墜ちたのは

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墜ちたのは

 住処になった天蓋のベッドで、正一は眼球をぐるりと動かす。繊細なレース編みの模様をぼんやり見つめていたら、忙しない足音が聞こえて来た。 「正一さん」  息せき切って部屋に入って来たのは部屋の主だった。仕事道具である革のバッグや上着をソファに放り投げると、ベッドに上がり込んできた。 「ただいま帰りました」  せっかく、レース模様の小さな網目を数えていたのに。美しい男の顔が、視界いっぱいに広がった。  頬を染めた美男子が、唇を合わせる。温かな思慕が伝わる口づけだった。日課になった、いってきますとお帰りの接吻。正一は静かに受け止めた。  外国人の家庭教師に学んだ久野木曰く、海外では親しい間柄、挨拶代わりに口づけをするそうだ。疑うなら洋画を見ればいいと言う。おかしなものだった。つい最近まで敵国だと騒いでいたのに、輸入される白黒映画を観ようと、映画館は盛況だと聞いた。  久野木の手が、シーツを巻き付けた体に這い回る。躊躇なく股に手を入れられ、正一は身を捩った。 「変なの。ミノムシごっこ?」  軽やかに微笑む年下の男は、シーツを剥ぎ取ろうとした。正一は上体を起こして、顔を背けた。 「私も入れて下さい。二人で、ね、ミノムシごっご」 「……用事はないのかい」 「ないです。今日はこれから正一さんと二人きり。食事を取りましょう」 「……」  正一は無言で、腕を伸ばした。指を差した先は、書斎に置かれた木箱だった。妻だった女に送ったはずの軍事郵便。それは何故か、教え子の元に届けられていた。  少しは動揺するかと思いきや、久野木は「ああ」と乾いた笑みを見せるだけだった。 「奥に仕舞っていたんですけど……駄目じゃないですか。夫の書斎を漁るなんて」 「……変だと思ったんだ」  どうして久野木が妻子とのいざこざを知っていたのか。この頃、ぼんやりして過ごすことが多いが、空白が増えた分、違和感が大きくなっていた。  一体、この男はどこから仕組んでいたのか。  一つ、引っかかりを覚えたら、全てが疑わしくなってくる。人身売買の競売に参加したというのも、偶然なのか。  目の前の顔が、ぼやけていく。正一は目に映った男は学校一の秀才だった。甘えてくる教え子で、今は実業家として精力的に仕事をこなし、年上の男を愛人にする……久野木は、そっと正一の頬を撫でた。 「今さらどうでもいいじゃないですか。戦争は終わったんです」 「……恨んでたのかい」  かつて、教え子の告白を拒絶したこと。何不自由ない生活を送る御曹司は、思い通りにいかなかった教師が、許せなかったのかもしれない。  久野木は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。 「恨む?私は先生のこと、恨んだことなんかないです……ずっと、お慕いしておりました」 「そうかい。じゃあ僕が今からここを出て行くと言ったら?」 「それは許しません」  緩んだ顔付きが、豹変する。剣呑な表情になった久野木は、正一を押し倒した。 「どうやって?まさか裸で外をうろつく気ですか?」 「ああ、そうだよ。身一つで出るよ」  半分、投げやりな気持ちで答えた――同時に、一つの予想を確信に変えるため、久野木の出方を待った。  圧し掛かった男は、薄い唇を舐めた。 「――そんなことをしたら」 「また捕まるのかな――里中達に話を持ちかけたのは君かい」  正一の上で、久野木が唇を歪める。沈黙は残酷な答えを示していた。そもそも、どうして久野木が競売の値段を知っていたのか。正一が引き揚げ船から帰国し、彷徨っている間、この男は常に、正一を探っていたのかもしれない。  正一が底辺に落ちるのを、息を潜めて待っていたのだ。美しい顔を歪めた男が、笑い声を上げた。 「そうですね、今度は……もっと酷い野犬に捕まるかも」 「それで用済みになったら、放り出すんだね」 「先生、ねぇ?外に出たら、無事では済まされませんよ。次は貴方の教え子じゃないんだ」 「……そう」  久野木は頬を擦り合わせると、耳朶に歯を立てた。荒っぽい息遣いを感じて、そっと下腹部に目をやる。怒張が上等な布地を押し上げていた。  早く「妻」を抱きたくて、しょうがないのだ。  夫になった年下の荒ぶりを、正一は冷静に見定めていた。 「今度はもっと粗暴の悪い男をね、数匹――もう、あんな目には逢いたくないでしょう?」 「……里中達を助けてやって欲しい」  夫は瞠目した。正一の体からシーツを剥ぎ取ろうと躍起になっていた手が止まる。「正気ですか?」――囁くような声だった。 「ああ、桑山は……難しいよな。あれだけのことをやったんだ。でも里中達はまだ未成年だ。彼らが社会復帰できるよう、口添えをして欲しい。君ならできるだろう?」  ずっと考えていたことだった。桑山の人身売買はさすがに擁護できないが、せめて部下だった若い男達は、孤児院にでも行って欲しい。  久野木の寝室で過ごす時間、彼らが拘置所でどんな扱いを受けているか、気が気ではなかった。 「……なにを言っているの」  久野木は正一の顔を両手で包み込むと、目を覗き込んできた。