妖夫

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妖夫

 ぺちゃぺちゃと、猫がミルクを舐めるような音がする。使用人達が寝床に入った久野木邸宅――の離れ、ぼんやりと灯りが洩れるそこから、淫靡な音が聞こえてきた。 「ん、せん、せっ」  天蓋のベッドで、男二人が、睦み合っていた。愛人にのしかかった御曹司は、はだけた胸元を、熱心に吸っていた。 「上手、上手」  乳首を舐める教え子を、正一は褒めた。教え子は褒められると――ますます舌遣いが、上達する。突起を(つつ)き回したり、ちゅくちゅくと甘噛みされて、正一は吐息が出た。  今日も仕事が終わり、なだれ込むように、部屋に入ってきた男と、体を重ねた。正一は肌を重ねて以来、久野木にあれこれと閨で授業をした。  経験がなかった久野木は、水を吸うように、正一の教えを吸収した。ただ咥えるだけだった口淫も、裏筋を熱心に舐めるようになった。挿入も、その巨根で、奥をしつこく突いてくれた。  天蓋を見上げながら、正一は自分好みになった男の頭を撫でた。 「あぁ……」  長屋で男達に嬲られたせいか、正一は乱暴にされるのを好んだ。学校で優秀だった男は、その通り――最初はこわごわと正一に触れるだけだったが、今では教えたとおり、乳首に歯を立てる。  気持ちよさから、挿入された性器を締め付けてしまった。 「先生、気持ちが良いですか?」 「っすごくいいよ、久野木」  覆い被さる男が、不満げに口を尖らせた。 「亘、でしょ」 「あんっ」  今度は乳首をつままれて、突起をこねられる。乱暴にされると喜ぶ体には、なんの罰にもならなかった。 「ごめんっ、ごめんよ、亘」 「せんせぃ」  唇を重ねられ、くちゃくちゃと舌を重ねられる。口腔で舌を絡めると、絡んだ足に力が入る。深くつながった状態で、正一は口づけに溺れた。 「……んぅ、せんせぃ……夢みたいだ、先生とこんな日が来るなんて」  熱っぽい口調で、久野木は正一に口づけを繰り返した。 「ずっと……ずっとこうなりたかった……」  肉欲に溺れた結果、教え子だった男と体を重ねてしまった。年下の男にまたがり、夢中で腰を振るも――昇り詰めた途端、正一は冷静になった。 「せんせぃ……すき」  強い視線を受け、正一はたじろいだ。事が済むと、久野木はベッドで、睦言を囁く。昔のように、和歌を押し付けるといった、遠回しなものではない。体を重ねて、甘い言葉を囁いていた。 「そんなこと言ったって、君……結婚はどうするんだい」  久野木の年を考えて、正一はつい、口を出していた。圧し掛かった男の顔が、険しくなる。 「ですから、私は結婚なんかしません」  一回り以上、年上の男を情人にした御曹司は、つまらなさそうにしていた。 「そうは言ってもね、君は家やら世間体というものが」 「――家は兄が継ぎますから。私は事業の末端に席を置いているので、十分なのです……結婚の何がいいのですか」 「……」 「先生は結婚して幸せでしたか?奥様は貴方を裏切っていたのに?」  ベッドの上で、戸惑った。教え子に、姪の話をした記憶がなかった。 「……話したかい?」 「ええ、いつぞや話をされたじゃありませんか。姪の歳が合わないと」  当然のように頷く様子から――そう言われたら、話をしたかなと、納得した。 「……でも先生は、私のことを裏切っていますよね」  裏切り、とは。意味深な発言に、首を傾げた。 「どういう意味だい」 「昼間、庭師と話をしていたでしょう」 「ああ……」  久野木の発言に――その幼稚さから、脱力した。思わずため息をつくと、覆い被さった男の眦が、つり上がった。  奥深く入った剛直が大きくなり、うめき声を上げていた。  寝てから教え子は、嫉妬深くなった。使用人――特に男と話をするのを嫌がる。昼間、暇な誰かが、久野木に密告しているのだ。  主人に言いつけられているのか、周囲は正一に恭しい態度で、一歩引いている。愛人と話をすれば、主人の機嫌を損ねると思っているのか、誰も近寄ってこない。  その中でも例外は、年配の庭師だった。彼は屋敷に務めて長いのか、正一にも気安く話しかけてくれる。  今日は倅だと、二十代の息子を紹介してくれた。日に焼けた息子は、朗らかな様子で、正一は好感を持った。 「私が日中留守にしている間、浮気ですか」 「違うよ。話をしただけじゃないか」 「ここに誘う段取りを立てていたんですか」 「……亘」  正一は宥めるように、頭を撫でた。長屋でも年下の男達の頭を撫でていた。  今日は俺が一番、あいつが挿入した回数が多かった……若い男は加減を知らないのか、嫉妬と怒りを正一の体にぶつけた。  久野木も相当、嫉妬深い性格をしていた。飄々とそつなく何事もこなす優等生は、正一を睨み付けていた。  頭を撫でる腕を振り払うと、正一の腰を掴んだ。 「あぁ……」  中で膨れていた性器を引き抜かれる。収縮する内壁に亀頭の部分が引っかかり、正一は全身を震わせた。 「せ、せんっ、もっとぉ、ゆっくり、して」 「乱暴にされるの、好きでしょ」  腰を打ち付けられ、正一は口から涎を垂らしていた。褥で教え込んだ男は、正一の従順な犬になっていた。体中を熱心に舐め、奉仕する可愛い忠犬。  