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陥落
「――本日、社長がご夕食を一緒にと」
「それ、絶対?」
空襲を免れたデパートが立ち並ぶ銀座の通りを、車が走って行く。闇市の薄汚れたテントも点在するが、もうじき政府が立ち退きを要求するだろう。車を走らせるたびに、風景が変わっていくのを、久野木は車内の窓から見つめていた。
「一か月前からのお約束ですよ」
「ああ、はいはい」
咎めるように、秘書の糸川が予定を読み上げる。父親と顔を突き合わせて食事をするぐらいなら、早くベッドに入りたかった。
妻は何をしているかな。
裸で、ベッドに横たわる「妻」を思い出し、下半身が反応しかける。最近は帰宅すれば、ベッドから起き上がった正一が、縋るような目で見上げてくるのが堪らなかった。もはや自分に頼るしか生きられない男に――手に入れた実感を得ていた。
「社長がえー……その、離れの方のことが」
「父には前から伝えているはずだよ。これ以上、妻に何か口出しをするようなら、モント社に株を売り渡すと」
「……」
奥歯に物が挟まったように話す秘書を遮った。つい先日、父親には、造船会社の株をアメリカのライバル企業に売り渡すと脅しをかけていた。父親もまさか、愛人と会社を天秤にかけるとは思わなかったのか、絶句していた。
「君に話しておけばいいだろ?」
秘書の糸川は、父親が遣わせてきた男だ。影で父の懐刀だと囁かれる腹心は、微かに頷いた。
久野木の行動は、秘書を伝って、全て父親の耳に入る。筒抜けの状態を、久野木は気にしていなかった。老いた父親など、いつでも出し抜けるという自信があるからだ。
この傲慢なまでの自尊心は、今に始まったことではない。幼少期――物心ついた頃から、久野木は周囲を見くびっていた。
自分が嫌と言う程、恵まれた環境にあるのだと、早々と理解していた。周囲に傅かれ、他者よりも抜きん出た頭脳を自覚していた……慢心していた十代。
一方で、人は自分の家柄を見て、ご機嫌を取るのだと――周囲の態度に苛立ちを感じていた。
手放しで賞賛する教員は、自分の実力を見ているのか、それとも家を見ているのか。判断がつかず、軽蔑するようになっていた。
苛立ちが募っていた頃、高等科に進んだ。そこで受け持った担任の正一だけは、違うことに気が付いた。
生徒全員に優しく、過剰にこちらを持ち上げようとしない。いや、むしろ、久野木を避けていた。
他人は例え、久野木という苗字を知らずとも、容姿や立ち振る舞いで、人は好意を持つ。他者に好かれる術(すべ)は身に付けているはずなのに。久野木には、正一の存在は衝撃的だった。
未知なる存在への、単純な好奇心。久野木は正一を試そうとした。平凡そうな教師は、久野木の本心を知ってか、知らずか「分からない」と言った。
正一のてらいのなさにも、久野木は驚いた。周囲の大人は、久野木の賢さを褒め称える癖に、小賢しいなどと邪険に扱ったり、舐められまいと虚勢を張る。見栄を張る大人が多いことも、久野木の心を凍てつかせた。
冷めた目で見ているなか、正一は分からないと、正直に言ったのだ。そこから若槙正一という男に、興味を抱いた。和歌を持って、担任を訪ねるようになった。話しかければ、ちゃんと答えてくれる。
自分の誘いを一度も断らない正一に、だんだんと――この人は自分のことが好きなのでは?
