耽溺

1/1
前へ
/12ページ
次へ

耽溺

「正一さん、食事をお持ちしました」  久野木がカートを押して、部屋に入ってきた。お盆に並べられた白い皿から、ほかほかと湯気が立つ。  正一は天蓋のベッドで、虚空を見つめていた。忍び寄るように、ベッドに近づいた教え子が、正一の背中に腕を回す。  熱い手で素肌を撫でられ、びくりと肩が震えた。 「っ……自分で、起きれる、から……」  いやいやと体を捻ると、肩にぐっと指が食い込んでくる。久野木は微笑んだまま、正一の抵抗を抑え付けた。  輝く宗教画のような笑みが、正一の罪悪感を照らす。力なく項垂れた。 「さ、まだ本調子ではありませんからね。料理長に頼んで、お粥を作って頂きました」 「……ありがとう」  お盆に添えられたスプーンに手を伸ばした――久野木にひったくられた。にこにこと笑う教え子は、ベッド近くに椅子を運んだ。 「正一さん、はい」  粥を一口、久野木が掬う。スプーンを口元に運ばれ、仕方なく正一は口を開いた。温かい出汁が効いた、白米のお粥。  贅沢な食べ物を一口、また一口と、スプーンを運ばれる。正一が咀嚼するのを、久野木がじっと見つめていた。  息を潜めるように注視され、落ち着かなかった。見張られているようで――実際、正一は久野木の部屋から、外に出られなくなった。  屋敷を出た途端、里中に拉致され、長屋で男達に犯された。長時間、嬲られているところを保護されたのだった。  久野木は屋敷に戻ると、寝泊りしていた離れではなく、私室に正一を運んだ。背広を一枚、着せられた正一は裸同然で、媚薬を塗られた体は疼いたままだった。耐え切れず、年下の男に縋り付いた。 『せ、せんっ、いれて、いれてぇ』  熱い。最も敏感な場所が熱を持ち、男を求めていた。 『先生、苦しいでしょう』  ベッドに正一を降ろすと、久野木が覆い被さってきた。ネクタイを解きながら「どうぞ」と、胸元を開ける。 『好きにしてください』  蜂蜜色の肌に、正一の息が上がった。逞しい咽喉仏に触れると、ごろりと教え子は横になった。 『先生、私を好きにして』  正一は教え子に飛び付いた。圧し掛かると、釦を引き千切り、服を剥いだ。獣のようにまたがり、腰を振る。思うがまま、教え子の体を使うと、正一の熱が引いていった。  同時に体は限界だったのか、眠気が襲ってきた。だらりと、自分の上で力を失くした愛人を、久野木は抱きしめた。  出て行ったことを責めず、ただ外は恐ろしいところですよと、言い聞かせるように、囁かれた。  ……あの日から、正一は服を着せてもらえなくなった。  裸で久野木のベッドに潜り込む。部屋の主は優しいのに、頑なに服は着せてくれなかった。   服が欲しい、気晴らしに散歩がしたいと言っても駄目だと言われる。優しく、子どもに言い聞かせる口調で、服を着せたら外に出るでしょう、などと言う。  シーツを体に巻き付ける正一に、ますます久野木は優しくなった。教え子の態度が不思議だったが、妻だからと、耳を疑うような発言をされた。 『約束は約束でしょう』  本気だったのかと、正一は絶句した。ならば一糸まとわぬ姿は、久野木の「妻」になったからか……扱いに変化が生じたのは、これだけではなかった。  先生、先生と慕っていた教え子は時おり、「正一さん」と名前を口にするようになった。 『正一さんは私の妻だから』  久野木は、妻とはベッドで夫の帰りを待つものだと言う。ただひたすら、夫のことだけを考え、褥で帰りを待ちわびるのだと――拷問だ。正一は、久野木に全てを取り上げられた。  ぼんやりと一日を、久野木の部屋で過ごす。これはひょっとして、屋敷を勝手に出た正一への――久野木の復讐ではと、勘繰るまでになっていた。 「美味しかったですか?」 「うん……」  皿が空になると、久野木はナプキンで、正一の口元を拭った。