蟻の巣

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蟻の巣

   弟の家に一泊した、次の日。まだ外は薄暗い時間に、正一は駅に向かった。昨晩、妻だった女は目も合わせず、子を抱えて奥に引っ込んだままだった。  弟は機嫌を取るように、正一の世話を焼いた。 『良かった。元気そうで』 『ゆっくりして。ここは兄さんの家でもあるんだから』 『便りがなかったものだからね、その……』  子どもの年齢がおかしいとか、それとも出兵して死んだと思ったのか、とか言いたいことは山ほどあった。  喉元まで出かかった言葉を飲み込む。年老いた両親が襖の奥から出てきたが、目を見開き、体を震わせていた。 『おかえり、正一……』  歓迎されていないのは明らかだった。便りが本当に届かなかったのかは、確かめようがない。終戦から一年経って、長男の存在は若槙家から消失したのだと、正一は諦めた。  駅に向かう途中、ちらりと家を振り返れば、縁側に彩子がいた。窓からこちらを見つめる目と合ったが、すぐに顔を背けられた。  せめてと、昔を思い出しながら、東京行きの電車に乗った。 『頼りない男』  それは妻だった女の口癖だった。見合いで結婚して束の間、妻は両親に尽くす、貞淑の鏡だった。 『銀座にある藤屋のケーキが食べたわ』 『氷冷蔵庫が欲しいの』  それが『あれが食べたい』『これが欲しい』と言うようになった。正一は妻の願いを叶えようと――教員は安月給だったため、苦労した。特に氷冷蔵庫など、商売人か、余裕のある家庭しか持てない代物だった。  借金をして氷冷蔵庫を買うと、妻は飛び上がらんばかりに喜んだ。あの時、正一に向けてくれた笑顔が忘れられなかった。  彼女の願いを全て叶えようとした。正一は、妻の言うことをなんでも受け入れた。それからだった。夫婦の営みがなくなり、「お願い」が「当然」になったのは。 「東京駅―、次は東京駅―」  アナウンスが流れ、電車が揺れる。ドアが開くと、一斉に人がホームに出て行った。早朝に家を出たおかげか、東京に着いたのは昼過ぎだった。  さて、これからどうしようかと、正一は駅を出た。教員に復帰することも考えたが、なんでも、教科書を墨で塗りつぶしているらしい。  自分が出兵前、教えてきたことは何だったのか。  教育現場に疎外感を覚えた正一の足取りは重かった。家のあった世田谷に行くと、砂と瓦礫が残されていた。  あてもなく、正一は移動した。銀座の入口とも言える、数奇屋橋に近づくと、喧騒が聞こえてきた。  瓦礫と焼けた木材ばかり見ていた正一は、活気に息を呑んだ。歌声がする方向を見れば、募金箱を持った女学生の合唱団。  靴磨きをしようと、端で待ち構える浮浪児達。パシャリと光った瞬間、正一は目を瞑った。おそるおそる目を開けると、年配男性が写真を押し付けてきた。どうやら街頭写真家らしく、料金を求めてくる。揉めたくない正一は、しぶしぶ金を出した。  写真をリュックに突っ込んで、先に進む。銀座の道に広がっていたのは、露店だった。腕時計、宝くじ、青森県産と強調したりんごがごろごろと藁の上に置かれていた。  焦げ付いためざしは一皿六円と、屋台の張り紙が目に入った。寿司、手巻きたばこ、石鹸……砂ぼこりと、何かが焼ける美味しそうな匂いが混じり合っていた。  彩子が行きたいと言っていたデパートはどうなっているのか。  歩き続けると、四丁目の交差点にある福部時計店を通りかかった。空襲で、歩道と道路の境目がなくなった道を歩けば、軽快なジープが走り去っていく。  六丁目の松屋デパートが見えた時、正一はほっと息を吐いた。どうやら空襲を逃れたらしく、経営中の様子だった。  何か買って、実家に送ろう。居場所がなくなったとはいえ、彼らが正一の家族には変わりない。彩子には簪(かんざし)、正二は浴衣、両親や姪には何を送ろう…… 「~~happy coat ~beautiful!」  ぎくりとした。正一がデパートに近づくと、玄関から大柄な男が数人出て行った。上下カーキ色の軍隊服に見せつけるような帽子。GIだった。  正一の何倍もある体格の良い男達は、手に法被や浴衣を持って、興奮していた。