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囲い者
正一と久野木を乗せた車は銀座を抜け、品川にある久野木家に到着した。空襲を免れた洋館は厳かな雰囲気があり、正一は気後れしていた。
「さ、先生、こちらです」
先に車を降りた久野木が、恭しく手を差し出した。婦人を扱うような態度だった。
「あ、大丈夫……だから」
断ると、久野木は柳眉を歪めた。
「駄目ですよ。先生は大変な目に逢われたのですから」
手を取られ、腰を抱かれる。気遣うようにゆっくりと歩かれて、正一はますます居心地が悪くなった。
「先生、お怪我はございませんか」
「大丈夫だよ」
「お体が優れないとか、お腹の調子が悪いとかありませんか?」
「……大丈夫」
隣を歩く男は、正一の体を撫で回した。検診するように、真剣な目で、年上の男の体を確認する。車内で感じた、あの恐ろしいまでの激情は見えない。本気で心配しているようだった。
「どうぞこちらです」
久野木に案内されたのは、洋館から離れた、一軒家だった。母屋と中渡の廊下でつながった、離れのような場所だった。
先に足を踏み入れた久野木が、照明ランプを点ける。広々とした室内は、机にベッド、冷蔵庫といった家電製品、そして大きな本棚があった。
「先生のお部屋です」
居間、風呂場、手洗い場を説明する久野木は、嬉々としていた。落ち着こうとしても、興奮が抑えきれないらしい。
こちらがお風呂です。服はあの箪笥にございますから、足りないようでしたお申し付け下さい。お腹空いておりません?夜食を作りましょうか……喋り続ける教え子に、うんとか、まぁとか、正一は適当に返事をした。
ふと、壁の本棚が気になった。
「……ここは元々、何の部屋だったんだい?」
「先代が作らせました、趣味の部屋です。掃除だけして、だいぶ使われておりませんでしたが……」
棚にぎっしりと入ったハードカバーは、源氏物語や古今和歌集といった、古典が揃えられていた。昔、久野木に渡された大量の和歌を思い出し、冷や汗が出た。
「先代のお方も、その……和歌がお好きだったのかな」
「……ええ、まぁ」
言葉少なく答えた教え子が、背中から腕を回す。綿のシャツを捲られて、ぎょっとした。
「なっ、なにを」
「はい?お召し替えをと……」
首を傾げた久野木が、当然のようにボタンに手を伸ばす。正一は慌てて、距離を取った。
「先生、着替えましょう。その服、なんだか嫌な臭いがします」
「じ、自分でやるから、君の手を煩わせるのは、ね」
「先生」
後ろから抱き込まれて、男の手がベルトにかけられた。温かい吐息を耳朶に感じて、正一の心臓がうるさくなった。
「だ、大丈夫だから、久野木っ」
「先生、先生は僕の恩師です……どうぞ、お世話をさせて下さい」
弱々しい声に、そっと教え子の顔を窺う。泣き腫らした目から、また涙を零していた。
「あの……」
「――駄目ですか?」
買われた立場で、こうも下手に出られたら、堪らない。正一は諦めて「頼む」と言った。
「はい!ありがとうございます!」
涙目だった男は一転して、華やかな笑顔になった。嬉々とした様子で、ベルトを外し始めた。箪笥に手を伸ばし、服を取り出す。
アイロンがかけられたシャツに、折り目の付いたズボンだった。
「ちょ、ちょっと」
久野木は正一の体を反転させると、跪いた。躊躇いもなく、履いていたズボンを下げられる。正一は内腿の――全身にまで及んだ、情欲の痕を見られたく無かった。
隠そうと、内腿を摺り寄せていると「先生?」と不思議そうに、久野木が首を傾げていた。
「……憚りですか?」
「……いや、ちがう……」
久野木はしつこく吸われたり、噛んだりされた鬱血の痕など、気にも止めていないようだった。安堵した正一は、教え子に身を任せた。
「どうして……あそこに?」
「交流の場で、断れなかったのです。気乗りはしなかったのですが……先生に会えた」
はっとした。教え子は目を輝かせて、正一を見上げていた。
「戦争が終わって一年、もう、お会いできないと諦めておりました」
「……久野木」
「こんな僥倖、ありましょうか」
「久野木……僕も、だよ。君が生きていてくれて……良かった」