いくら人を馬鹿にしても、未熟な心が成長するわけではない。幼稚な恋心が芽生えていた。
決して、誰かを特別扱いをしない教師。だけど自分のことは、好いてくれているのでは……芽吹いた妄想は、増殖した。
正一は教員として、子どもの疑問に答えていただけだったが、久野木が暴走するのに、時間はかからなかった。
なんとか出兵させずに済む方法はないか。
先生を別荘に呼んで……妻の存在は鬱陶しいが、引き離す方法などいくらでもある。そうして、自分と先生だけの生活を手に入れる……甘い妄想は、久野木から客観性を失わせていた。
先生はきっと、私のことを受け入れてくれる。
想いは口に出来ずとも、和歌で気持ちは伝えていた。放課後、愛しい人に手を伸ばした。
『……久野木、君の卒業を見届けられないのが残念だ。君が大人になって、慕う人に、和歌を送って欲しい』
正一は久野木を拒絶した。怯えた目を向けられた時、仄かな恋心が、執着に変わった。
「もうすぐ松屋デパートに到着します」
「ああ」
運転手が声をかけたと同時に、松屋デパートの外観が窓に映し出された。駐車場に車が停まると、糸川が後部座席のドアを開けた。
「一人で行くよ」
「いえ、何かありましたら、いけませんので」
首をすくめて、松屋デパートの一階にあるカフェに入った。男性はスーツ、婦人は華やかな着物を着て、皆、優雅にお茶を楽しんでいた。
ここには闇市の雑多な臭いと活気さはない。余裕とゆとりのある上流階級の人々が集う場所に――異臭が漂ってきた。
富裕層がお茶をするカフェに、場違いなほどケバケバしい服装の女。窓際でタバコを吸っているのは、ベスだった。
「遅いわよ!」
待ち合わせの時間丁度のはずだが、ベスは舌打ちをした。不機嫌そうに、棒切れのような足を組む。灰皿にはタバコの吸い柄が散らばっていた。
今日は「片付け」をするために、こうやって会議を早めに切り上げてきたのだが……ベスは久野木の多忙さなど、知ったことではないのだろう。
「申し訳ありません」
それともう一つ、周囲の目がある場所で、久野木に頭を下げさせたいのだ。浅ましいとは思ったが、丁寧に頭を下げた。
鼻を鳴らしたベスが何か言いたげに、顎をしゃくる。久野木は茶封筒をテーブルに出した。
「ありがとうございました……ほんのお気持ちです」
ベスはひったくるように茶封筒を取ると、直ぐに中の札束を確認し始めた。指を舐めて、札束を数える女に、久野木は何の感慨も浮かばなかった。
強いて言うなら、どうして先生はこんな女に惚れたのかという疑問だけ……ああ、そうだ。妻だった女を調査したが、先生は気の強い女が好きなのだ。
自分に上から命令するような。だが今は、人に従属したがる先生を支配しているのは自分だ。どうしてこんな女に、嫉妬する?
金に満足したのか、ベスが立ちあがる。
「それじゃ、あたし、急ぐから」
「……正一さん、元気にしてますよ」
嫌味ではなく、世間話で――この女にも、一抹の情でもあるだろうと口にしたが「はぁ?」とベスが苛正し気に、腕を組んだ。
「なに?どうでもいいんだけど?」
「……」
「あたしね、もうすぐダーリンとアメリカに渡るの……正一なんて男、知らないわ」
「左様ですか」
先生にはつくづく、同情する。タバコに火を付けたベスが、今度こそ出て行こうと、出口に向かった。
針金のような背中に、久野木は声をかけた。
「海外に行かれますなら、何かと入り用でしょう――桑山さんから頂いた分と、私の分で、足りますか?」
張りつめた背中が、ぐにゃりと歪む。彼女は振り向かなかった。
「……ええ、十分よ」
かつかつと音を鳴らしながら、カフェを出て行った。小さくなっていく背中を、久野木は見送った。本当は彼女に病弱な弟などいないと先生が知ったら、どう思うか……今やベッドで始終、ぼんやりとしているらしい正一は、昔惚れた女など、思い出しもしない。
どうでもいいかと、久野木は闇市が広がる通りに向かった。目当ての場所は、正一がよくカストリ酒を飲んでいた居酒屋だった。
暖簾をくぐると、居酒屋の主人がぺこぺこと頭を下げた。
「く、久野木様、いらっしゃ、いませっ」
粗悪な酒を飲みにきたのではない久野木は、懐から茶封筒を出した。頭を下げながら、主人が両手で金を受け取った。
「ありがとうございます、ありがとうございます。これで店を出せます」
「闇市で商売するのも、潮時ですか」
「ええ、立ち退きがきてます……浅草に店を構える予定です」
