいいよ」
サラリとそんな口説き文句が出てくる辺り、素で王子様キャラのイケメンって怖い。
たぶん相田さんは、東城とかと同種族の、ナチュラルボーン王子属性の人だ。
つまり地味きわまりない僕からしたら、ふつうなら相容れない人種だってことだ。
おかげで今のやりとりだけで、精神力がだいぶすり減ってしまったような気がする。
ため息をつきたい気持ちをこらえ、代わりにあとで東城に会ったら、絶対苦情を言うぞと心に決めた。
ホントにお前のせいで、めちゃくちゃはずかしい思いをしたんだからな?!
絶対に苦情を入れてやるから!
そうして相田さんと話しているうちに、相田さんの休憩時間が終わり、相田さんは断りを入れてもどっていった。
あとには、僕がひとり取り残される。
だけど、いつまで待っても矢住くんがもどってくる気配はなかった。
ひょっとして、これは探しに行ったほうがいいヤツかな……?
でも、もし相田さんの言っていたことが本当なら、僕が行かないほうがいいかもしれない。
だってもし自分だったら、きっと己の不甲斐なさに涙を流しているだろう。
そんなところに、その原因となった相手に来てもらいたいかといえば、それはまちがいなく、『否』だった。
でもそれとは別の、たとえば具合か悪くなったとかの理由で帰ってこられないのだとしたら、それはそれで心配だけど、彼にはちゃんとマネージャーさんがついているのだから、そこら辺のケアは万全のはずだ。
気にはなるけれど、あえて知らないふりをすることが今の僕にできる、最良の選択肢だった。
結局、その日の稽古が終わるまで、矢住くんはレッスンスタジオにもどってこなかった。
一応岸本監督にも声をかけたけれど、今は放っておくしかないと言われ、すなおに引き下がるしかなくて、モヤモヤとした思いは翌日まで続いたのだった。
* * *
明けて翌日。
その日は朝から晩まで、演技のほうの稽古が予定されていた。
昨日の今日で、ちゃんと稽古場に来てくれるのか心配だったけど、矢住くんは遅れずに来てくれた。
「おはようございます、矢住さん」
無視されるのを覚悟してあいさつすれば、たしかに返事はなかったものの、そのまますごいいきおいで、まっすぐにこちらへと歩み寄ってくる。
ピタリと目の前で立ち止まったところで、キッとにらまれた。
うーん、苦情申し立てられるのかな、これ。
仕方ない、彼のプライドを傷つけてしまったというのなら、甘んじて受け入れるしかない、そう思って腹をくくった。
「おはよう、ございます……師匠っ!!」
そしてブンと音がしそうなレベルに、直角に腰を折ってあいさつされた。
「へっ?」
だけど覚悟をしていたのとはまったく別の方向からのそれに、ポカンと口を開けたまま固まる。
「あらためて、今日からお世話になります!全力で師匠から技を盗んでいきたいと思いますんで、よろしくお願いします!!」
「え??あの……、だれがだれの『師匠』だって……?」
予想外の言動に、僕のあたまは麻痺したままだ。
「だから、理緒さんが、ボクの師匠です!」
身を起こした矢住くんは、そんな風に言い放つ。
「えぇっ?!」
一方、その発言に僕はおどろくしかなかった。
昨日は、あれだけ落ち込んだ様子を見せていたし、なによりも僕のことを嫌っていたように見えたのに、一晩でここまで変わるなんて、彼のなかでなにが起きたんだろうか?
