元同僚

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元同僚

「へぇ~、こんなところで奇遇だなぁ。お前、どこに行ってた」 「サイパンだよ。君は?」 「俺は台湾だよ」  五年ぶりに再会した同僚の――風貌の変化に、正一はあんぐりと口を開けた。渋い色のコットンジャケットに、ゆったりとしたズボン。ベルトはもしや革製か?  同性のほとんどが暗い色の国民服か、復員服を着た中で、垢抜けたファッションだった。  桑山(くわやま)(すすむ)。職員室の隣に机があった数学教師は、昔と変わらぬ笑みを浮かべた。にっと歯を見せる笑顔に、正一は肩の力を抜いた。 「ま、じゃあ再会を祝って飲もうぜ」  どっかりと横に腰を降ろした同僚は気さくな様子だった。ふわりと甘やかな匂いがして、正一はたじろいだ。もしかして香水まで付けている?  だが服装は変わっているが、昔と変わらない。教え方が上手くて、生徒たちに好かれていた桑山を思い出した。 「あー……どうしてた?」  探りを入れるつもりはなかった。ただ、服装から見て、桑山は堅気ではない。物資が不足し、浮浪児がうろつく世の中だ。洋風な恰好をしている女は娼婦、男はやくざだという風潮があった。 「ははぁ、気になるか」  正一の内心を見透かすように、桑山が口角を持ち上げた。鷲鼻に切れ長の目は、どこぞの歌舞伎俳優に似ている。再会した美男子に、正一の顔は引き攣った。 「まぁ……」 「大将、ビール!二本!コップも二つよろしく」  驚いたことに、桑山はビール瓶を頼んだ。闇市で高額に取引されているビールは、日本人がほとんど飲めない代物だった。  一本二百円もするビール瓶を、亭主が出してきた。 「え……」 「なんだよ~、金は気にすんな!俺の奢りだよ。飲め、飲め!」  コップに注がれたのは、黄金色の液体。久しぶりに見た上等な酒に、正一は生唾を飲み込んだ。  そろそろと口に付けると、麦の芳醇な香りが口いっぱいに広がった。脳が活性化するようで、正一は夢中で飲んだ。 「いい飲みっぷりだな」 「あ……すまない」  コップが空になると、すかさず桑山がビールを注いだ。そうだった。同僚は小さなことに良く気が付く男だった。職員室でも、植物の水やりなど、誰も気が付かない雑事を率先して行っていた。  細やかな気配りは生徒にも発揮され、彼を慕う学生は多かった。 「気にすんな」  ばしばしと背中を叩かれて、彼が腕時計をはめていることに気が付いた。革製のベルトに、靴は光沢のあるエナメル靴。  闇市で一足、四十五円の下駄が買えない正一は、驚愕した。気安くビールを奢り、服装から金の匂いがプンプンする同僚。  酒も進み、サイパンのジャングルで食べたトカゲの話だ、学校はどうなっただ、話が盛り上がった。  同僚の口ぶりから、どうやら米兵といった外国人相手に、女を斡旋する女衒をやっているようだった。金の出どころを知り、正一は衝撃を受けた。  桑山は教員時代、学生と運動場で戯れていた。昼休み、ボールやバットを抱えた学生が『桑山先生』と誘いに来ていたのを覚えている。 『しょうがねぇな~、ちょっとだけだぞ』  そう言って、生徒の頭をくしゃくしゃに撫でていた桑山。陽気で教育熱心だった男と、売春業がどうしても結び付かなかった。 「引揚で戻ったら、親もカミさんも皆、空襲で死んでんだよ。出兵した俺が生き残って、不思議だよなぁ」 「それは……随分、辛かったね」 「ま、一人で生きてくのに必死だったわけよ……だからなんでもやった」  ぼそりと付け加えられた言葉に、正一は閉口した。隣でビールを飲む男は口元を拭うと「悪いな」と言った。 「湿っぽい話をしちまった」 「そんなことないよ……」 「お前は?