暗く、不穏な記憶の中で、教え子は輝いていた。心の片隅で苦手意識を持ち、彼の好意を拒んでしまったが――それでも可愛い教え子の一人だった。
跪いた男は、号泣していた。人身売買の競売に、かつての教師が出品されていたのだ。教え子は、かつて教員だった男の惨めな姿に、傷ついているようだった。
「……すまない、あの金は」
「――気になさらないで下さい。先生とお会いできたのです。お金なんて、どうでもいいです」
久野木が投げ捨てた百万があれば、家がいくら建てられるか。車は、食べ物は……宝くじの一等が百二十万だ。買われるとは、露ほど考えていなかった正一は、頭を下げた。
「先生、謝らないで下さい。今まで大変だったでしょう?今日はゆっくりお休みください」
教え子は労わるように、肩に手を掛けた。穏やかな声音とは裏腹に、目だけ忙しなく動き回る。正一の肌を炙るような視線に、落ち着かなかった。
……
家に連れて来られて一ヶ月。屋敷での生活に、正一は順応していった。用意された部屋には正一の数少ない私物――これまでの経緯を聞いた久野木が、バラック小屋に使いを走らせた。外地から戻ってきた正一の、リュックに収まる程度の荷物を持ってきてくれた。
中身を確認すると、いつか撮られた、写真が無くなっていた、だがたった紙切れ一枚。引揚証明書などがちゃんと入っていたため、正一は写真をすぐに忘れた。
静かな場所で、時間だけが流れていく。
離れには、母屋に住む女中や召使は、ほとんどやってこなかった。代わりに久野木自らが、正一の世話をした。
仕事帰りの久野木は、シャツを捲り上げて、服から食事、風呂の準備をする。
いくら正一が自分でやると言っても、教え子は頑なだった。何度も「先生にはお世話になった」「恩師」だと、口ずさむ。
久野木の視線に怯えていた正一も、だんだんと気を許していった。
「先生、一杯、どうです?」
門が開く音がして、車のエンジン音が聞こえた。すぐにバタバタと駆け寄る足音がして、正一はドアを開けた。
迎え入れた若い男は夕飯もそこそこに、ウィスキーを持ってきた。
「飲みましょう」
テラス席に置かれたテーブルに、二人で腰かけた。夏も終わり、もうじき秋を迎える季節は、夜風が涼しかった。
冷蔵庫から氷を出して、酒をグラスに注いだ。ちまちまと飲みながら、久野木が仕事の話をする。正一はほとんど意味が分からなかったが、静かに相槌を打った。
彼は高等科を卒業すると、本来であれば出兵するはずだった。それが徴兵検査で、戊種と診断された。
正一よりも身長は二十センチ程高く、上背もある逞しい体で、戊種はあり得ない。父が手を回したのです、とさらりと言った。
大学に通いながら、親の雇った家庭教師に経済学を学んだ彼は、造船事業を任されているらしい。財閥解体など、どこ吹く風。国の奥深く根を張った家は、力を蓄えていた。
しぶといでしょうと、笑い声を上げる教え子に、引き攣った笑みを返した。
「兄はアメリカに留学しておりまして、妹は今、女学校に通っております。母屋におりますから、そろそろ挨拶に参らせます」
「……お気遣いなく」
「いいえ、先生は私の大切な人ですから」
久野木は何かに付けて「大切な人」「恩師」と言う。確かに戦前、高等科の担任であったが、それも一年間だけだった。
豪邸に住まわされ、馴染んでいくうちに、正一の疑問は膨れ上がっていた。いくら担任だったとはいえ、ここまでするだろうか。
若くもない、ただの復員兵である。大金を払って、働かせず、屋敷に住まわせる。正一は離れで読書や水やりをして、毎日を過ごしていた。
「……久野木」
「どうされました?」
「あの、実はだね」
働こうかと思う――世話になっている上、仕事もせずに日々を過ごしているのだ。これでは、穀潰しである。
そろそろと言葉を選びながら、働きたいと口にした。久野木はコップを置くと「仕事?!」と、驚いたような声を出した。
「どうしてですか?……あぁ、もしや何か足りないものが?」
「いや、そうじゃなくてだね」
「でしたら、どうして?何か欲しいものがございましたら、言い付けて下さい。仕事の帰りに買ってきますから」
「……どうしてそこまで?」
担任だったからと、ここまで世話を焼きたがるのか。正一は、教室で迫られた、あの日の放課後が、忘れられなかった。
まさかとは思うが、いまだに好意を……?