唇をしつこく拭かれて、頭を撫でられる。 「ねぇ、先生」  ベッドに乗り上げた久野木が、自分の膝を叩いた。犬猫を呼び寄せる仕草に――逆らえない正一は、頭を乗せる。 「今日ね、取引先の会社は、イギリスにありましてね――」  正一の耳朶やら髪を弄りながら、今日の出来事を話す。これも「めおと」の日課だと、久野木は言う。膝に頭を預けて、正一は相槌を打った。  食事が終わったら、雑談などして、風呂に入る。服を着せて、耳かきから爪切りまで、久野木は世話を焼く。  正直、子供扱いされているようで、居心地は悪い。だが嫌がれば、力で抑え付けるか、目を潤ませてくるのだ。 「可愛い奥さん……寝ちゃった?」  鼻歌交じりの、上機嫌な声がした。すぐに口づけが降ってくる。 「……先生、もう大丈夫ですからね、ここは安全です」  どうやら、久野木の過剰なまでの世話は、同情心からきているらしかった。これが、正一の抵抗を弱めた。抑圧であれば、反発できたが、すぐ泣きそうな顔をするのだから困った。 「先生は……私が守ります」  頭を抱えられ、口づけが深くなる。真摯な誓いもそっちのけで、正一は桑山達の所在が気にかかっていた。  唇が離れた時、伺いながら口を開いた。 「……なぁ、亘」 「なぁに?」 「その……桑山や、ほら、警察に連行された若者はどうなったんだい」  慎重に聞いたつもりだったが、部屋の空気が凍り付いた。美しい顔が、途端に険しくなった。 「どうしてそんなことを?」 「……それは、あー」 「あんな輩をっ、あの、っあいつらが、貴方に何をしたかっ!」  長屋に踏み込んだ時、正一は教え子達に好き放題されていた。体内で狂う快楽に支配され、我を忘れた。  よがり狂った記憶に羞恥はあれど、傷はなかった。それが久野木は、輪姦されていたことに、憐憫を感じているらしい。  確かに世間では、強姦されたら傷物だとか、口さがない者は多い。表面上、同情しながら汚物のように扱う。  正一は桑山に犯されてから、タガが外れていた。男に犯されるたびに股は濡れ、涎を垂らすようになっていた。  おかしい  自分はもう、以前の若槙正一ではない。教員として壇上に立っていた頃には、戻れないのだと、教え子の視線から――怒りから、実感した。 「私の先生に、あいつらは」 「――僕はもう以前の……君の先生じゃないんだよ」  事実を述べただけだったが、久野木の同情を誘ったらしい。慰めるように、唇を重ねられた。  くちゅくちゅと水音が響く。唇が離れると、透明の糸が引いていた。ぺろりと、男の舌が舐めとった。  ころりと頭を枕に運ばれる。覆い被さった男に、きつく抱きしめられた。 「先生は……もう私の妻です。だから先生じゃなくてもいいんです」  しばらくすると、ぐずぐずと泣き声が聞こえてきた。久野木の哀れみは、見当違いではあったが――それでも自分のため、泣いてくれるのだ。心を締め付けられた。  持て余すほどの淫乱な体が、申し訳なくなる。正一は抱きしめる背中に、腕を回した。 「先生は私の奥さん」  妻、奥さん、可愛い人……口癖になった教え子は、近々、妻のお披露目パーティを開くと言う。 「……お父上はどうするんだい」 「先生はそんなこと気にしなくていいんです」 「じゃあ、パーティに出る服を着ないとね」  服を着せてくれと、遠回しな要求をしたが、教え子は首を振るばかりだった。 「お願いだよ。服が欲しい。それに……庭に出るくらいいいだろう?」 「駄目です。服を着せたら外に出るでしょう」  同じようなやり取りを繰り返し、正一はため息をついた。教え子は耳穴に舌を入れたり、耳朶を噛んだりしていたが、やっと頭を離した。 「また外に出たら……あんな風になるかも」  屋敷を出た途端、里中に捕まり、長屋で嬲られた記憶が甦る。