予想外の願いに、目が不安定そうに揺れる。下半身にあたる屹立が、さらに硬度を増した。 「お願いだよ。軍に根回しができるんだ。たやすいことだろう?」 「貴方はあいつらに犯されたんですよ。貴方を辱めた」 「お願いだよ」 「まさか、あいつらを好いている、なんて言わないでしょうね」  悲痛な声を上げる男が、妻の頭を掻き乱す。骨ばった手が、いつ正一の首にかけられてもおかしくなかった。  正一は久野木の言う「好意」を、里中達に持ち合わせてはいなかった。可愛がっていた教え子には無残に犯され、嬲られたのは事実である。  ……喜びに変わったのだと知ったら、この男はどうするのかな。  正一は今すぐにでも、外に飛び出したかった。今度はもっと粗暴な男だと言う荒くれに、犯されたい。手酷く扱われて、孔を男根で塞がれたかった。  男達の精液を浴びる、あの極上に浸りたい。もう里中達が相手をしてくれないなら、他の男でいい――それは久野木でも、男なら誰でも良かった。 「ねぇ、お願い」  そろそろと股を拡げた。巻き付いたシーツの合間から、青白い内腿が覗く。久野木が毎夜しつこく吸いついて、鬱血の痕が残っていた。  正一は快楽を与えてくれた男を、せめて救いたかった。どうせしばらくすれば、年老いた男のことなど忘れてしまうだろう。桑山は……帰国後、闇市をしたたかに生きた男だ。情けなどなくても、彼は生きていける。 「お願いを聞いてくれないなら……野犬に会いに行くよ」  正一の言葉に、夫は眉を跳ね上げた。怒りが湧いたのか――それでも股を拡げた妻には、逆らえなかった。視線は正一の下半身に向けられていた。 「ねぇ、亘」  夫の右手を取り、股に誘導する。滑らかな指先が、潤んだ後孔に触れる。どこか恐れるような、躊躇う手つきだった。 「濡れてる……」 「君がいなくて、寂しかったから――ねぇ、亘、挿れたい?」  小首を傾げると、夫は息を吐いた。衝動を抑えようとする必死な表情が、可笑しい。正一は笑いを噛み殺した。 「早く、早く貴方と一つになりたい……正一さん、お願いだから、焦らさないで」 「じゃあ、僕のお願いをきいて。里中達を助けてやって」 「善処します」  乱暴な左手が、正一の内腿を掴む。肌の感触を確かめようと、手が動き回る。餌を前に、待てを言い付けられた犬は、呼吸が乱れていた。  正一は犬が顔を埋めやすいように、股間を見せつけた。 「……僕はね、ここを埋めてくれる男なら、誰でもいいんだ。でも君が、お願いを聞いてくれるなら、ここにいる――従順な妻になるよ」 「正一さんっ」  我慢できなかった久野木は、正一の股間に顔を埋めた。柔らかいペニスを、夢中になって頬張った。  唾液を溜めて、舌先で裏筋を舐める。夢中になる夫は、憑りつかれたように味わっていた。 「ねぇ……寂しいよ」  正一は天井を見上げながら、夫の頭を撫でた。硬い黒髪を指で梳く。唾液塗れの犬が、顔を上げる。どろりと濁った目をしていた。 「寂しい?」 「うん、寂しいよ……ここが寂しがってる」  指を臀部に這わせる。人差し指と中指を使い、後孔を拡げた。くぱりと開いた孔が、男を誘うように、きゅうきゅうと鳴き声を上げた。  男の咽喉が、ごくりと蠢く。焦っているのか、震えてる手で、ベルトを外し始めた。 「正一さんっ、正一さんっ」 「君が満たして……じゃないと、違う男に会いに行ってしまうかも」 「そんなこと許さない!」  荒々しく両脚を掴んだ久野木が、突進するように男根を突立てた。朝から男を欲しがっていた内壁が、歓喜の鳴き声を上げる。搾り取ろうと、男根に絡み付いた。  正一は背中をしならせ、息を吐いた。 「あぁ……」 「正一さんはっ、酷いっ、酷いっ」  久野木は正一を責めながら、腰を振っていた。桑山もそうだった。どうして男は自分を犯しておきながら、泣きそうな顔になったり、罵倒を始めるのか――正一は皆目、見当がつかない。  自分がここまで堕ちたのは、犯してきた男達のせいだ 「あっ、あぁ」  乱暴に揺すられて、口から喘ぎ声が洩れる。正一は久野木が男根を抜かないよう、脚を腰に絡めた。  快楽だけを与えられ続けて、男なしでは生きられなくなった体。こんな地獄に落としたのは、久野木だ。彼には「夫」としての役目を果たしてもらいたい――正一のささやかな願いだった。  正一の体内で射精した男が、前髪を振り乱していた。 「もっと……亘、もっと」  腰に絡めた脚に力を入れる。中で一度萎んだ男根が、再び硬さを取り戻していた。 「……正一さん」 「なんだい?」 「私がこんな風になったのは、貴方のせいですよ」  圧し掛かる男は、苦悶の表情を浮かべて――諦めたような声だった。  逃げられないのは自分の方だ  正一が久野木に捕まったのだ。逃げようとすれば、それこそ地獄の果てでも追いかけてくるだろう。だから諦めて、ベッドで大人しく、帰りを待っているのに。  丁度、同じようなことを考えていた正一は、小さく笑った。「ふうふ」になったから、思考が似てくるのかもしれない、と。 (完)           
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