引揚から何してんだ」  簡単に話をすると、桑山が同情したのか「ひでぇなぁ」と言った。二本目、三本目のビールを飲んだ頃には、ベスの話までしていた。 「屑拾いじゃあ、なかなかまとまった金が渡せなくて……彼女は本当に苦労しているんだ。どうにかして、助けになりたいんだが……」 「ふぅん……じゃ、仕事、紹介してやろうか?」 「……それは」  聞くと、娼婦を客の元に送り届ける仕事だった。さらに聞き込むと、桑山は娼婦を取り仕切る他、高利貸しや闇市の売買人に土地を貸すなど、幅広く商売をやっているようだった。 「金、いるんだろう?女のためにもお前が一肌脱げよ」  手間賃として二百円やるという。破格の待遇に、正一は揺れていた。政府はインフラ対策だと言って、五人家族で一ヶ月、五百円で生活しろとうるさい。こんな世相で、二百円も貰えるのだ。 「惚れた女のために金がいるんだろう?」 「……ああ」 「んじゃあ、決まりだな!ここは俺が払うから」  椅子から立ち上がると、桑山は革の財布を取り出した。ちらりと見たら、百円紙幣でぱんぱんになっていた。  ……  翌日、呼び出されたのは桑山が住む長屋だった。バラック小屋に慣れていた正一は、またしても衝撃を受けた。広々とした畳に、風呂、ラジオ、井戸まである。東京のど真ん中、空襲を逃れた長屋は、三世帯分はあり、全て桑山の所有だと言う。 「これから遊びに来てくれよ」  肩を叩かれて、曖昧に笑った。昨日今日の二日間、服装から住まいまで、嫌と言うほど格差を見せつけられた。正一の心には、小さな劣等感が生まれていた。  そして仕事場だと、有楽町の娼館を案内された。きゅっと腰を絞め、ヒールを履いた娼婦を、指定されたホテルにスクーターで送り届ける。正一は仕事道具として、スクーターをもらった。  三人送り届けたところで、桑山が声をかけてきた。 「初日だからな、今日はもう帰っていいぞ」  事務所で渡されたのは、ゴムで括った百円紙幣の束だった。数えると十枚ある。千円……聞いていた額よりも、予想以上に大きい手間賃に、目を見開いた。 「どうして、こんな……」  タバコを咥えた桑山が、肩に腕を回した。 「昔のよしみだろ?……運良く生きて帰ってこれたんだ、仲良くしていこーぜ」  日陰の仕事でも、歯を見せて笑う様子は、昔と変わらない。同僚とは、雑談をする程度の仲だったが、ここまで気遣ってくれるのだ。胸が熱くなった正一は、頭を下げた。  これで楽させてやれる――久しぶりにあったベスに金を渡すと、彼女は歓声を上げた。 「どうしたの?!こんなに?」  仕事を始めたこと。恩着せがましくならないように、弟のことを慮っていると話した。破顔した彼女が、抱きついてきた。 「大好きよ、ダーリン!アイラブユー!!」  真っ赤な口紅が塗られた唇が、頬に当たる。リップ音に、ふわりと香る、甘ったるい匂い。心臓がはち切れそうなっていた。 「そんな、ダーリンだなん、てっ……」  そっと彼女の背中に腕を回そうとした。ふわりと避けられ、ごまかすように、ヘラヘラ笑った。  桑山の下で仕事を初めると、徐々に賃金が吊り上がっていった。千円から千二百円、夜遅くなると「悪いな」と詫びのように二千円を渡された。  前回貰った手間賃から下がることはない。いくら同僚だったとはいえ、ここまで良くして貰っていいのか。不安を覚えながら、桑山に聞いた。 「いーんだよ、いーんだよ」  豪快に笑う桑山は、タバコを差し出した。元同僚ではあるが、今は雇い主だ。正一は受け取り、口に咥えた。先端に、火のついた桑山のタバコを押し付けられる。  腕を取られて、ほんの数秒。至近距離から見つめられ、緊張が走った。仕事を始めると同時に、馴れ馴れしい程の接触が増えた。  気を許してくれたのだと、正一は深く考えなかった。 「それより、あいつらどうよ」 「あ……良い子達だよ。