久野木が匂わせる物騒な気配に、ぞくりと肌が粟立った。 「先生、私が先生を守ります」   体がずぶずぶと沈み込んでいく感覚がした。男達に輪姦された可哀想な「先生」を慰めようと、教え子は世話を焼く。  可笑しいよ  久野木に助け出されて、安堵する気持ちは――正一には、ちっともなかった。あのまま長屋にいたら、男達に犯(や)り殺されていただろう。本音は犯され続けて、快楽に殺されたかった。 「もうあんな怖い目には合わせませんからね」  過剰な世話は滑稽だと笑っても、真摯な声には逆らえなくなった。自分を抱きしめる男の背中に腕を回せば――生きていて良かったと、正一は心の底から思った。 「先生……」  切なそうにまつ毛を震わせた、美しい顔が近くにあった。柔らかい唇を合わせて、啄ばむような口づけをする。  競売で、正一を助け出した男は一度ならず、二度も「先生」を助け出してくれた。 「もう子どものような、幼稚な気持ちを先生にぶつけたくない……先生のことをお慕いしております」  とろりと溶けた目で見つめられる。正一は相手が何を欲しているのか――これも日課だった。 「僕もだよ」と返事をした。 「僕も君を……うん」 「私達はこうやって一緒になる運命だったのですよね」 「……そうなの、かも」 「そうですよ……私達は遠回りしてしまいました」  再び、口づけをされる。正一には拒む理由もないので、大人しく口を開けた。湿った舌が、入り込んできた。 「ふぅ、ん……」  舌先を絡めると、脚も同じように絡み合う。舌先が動き回り、正一の弱点を突いた。 「んぅっせん……」 「正一さん……愛してる」  あとはぼんやりと、ベッドに横たわっていれば良かった。正一好みになった男は「愛している」と言いながら、体を舐めしゃぶる。  甘い言葉を囁く男に、体を放り投げるようにして、身を委ねた。 「愛してるっ……私だけのせんせぃっ」  久野木が繰り返す言葉に、正一は教え子達を思い出した。せんせぇ、大好き。先生、お慕いしておりました。先生が一番好き……皆、正一に圧し掛かり、孔に突っ込んできた。  久野木も変わらないな  誘ったのは正一だったが、今や旺盛な精力を見せるのは、教え子の方だった。 「しょう、いちさんっ……しょういちっ」 「んぅっ」  唇に噛み付かれ、ベッドで悶える。シーツが乱れるだけ、体が絡み付いていく。快楽の波が押し寄せる……頭に何かが、引っかかっていた。  長屋で里中が叫んだ、約束が違う……約束したんだぁ……これで先生と、これからもやれる……  貪るように体を重ねて、眠りに付いた。朝、仕事だと部屋を出て行く久野木と口づけを交わす。名残惜しむように、何度も振り向きながら、教え子は出て行った。  食事を運ぶ使用人が、部屋を訪れるまで、まだ時間はある。正一はずるずるとシーツを体に巻き付け、久野木の書斎に近づいた。  浅ましい自覚はあったが、手が止まらなかった。頭にもたげた違和感は、膨れ上がるばかりで、何も解決していなかった。  重厚な黒塗りの書斎を、正一は漁り始めた。予備のペンや仕事の書類か、正一にはさっぱりな、紙の束が入っていた。  一段目、二段目、と引き出しを開けていく。同じような書類ばかりで、正一は肩を落とした。  久野木から聞き出すしかないのか……  三段目を漁っている時だった。奥に、嵌め込んだように仕舞われた、木箱を見つけた。何気なく取り出して、蓋を開けた。  むわっとカビの臭いが立ちあがり、正一は顔を顰めた。中身は茶色い染みだらけの葉書だった。  彩子、元気ですか。正二は、体の調子はどうですか。  忘れもしない。正一が、サイパンから家族を案じて出した、軍事郵便だった。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

341人が本棚に入れています
本棚に追加