居酒屋の店主は、先生の情報を小まめに報告してくれた。正一が店を訪れる時間帯、飲む酒、一緒に連れてくる娼婦……彼の情報は、正一を捕まえるのに、大いに役に立った。
あかべこのように、頭を振り続ける店主が「何か飲んでいかれます?」と尋ねる。
「代金は頂戴致しませんよ。お礼で、ええ」
「頂きたいのですが、すいません、急いでいるもので」
「そうですよね、すいません」
こんな店で出される酒を飲んだら、死ぬかもしれない。ベッドで帰りを待っている人がいるのに、こんなところで時間を潰すわけにはいかない。
申し訳なさそうな顔をしながら、踵を返した。暖簾をくぐっている時、大声で名前を呼ばれた。
聞き覚えのある――面倒な声に、久野木は前髪を掻き上げた。
「――糸川」
「はい」
がやがやとテント張りの店から飛び出してきたのは、桑山だった。血走った目と合う。寄れたシャツに、無精ひげが伸びていた。警察の追跡から身を隠し、こうやって機会を窺っていたのか。
ちょうど暖簾から出て来たばかりだったので、奥から「久野木様?!」と主人の驚く声が響く。「すいません、警察を」と小声で指示を出した。
「奇遇ですね、桑山先生」
「なにが先生だっ!気色悪ぃ!」
唾を飛ばしながら、桑山は叫び声を上げた。闇市にできた、人が通るだけで、肩が触れあうほど細い道。久野木と桑山は対峙するように、睨み合っていた。
恐怖と好奇心に彩られた、野次馬が徐々に集まり出していた。怖いもの見たさに目を輝かせた野次馬も、桑山がナイフを持ちだしたところで、恐怖の色が浮かんだ。
「死ねっ!久野木!」
血走った目で、桑山が突進する。久野木は胡乱げな目を、元教師だった男に向けていた。眦をつり上げ、口から唾を飛ばした男が迫り来る――カランッとつまらない音が、路地に響いた。
「っか……っ死ね!クソが!」
顔の造形が崩れるほど悲惨な顔をした男が、目の前で取り押さえられた。のしかかった糸川が無表情で、腕をひねりあげる。ばたばたと桑山がもがいて、土埃がはためいた。
ああ、汚い。この薄汚れた場所から一刻も早く離れたい。
久野木は腕時計に目をやる。先生がきっと寂しがっている。
「死ね!死ね!久野木!てめーはっ!よくも俺のもんを!!!」
「――俺の物?」
地面に押さえつけられた男が、充血した目で、久野木を睨み付けていた。無様な姿を晒した男を、久野木は見下ろしていた。
「おかしかったんだよ!全部なぁ!どうしてお前は競売の値段を知ってた?!ベスか?!あのクソアマっ!!」
地べたに顔を押さえ付けられた男は、喚き散らしていた。闇市で、人身売買などやって、のし上がった男だ。いくら頭に血が上っても頭は回るのかと感心した。
そう言えば学生の頃、彼の教えは分かりやすかった。
「先生は……正一さんは元々、私のものだったんですよ。それを貴方が横からちょっかいをかけたじゃありませんか」
「ふざけんじゃねぇ!!あいつを渡せ!!!正一を返せ!!!」
まだ暴れる気力があるらしい桑山に、糸川が体重をかける。秘書の膝が背中にめり込むと、ひしゃげた声が洩れた。
「……社長」
「もうすぐ警察もくるから、辛抱してくれ……桑山さん」
「……ぐっ…死ねっ死ねっ、くのぎぃ!」
「桑山さんのやり方はとても参考になりました。女を使って嵌める、とかね」
正一はまさか、親しげに話しかけてきた女が、桑山の息がかかっているなど、思いよらなかっただろう。親しくなるにつれ、金銭を要求し始めたベスは、桑山の指示で動いていたのだ。
つり上がっていく金銭をまかなおうと、正一は桑山に従属するしかなかった。ベスから巻き上げられた金は全て、桑山の懐に戻っていたのだ。
「あいつ、はなぁっ!俺のオンナなんだよ!」
歯ぎしりをする男が、「しょういちぃ」――オンナの名前を呼ぶ。憎悪に彩られた目とは裏腹に、甘えるような声だった。
元同僚に執着していた男は、ねじ曲がった劣情でしか、オンナを愛せなかった。
「私も桑山さんを見習ってね、嵌めてみようって」
久野木は、膝をつくと、桑山の耳元に唇を寄せた。内緒話をするように、可哀想な負け犬に囁いた。
「慰み者にされているところを、私がヒーローのように助け出す……妻はね、もう私がいないと、生きられないんですよ」
獣の咆哮がした。地面に這いつくばっていた犬が、久野木に飛びかかろうともがく。糸川の眉間に刻まれた皺が深くなった。
久野木の口角が、三日月を描く。ベスに桑山の二倍の駄賃を出し、話を聞き出した。そうして今度は、桑山の部下に話を持ち掛けた。