あり得ないと、正一は想像を打ち消した。男子しかいない学校を卒業して、親に会社まで任せられている身分だ。
学生時代でも、女学生に熱を上げられていた。今なら見合いが……結婚していてもおかしくないのだ。
周囲を見下すような、あの冷めた目をした学生はいなかった。深みの増した美貌に、笑えば、子犬のような愛らしさを見せる。
完璧だ――綻びがなくなった男は、紳士な身なりも相まって、魅力的な雄になっていた。
「――私はもう、子どもではないんです」
久野木は一口、ウィスキーを飲んだ。かたりと、テーブルにコップを置くと、微笑んだ。
「先生には昔、随分、幼稚な感情をぶつけてしまいました」
「……」
「本当に……先生の言う通りでした。学校を出たら、視野が広くなって……勉強になりました」
「そう、かい……」
「ええ」
久野木は昔を思い出しているのか、グラスに視線を落としていた。
「先生をお慕いしているのに変わりはありません。でもそれは、先生を教師として、尊敬しております」
「……ありがとう」
「私は先生が生きて下さっていただけで、十分なのです……だから、ここに居て欲しいと言うのは、おかしいですか」
ちらりと久野木が顔を上げる。懇願するように、まつ毛を震わせる姿は、どこぞの映画スターにも劣るまい。
「そう言ってくれるのは、ありがたいよ……」
買った身分である久野木は、本来であれば、正一を好きなように扱える。それが常に、泣きそうな顔でお願いをしてくるのだ。
下手に出られたら、強くは言えない。勘違いかと、正一は不安を打ち消した。
「欲しい物がありましたら、私に言って下さい」
「……うん」
正一は頷いて――氷の浮いたコップを持つ骨ばった手に、目が吸い寄せられた。
「本ですか?車?そういえば先生は時計をお持ちではないですね。今度、一緒に浅草に行きましょう」
「……」
シャツの肘の辺りまで捲った腕は、血管が浮いていた。切り揃えられた、桜貝のような爪に、長い指。
ずくりと、正一の下半身が疼いた。
「――で、浅草にあんみつ屋がありまして、美味しいんですよ……先生?」
太い、長い……あれで中を掻き回されたら、どうしようか。
「……あ、すまない」
昔のように、先生と呼ばれて、はっとした。正気に返った正一は、顔を赤くした。教え子を不埒な目で見ている自分が、信じられなかった。
彼の好意を恐れる癖に、肉欲は感じている。
不純だ。正一は内心、己を叱咤した。
「酔われましたね、先生」
「いや、大丈夫、悪いね」
「いいえ、大丈夫ではありません」
このような時だけ、久野木は強い口調になる。正一が欲情した手を、額に押し当てた。
「顔が真っ赤ですよ」
「……あの、手を離してくれ」
「駄目です」
ごつごつとした手が、額から頬に、そして首筋を撫でる。触れるだけの優しい手つきに、正一は体を震わせた。
この指で、めちゃくちゃにされたい
「もう、寝るよ。久野木、それじゃあ――」
「分かりました」
解放される。ほっとしたのも束の間、久野木は立ちあがると、正一の膝に腕を回した。ふわりと宙に浮く感覚がして、慌てて若い男の首を掴んだ。
「く、久野木、あ、歩ける、からっ!」
「酔って転んだら、どうされますか……掴まって」
しっかりとした足取りで、年下の男が部屋に入っていく。そっと壊れ物のように、ベッドに横たえられた。
「先生、ご気分は?」
温かい手が、額におかれる。正一は気が気ではなかった。硬い骨の感触に、滑らかな皮膚。若い男特有の、瑞々しい草木の香りがして、下半身に熱が集まっていた。
もう一ヶ月、抱かれていない。
若い男に弄ばれた体は、皮膚が触れ合っただけで、反応するようになっていた。褥で、汗ばんだ足を絡めた、あの長屋に帰りたい。
正一は蕩けた目で、年下の男を見つめていた。ゆるく弧を描いた唇が、近くにある。
「おやすみなさい、先生」
熱い手が、前髪を掻き上げた。
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