正一の存在など、気にもしていないのか、道路で浴衣を広げ始めた。  正一は踵を返した。  松屋デパートには「ARMY EXCHANGE SERVICE TOKYO PX」の文字。米兵相手専門の売店となった松屋デパートは、日本人は立ち入り禁止とされている。  侘しさを解消するため、数奇屋橋に戻っていく。どんどん歩みを進めると、日本橋に行き着いた。  こちらも銀座と同じように、橋の下で商売が行われていた。物乞いをする子どもが、忙しなく大人に纏わりつく。反対に、手足を失った負傷兵が、藁の上で身を縮こまらせていた。  銀座と違い、家なき者が多い場所は、独特の臭気がした。藁の上で眠る兵士の、包帯を巻かれた足を見た。  黄ばんだ包帯は、鮮血というよりも、どす黒くなっていた。どこの部隊だろう。正一は近くに置かれたカンカンに、小銭を入れた。  電車を使い、正一は東京の景色を見て回った。浮浪児のたまり場になった上野、ハイカラな服を着た娼婦の縄張りになっている有楽町……結局、正一が行き着いたのは、隅田川沿い、言問橋付近を領域とした「蟻の町」だった。  あてもなく彷徨っていたら、同じ復員服を着た男に声をかけられたのだった。バタ屋(屑拾い)をやっている男はフィリピン帰りだと言い、正一に住まいを紹介した。  あばら家とバラック建ての小屋が並んだ蟻の町。その灰色の一角に、正一は住み着いた。バラック小屋なので、厠、浴場は全て共有。礼拝堂などもあり、共有施設は全て、掃除などが順番に割り振られた。  そこで正一の、バタ屋としての生活が始まった。一日かけて都内を歩き回り、蟻の町に帰る。そこで統括するリーダーに、一日の成果を提出する。折れた木材に、鉄くずを拾い集めて、一日の手間賃は三十五円。  月に一度、復員兵への給付金を含めて、贅沢をしなければ、生活ができるようになっていた。そんな日々を送る中、正一の楽しみは酒を飲むこと。  手間賃を貰い、夜は闇市の酒場でカストリ酒を飲む。生きがいだった。新聞に死人が出ただと騒がれるのも無理はないほど、治安の悪い臭いがする酒。  半分、このまま死んでもいいかなと――酩酊できるのが救いだった。飲み続けていると、酒で涙腺が緩む。  感傷的になると思い出すのは、教え子のことばかりだった。出兵前、「先生」と慕ってくれた久野木を手酷く振ってしまった。  恐怖を感じたのは事実だったが、彼は本気で、助けようとしたのかもしれない。正一の胸に残るのは後悔だった。 『先生……』  熱っぽい目で、久野木が後拾遺和歌集を見せてきた。藤原実方の和歌だった。  かくとだに えやは伊吹のさしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを 『こんなにも貴方を想っているのに、打ち明けることができない』  久野木は正一の方を見ながら、現代語に訳した。そっと手を握られたが、正一も知らぬ振りをして、手を引っ込めた。  ……受け入れたら良かったのかもしれない。  正一が出兵して数年後、戦局はますます悪化した。出兵の年齢が十七歳に引き下げられたことを知り、久野木の身を案じた。  歳を考えれば、出兵していてもおかしくない。名家であるため、出兵は免れたと思いたいが、正一には所在が分からないのだ。  生きて、どこかで幸せになっていて欲しい。そう願わずにはいられなかった。胸に巣くう後悔を軽くしようと、正一はカストリ酒を煽った。  ……  鉄くずを集めようと、有楽町を歩いていた時だった。「プリーズ!」と周囲に響き渡る声に、何事かと振り向いた。  視線の先には、カーキ色の軍服を着た米兵――の腕を引っ張る女がいた。正一は、彼女の派手な装いに、目が釘付けになった。 「ね、プリーズ!プリーズ、ユー、オンリーッ!」  毒々しいまでに赤い口紅。しっかりカールした髪が、肩パットの辺りで揺れる。白を基調としたワンピースは膝小僧が見えていた。  口紅と同じ色をしたネッカチーフに、テロンとした薄いバッグを肩にかけている姿は、ハイカラだった。藍色の重たいモンペを履いた周囲とは、一線を画す女。  正一はすぐに彼女の職業を理解したが、胸の高鳴りは収まらなかった。 「NO!」  