協力すれば、定期的に遊ばせてやる。
桑山に、正一を独占させることを恐れていた子どもは、嬉しそうに頷いた。約束など端から守る気のなかった久野木は、さっさと警察に連絡した。
先生、どうなっているかな。
軽い足取りで長屋に向かうと、想像以上の出来栄えだった。全裸で股を広げ、上の口から涎を垂れ流す先生に、すぐにでも飛び付きたかった。
長時間、男達に嬲られた正一は、髪まで精液に塗れていた。焦点の定まらない目、しどけなく開いた口と上気した頬に、鳥肌が立った。
これでもう、外に出ようなんて思わないだろう。
「警察だ!何の騒ぎだ!」
ばたばたと野次馬を蹴散らしながら、数人の警官がやってきた。久野木は助かったと安堵した表情を作り、手を上げた。
「こっちです!この男がいきなりっ……いきなり刃物を!」
「死ね!久野木!久野木!てめーを殺すっっっ!」
「暴れるな!」
警官の一人が容赦なく、桑山の頭に蹴りを入れた。うめき声と共に、首がおかしな方向に曲がる。パタパタと地面に鮮血が降り注いだ。
力なくうなだれた桑山を、警官2人が両腕を拘束し、引きずり始めた。人身売買の容疑で、ご用となっている身分だ。警官達もこの顔に気がついたら、桑山は全てを失うだろう。
久野木は立ち上がると、膝についた泥をはたき落とした。
「あの、署でお話を……」
おずおずと警官が話しかけてきた。ニキビ跡が残る青年は、久野木とそう歳は変わらないだろう。
だが明らかに――久野木の庶民とは一線を画する上等な身なりに、腰が引けているようだった。どうしてこんな男が闇市に?と不審げな目を向けていた。
「糸川」
「はい……」
ややうんざりした秘書を代わりに差し出した。「後で車をよこす……ちゃんと食事には出るよ」と付け加える。糸川は小さくため息をつくと、完全に諦めて警官の後をついて行った。
ざわざわと好奇な視線が、一人残った久野木に集中した。「もし、もし……」と背広をちょいちょいと引っ張れ、振り向いた。
見ると顔を半分、包帯で巻いた負傷兵だった。黄ばんだ包帯に巻かれた手で、久野木の背広を何度も引っ張る。
面倒だった久野木は、財布から数枚紙幣を取り出した。負傷兵の胸に押し付けるように、金を渡す。ぺこぺこと頭を下げる兵士に目もくれず、さっさと歩き出した。
人々の視線が突き刺さる闇市を抜け、大通りに停められた車に乗り込んだ。
「帰る」
「はい」
車がゆっくりと動き出した。窓を見れば、服と言えないぼろ布を纏った子ども数人が、車を見つめていた。政府は孤児院を建てて、そこに戦争孤児を押し込めてはいるが、間に合わないのだろう。駅周辺には、子どもがたむろしていた。
何の感情も湧かない――正一さえ生きていれば良かった教え子は、車内で足を組んだ。
正一の所属する部隊が、サイパンから引き上げ船に乗ったところまで追えていたが、そこから足取りは途絶えてしまった。
疎開したという家族の元には一度、顔を見せたようだが――直ぐに東京に戻ったところまでは掴んだ。
正一と家族の縁を切らせようと、居場所を失くしたのは久野木だった。一族から出兵した親族は計らいにより、前線には向かわずに済んだ。軍属として内地に勤める彼に、葉書を回収してくれと頼んだ。
妻子の元に届いていると――先生はせっせと葉書を書いていた。手元に届く、彼の葉書の字を何度もなぞった。偽って、自分が葉書を出してみようか。一時期はそんなことまで、妄想した。
先生、貴方の居場所はどこにもないよ。
結婚した女は、正一が出兵した途端、弟との仲を隠さなくなった。久野木が葉書を回収しなくても、破綻していたのだ。
迎えに行く予定が、引揚者の波に埋もれ、正一を見つけ出せなかった。先生はどこだ?居場所もなく、彷徨っているのだと思えば、一睡もできなかった。
そうしてやっと、先生らしい男の姿を闇市で見つけたら……桑山の顔を思い出して、気が滅入った。久野木は足を組み変えた。
桑山の部下達は収監された。桑山も刑務所に入れば、久野木の「片付け」は全て終わる。
「早く……帰りたい」
「……申し訳ありません」
独り言に、運転手が慌てる。正一以外の人間に、興味が湧かない久野木に、運転手の声は届かなかった。
妻がきっと、帰りを待ちわびている。寂しい思いをさせないように、早くベッドに入って、体を重ねたい。
自分の支えなくして生きられない――妻を想って、久野木は笑みを深めた。
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