飲み込みも早い」  あいつらとは、桑山の若い部下達だった。娼館や長屋に出入りすると、自然と会話をすることが多くなった。 「お前のおかげで助かったよ。尋常小学校も出てるか怪しいんだ」 「頭はいいよ」 「そうか、それなら――」  事務所のドアをノックする音。桑山が「入れ~」と声をかけると、丁度、話題にしている人物だった。 「あ、先生もいる~」  嬉々としながら、正一に抱きついたのは里中(さとなか)だった。歳は今年で十七。上背のある、二十も年下の若者に抱きしめられて、体がよろついた。 「おい、タバコあんだぞ、気を付けろ」 「すいません」  里中は桑山の注意を聞き流すと、鼻先を正一のうなじに押し当てた。ふんふんと匂いを嗅ぐ仕草は、大型犬のようだった。 「せんせぇ、俺、今日の授業楽しみ」 「予習したか?」 「もちろん!」  里中は屈託の無い笑みを浮かべると、正一の腕を引っ張った。 「もう始めようよ」 「あー……」  桑山に、お伺いを立てるように視線を合わせる。苦笑した元同僚は「いいぞ」と許可を出した。 「おい、あんまり若槙先生にしつこくすんじゃねーぞ」 「はーい」  元気よく里中が返事をする。灰皿にタバコを押し付けて、事務所を出た。里中と移動したのは、普段は使われていない部屋だった。  入ると「先生!」「お疲れ様です!」と次々と声をかけられる。部屋にいたのは若い男六人。全員が、桑山の部下だった。 「今日は、えー、竹取物語をやるから」  みんな闇市で横流しされた教科書とノートを開く。正一は、桑山が買ってきた黒板に、授業内容を書きだしていった。 「今日は古文の現代語訳と文法を教えます」  正一の授業を真剣に聞く様子は、年相応の若者だった。彼らは全員、桑山が上野で拾った浮浪児達だった。歳はだいたい、十五から十七。  生い立ちを聞くと、戦争孤児以前に、貧困家庭の出身が多かった。小学校も禄に通っておらず、最低限の読み書きができる程度。桑山に声をかけられる前は、物乞いか盗みで生計を立てていたと言う。  桑山に「勉強をおしえてやってくれ」と頼んできたのは、仕事を初めて一ヶ月たった頃だった。内容は中等部までの国語、数学、そして基本的な読み書きやそろばんだった。  正一は最初、快諾できなかった。彼らは娼館で用心棒のような仕事の他、危ない――桑山は、闇市で出店する店主と土地代などで揉めると、報復措置を取る。今は授業を熱心に聞く若者をけしかけ、集団で暴行するのだ。  時おり路地裏で、男の泣き声、女の悲鳴なども耳にしていた。どうやら桑山は、若い衆を暴力装置にしているらしかった。  桑山と同じ上等な綿のシャツを着た彼らから、粗野で荒々しい雰囲気があった。正一が嫌がると、桑山は手間賃をさらに増やした。  これ以上、断ることはできなかった。  授業など、まともに聞いてくれるのか。意を決して、若者を集めると、意外なまでに皆、大人しく話に耳を傾けてくれた。  全員、学習の程度はバラバラで、中には平仮名すら読めない子もいた。正一が根気強く教えたおかげか、今は全員、同じ授業を受けられるようになった。 「~~で、この児、養ふほどに、の品詞分解をすると~今日はここまで。宿題はここのかぐや姫が成長する過程の現代語訳をやってきなさい。何か質問がある人―?」  すぐに里中が手を上げた。にこにこと笑顔を見せる若者は、早速、教科書を持ってきた。 「先生、ここ分かんない」  里中は最初、読み書きができなかった。個人的に教えるうちに、地頭が良かったのか――今は教え子の中で一番、優秀な生徒になっていた。  正一は嗜めた。 「里中、君なら分かってるだろ?」 「へへ」  里中が後頭部を掻いた。目鼻立ちの整った顔に、こざっぱりとした服装は、今どきの若者だった。  