腕を振り解いて、米兵はどこかに行ってしまった。彼女は米兵の背中に「クソッたれ!」と悪態をつくと、小石を蹴った。  ぼんやりと見つめていたら、彼女が振り向いた。ばちりと目が合う。気まずいと思ったのは正一だけで、彼女はいたずらっぽく舌を出した。 「見られちゃった」 「……すいません」  頭を下げると、彼女が正一に近づいた。たれ目に口が大きい美人だった。口角の上がった唇が開いた。 「あんた、なにしてんの?」 「は、い……あの、屑拾いを」 「あ~、分かった!バタ屋さんね」  先ほどまでの悪態はどこへやら。にこにこと上機嫌な彼女は「ねぇ、飲みに行かない?」と言った。 「もう今日は店仕舞い!」 「あ、え……はぃ」  彼女はごく自然な動作で、正一の腕を組んだ。上等な布越しでも分かる、豊かな胸を押し付けられ、正一は赤面した。  名前を聞くと、ベスと言った。本名は文子だと言うが、ダサいからベス。正一はまごつきながら、承諾した。  仕事を終えると、速足で新橋駅に向かった。待ち合わせ場所にいたベスと腕を組んで、馴染みの酒場に入った。  ベスは両親を空襲で亡くし、病弱な弟と二人暮らしだと言う。正一も経歴を明かすと「可哀想」と同情してくれた。  もし誘われたらと金を大目に持ってきていたが、酒場で別れた。だが、その次の日も偶然、ベスに会った。自然と仕事の帰り、酒を飲む仲になった。  ベスはおしゃべりで快活。正一の面白くない話も、手を叩いて笑ってくれた。彼女の明朗さに、正一が好意を抱くのも当然だった。  男女の関係にはならなかったが、必ず一緒に酒を飲んでくれる。最初は期待していた正一も、それで十分だった。  だから……正一がベスに金を渡すようになったのは、当然の成り行きだったのかもしれない。 「弟のね、治療費が足りないのよ」  酒を飲んでいると、彼女が弱々しい声を出した。自分の稼ぎでは到底、払える額ではない。目尻から涙が零れ落ちた。正一は病弱だった弟を思い出して、胸が痛んだ。すぐに治療費として、給付金を渡した。  給付金は月に一回なので、次の日は微々たる貯金を崩して、金を渡した。いつも明るい彼女が、涙を流して喜んでくれた。  その内、弟を学校に行かせたいと、ベスが言った。今度は学費として、金を渡した。姉弟二人きりで、弟が働けない。生活が苦しいというベスに、また正一は金を渡した。  治療費は学費になり、また生活費になると、今度は親戚の子どもの養育代と、良く考えれば、不可解な金が要ると懇願するベス。  疑う気持ちがあれば良かったが、惚れこんでいた正一は、言われるがまま、金を渡した。貯金も尽きてきた頃、ベスの態度がぞんざいなものになった。  最初、少額でも涙を流して喜んでいたのに。給付金以外の日は「これだけ?」と文句を言うようになり、一緒に酒を飲んでいたのも、まばらになった。  夕方、彼女が姿を見せないことに、正一の頭は不安で占められていた。  好いた女には、何でもしてやりたい。  妻の時もそうだった。可愛らしいお願いや我儘はいつしか当然になり、正一が難色を示すと、口も聞いてくれなくなる。  相手の全てを受け入れようとする己の悪癖が出ていることに気が付かず、頭を抱えた。 「お客さん、お客さん」 「……どうしました?」  顔なじみになった酒場の亭主が、カストリ酒を出した。 「お客さんが連れてくるの、あれは女狐だよ」  眉間に皺を寄せた亭主の忠告に、酒に伸ばした手が止まる。女狐?違う。亭主は彼女の服装から、偏見を持っているのだ。  涙を流して、体の弱い弟の未来を心配するベス。明るい彼女に、影が差していた。 「……なんの話かな」  忠告を無視して、カストリ酒を胃に流し込んだ。彼女に少ない金しか渡せない自分が、情けない。  もっと、もっと金がいる。  もっと金を稼いだら、彼女の笑顔が戻ってくるはずだ。正一は、喉を焼き尽くすような酒に溺れた。 「いらっしゃい」 「よう大将、繁盛してるか?」  誰かが暖簾をくぐって入ってきた。聞き覚えのある声――正一が振り向くより先に「若槙か?」と名前を呼ばれる。  声の主はかつての同僚、桑山だった。
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