ていうか、あいかわらず僕の呼び方は『理緒』のままなのか……。
「あれから一晩中考えてみたんですけど、殺陣にしろ演技にしろ、どうやっても理緒さんに勝てそうになくて。だったらもう、すなおに教えを乞うほうがいいかなって」
たとえそう結論が出たところで、気持ちが追いつかないのは、よくあることだ。
ムカつく相手に教えを乞うっていうのは、なかなかどうしてできることじゃない。
特に若い子ほど、自分自身のプライドの高さが邪魔をして、あたまを下げられないことなんて、あって当然なわけで。
まして僕は矢住くんから見たら、年上とはいえ知名度を考えたら、はるかに格下の役者だから、ますますあたまは下げにくいと思う。
それを実践できるんだから、矢住くんはある意味で、ホンモノのプロ意識を持っているんだろう。
この『仕事に対するプロ意識』ってのは、子どものうちは理解しにくいものだもんな……。
たとえば、だれにでもぺこぺことあたまを下げているのって、プライドがないとか誤解されがちだけど、真に高くゆるぎないプライドを持っていれば、そんなことくらいじゃ微塵も傷つかないものだし。
わかりやすく言い換えるなら、『自分が受けた仕事を完ぺきにこなすということにこそ、重きをおいている』ということだ。
期待された以上の成果を出したいと願うし、それをできる自分だからこそ、自分自身に自信を持つことができる。
そういう意味で、正しく矢住くんはプロの芸能人だった。
さすが大手芸能事務所所属なだけに、教育が行き届いているというべきなのか、それとも本人のトップアイドルとしてのプライドなんだろうか?
いずれにしても、その潔さは尊敬に値すると思う。
そして、今さらそれが本気の発言なのかなんて、確認するまでもなかった。
今の矢住くんの目を見れば、本気で僕に教えを乞う気でいることがわかる。
ならば僕は、その本気を受け止めるまでだ。
「わかりました、それでは僭越ながら僕も、全力で指導させていただきますね」
「お願いします!!」
ふたたび、いきおいよくあたまを下げられる。
ふと見たまわりは、皆あたたかいまなざしで矢住くんを見守っていた。
あぁ、愛されてるな、さすがは現役アイドルだ。
そんななか、座長の相田さんだけは、矢住くんではなく、僕のほうを見ていた。
目が合った瞬間、パチリとウィンクをされる。
それを見て、ふいに理解した。
そっか、ひょっとして昨日の矢住くんのメンタルケアをしてくれたのは、相田さんだったのかな?
さすがは座長、座組の一員の不調も面倒見てくれるのか。
なるほど、相田さんはふだんテレビのお仕事が多いわりに、舞台俳優さんたちからも評判がいいはずだ。
良くできた人っていうか、座長としての自覚を最初から持ってるし、後輩の面倒見いいんだもんな。
器が大きいって、こういうことを言うのかもしれない……なんて感心する。
ひとまず矢住くんとのあつれきが解消されようとする気配に、ホッと息をついた。
そのとたん、首に腕がかかり、背後から抱きつかれる。
あぁ、なんだこのデジャヴ。
「おー、よかったなシンヤ!無事にひよっ子と仲直りできたじゃねぇか!」
「雪之丞さん!」
その声の主は、雪之丞さんだった。
至近距離からこちらを見る目は思った以上にやさしいもので、からかいつつも、実は矢住くんと僕のことを気にしてくれていたことに気づいた。
矢住くんがレッスンスタジオを出ていってしまったあのとき、雪之丞さんは決してそばにいたわけじゃないのに……。
あぁよく見えてるなぁ、なんて感心すると同時に、僕自身の視野も狭まってたんだってことにも気づかされる。
そっか、雪之丞さんもまた、ふだんは自分の劇団では座長なんだもんな。
やっぱり座長をやるような人は、ちゃんと周囲のことにまで目を配れなきゃいけないのか。
僕と同年代のはずなのに、雪之丞さんてば大人だな。
それはまぁ、僕よりも若干年上とはいえ、相田さんに対しても言えることだけど。
「ひよっ子もえれぇぞ、己が勝てない相手を知るのも、大事なことだからよ。人に教えを乞えるヤツぁ、伸びるぜ?」
「うるさいな、ボクのあたま勝手になでんな!」
僕の肩に腕をまわしたまま、もう片方の腕を伸ばしてワシワシと矢住くんのあたまをなでている。
「ありがとうございます、雪之丞さん」
そのふたりのじゃれつく空気の明るさに、今度こそわだかまりを解決できたのだと、そっと肩の力を抜いた。
ようやくこれで、ちゃんとした稽古に入れる。
「あいかわらずシンヤはマジメだな。ま、感謝してるってぇなら、からだで返してくれてもいいんだぜ?」
「えっ?」
チュ、という小さなリップ音とともに、頬にやわらかな感触があたる。
「な、な、な………なにしてるんだよアンタ!?」
それが雪之丞さんからされたキスだと気づいたのは、目の前ではげしく動揺する矢住くんの反応を見たからだった。
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