ただ正一に話しかける口実が欲しかった里中は、教師に抱きついた。 「先生、もっと授業して」 「……あんまり遅くなるといけないから」 「え~、だって前は教えてくれたじゃん」  膨れっ面の生徒を宥めるように、頭を撫でた。自分より身長は高くても、幼い一面がある生徒を、正一は愛おしく思った。  ……自分に子どもがいたら、こんな風に甘えてくれたのかな。  里中は正一の手を取ると、手の甲に口づけをした。じゃれつくように指を甘噛みされて「こら」と注意をする。子どもというより、やっぱり犬に近い。  嗜めてもやめない里中に「おい」と野太い声が飛んできた。授業を教える一人、鹿俣(かのまた)だった。 「先生に失礼だろう……すいません、若槙先生」  彼の三白眼で睨まれたら、見知らぬ他人なら逃げだすだろう。歳は十六だと聞いたが、大人びた風格は、道を歩けば、人が避ける。  顔は整っているのに、優男風の里中とは正反対。滅多に笑わず、表情に乏しい生徒だった。 「大丈夫だよ、鹿俣……分からないところはない?」  聞くと、おずおずと教科書を出される。朴訥な雰囲気のある青年は、正一の話に相槌を打った。 「ありがとうございます。先生」  礼儀正しく頭を下げられ、思わず頭を撫で回した。全員、なるべく平等に扱うことを正一は心がけていた。感情が見えない生徒の首筋が、朱色に染まった。 「あ~、ずるいなぁ。鹿俣だって分かってんだろ?」  背中に抱きついていた里中が、挑発するように言った。顔を上げた鹿俣が、剣呑な眼差しを向ける。  小競り合いの絶えない生徒二人を宥めていると、「先生」と話しかけられた。よく建物の用心棒を担当する鈴見(すずみ)だった。  歳は十七。目元の泣き黒子が何とも言えない雰囲気を醸し出した青年だった。 「送ります」 「ああ、すまない」 「あ~、俺も!俺も先生の家まで送る!」  穏やかそうな鈴見は、鹿俣と違い、里中を邪険にしなかった。仲裁役になりがちな生徒と、里中、そして後ろから無言の鹿俣が付いて行く。  授業がある日は当然のように、この三人で送り迎えをされるようになった。大袈裟だと言ったが、鈴見は桑山に頼まれたと言い、他の二人は――特に里中は正一にくっついて離れない。意地になっているのか、鹿俣まで付いて来るのをやめなかった。  三人で帰る途中、闇市に寄った。いつも送り迎えをする三人に、本を買ってやった。里中ははしゃいで抱きつき、鹿俣は耳を赤くしていた。鈴見は恐縮したように、何度も頭を下げた。 「他の子には内緒だぞ」  口止めをすると、三人は顔を寄せ合い、意味あり気に頷いた。教員に戻るつもりはなかったが「先生」と呼ばれたら懐かしくなる。  くすぐったさを覚えながら、バラック小屋についた。 「ダーリン!」  酒場でしか会ってくれなかったベスが、最近は家で待ってくれるようになっていた。 「あ、ああ、ベス」  無言で見つめられ、さっとポケットから財布を取り出した。雑談でもすると、ベスの機嫌が悪くなる。でもすぐに金を渡したら、彼女の機嫌は保たれる。  いつものように金を渡したが、ベスは無言だった。 「あ……あの、実は帰りがけ」  三人に本を買って、いつもより渡す金が少なくなっていた。彼女の眉が、ぴくぴくと動くのを、正一は見逃さなかった。 「申し訳ない。申し訳ない。良い子達でね、たまにはと思って……」  必死に弁解したが、ベスの機嫌は直らなかった。睨みつけるように目を眇められて、正一は混乱した。 「……弟、大変なのよ」 「も、申し訳ない、申し訳ない。本当に申し訳なかった。すまない、明日には――」 「しっかりしてよね」  舌打ちをされて、正一はへこへこ頭を下げていた。
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