それが時おり、嫉妬に荒れ狂うと、厄介だった。手綱が外れた犬は、体中を噛んでは、痕を残した。 「酷い、酷い、先生は酷い」  突き上げながら、久野木は正一を責めた。長屋の布団で、正一を抱き潰す桑山も罵っていたなと、正一は現実逃避をしていた。 「こんな淫らな体でっ、他の男を誘惑するんでしょう!」 「し、しないっ、しない、ぁあっ」  奥深い場所を、固い肉棒に突かれた。雄を食いしめた腹から、くぐもった音が漏れる。正一は目の前に、星が飛ぶような錯覚がした。 「あ、ぁっ、しぇ、しぇんっ、い、いってる、からぁ」 「貴方に誘われて断る男なんて、不能ですよ」  体中に痺れが走る。がくがくと震える両足を、のしかかった男の腰に巻き付けた。  正一がイっている最中でも、久野木は抽挿を止めなかった。昇り詰めて、収縮する内壁を押し上げるように腰を動かす。  太い剛直に貫かれた正一は、ベッドで口をぱくぱくさせていた。 「お、おしょ、と(外)出たいぃ」 「だーめ」  正一を押さえつけるように、怒張を突き上げられる。太いイチモツを咥えた腹は、満腹になっていた。  一度寝てから、貪るように抱き合う日々が続いた。若くもない、特別美しい容姿でもない男にすぐ飽きるだろうと――予想に反して、久野木は正一の体を貪った。 「屋敷の外に出て見なさい、男に食われる」 「ぁあ、かた、い、かたぁい」 「外は恐ろしいところです。先生のような人はね、すぐに獣の餌食になります」  肌を重ねれば重ねるだけ、年下の男は嫉妬と束縛を深めていった。  一人で外出させて貰えない正一は、不満だった。男を与えられた体は幾分か、熱は収まったが、それでも自由にさせて欲しかった。  気晴らしに、一人で電車に乗って散策でもしたいのだ。逃げるつもりなど――あてもないのに、久野木は決して許さなかった。  それどころか、屋敷の使用人とも口を聞くなと言う。  最初は先生、先生と股に顔を埋める男が可愛いと、正一は愛でた。勃起した陰茎を震わせながら――顔に汗を滲ませて、待てができる男をいじらしい、可愛い……それが今では、嫉妬に狂いながら、腰を使うのだ。  酷使された体は、男の支えが無ければ、生きていけなくなっていた。 「先生はね、どこを食べても美味しいから、すぐに獣が寄って来るんです。肉どころか、骨までしゃぶられるかもしれない」  なかで陰茎が、射精したのがわかった。熱い子種を内壁が、搾り取るように蠢く。若い男の精子を吸って、正一の背中は汗で湿っていた。 「だからね、外出する時は必ず私と一緒ですよ――いいですか」  閨で可愛いとさえ思った男は、支配者の顔をのぞかせた。肉棒に貫かれ、頭まで犯された正一は、首を動かした。 「がいしゅつ、しなぃ、ひとりで、しなぃ」 「そう。約束を破ったら……どうしましょう」  教え子だった男は、酷薄そうな唇を舐めた。獲物を見定める目つきだった。 「私の妻になってください」 「…つまぁ……?」 「そう、昼は貞淑、夜は娼夫。私だけの奥さん。約束を破ったら、先生は私の妻になるんですよ」  ずるりと引き抜かれて――また深く挿入された。正一は喜びから背中をしならせた。 「こうやって、褥で私の帰りを待つだけの妻です。私の言う事には何でも聞いて――従順な妻になるんです」 「あぅぅ」 「ね、分かった?先生?父にも妻を紹介しますから」 「あぁんっ」  それは今の立場と何も変わらないじゃないか――正一は使用人が噂しているのを、聞こえないフリをしていた。情人だ、男妾、陰間……愛人として囲われる日々は、バタ屋のその日暮らしと同じくらい、不安定だった。  経験のなかった若い男は、たんに情欲に溺れているだけである。正一以外の男か、女と寝れば、年老いた男など、簡単に捨てるだろう。この離れに久野木が来なくなったら……胸が痛んだ。  正一の上で、美男子が、顔から汗を滴らせる。いつまでこの生活が続くのかと、ベッドでぼんやりとしていた。  ……  相変わらず、一人で外出もできない日々が続いた。毎日、久野木から贈られてくるプレゼントの山を開けるのが日課になった。  古典、洋書、香水、着物……正一は趣味に明け暮れていた。  昼間、ばたばたと足音がして、もう帰って来たのかと、ドアに目をやると――正一は絶句した。五十代半ばの、体格の良い美丈夫だった。  年相応の皺や白髪が目立つが、その整った顔立ちは、久野木そっくりだった。分厚い生地で作られたスーツの胸元には、ネクタイピンが輝いていた。  確か、父親がもうすぐ米国から帰って来るから、紹介するなどと言っていたか。  帰国直後の父親は、正一を見下すように、一瞥した。重々しい雰囲気を醸し出す男と、2人きり。反射的に頭を下げた。 「お茶でも」 「結構。私は忙しくてね、単刀直入に言う。ここから出て行ってくれ」  ああ  正一は内心、反発もなく受け入れた。父親の発言は、意外でもなんでも無かった。久野木の歳や家柄を考えれば、年老いた愛人に、現を抜かしているこの状態が、異常なのだ。  父親は剣呑な眼差しを、正一に向けていた。 「倅が……妖夫にたぶらかされていると聞いて、慌てて帰ってきた」 「申し訳ございません」 「それもかなり年上の男だと聞いてね。妻など卒倒してしまったよ」  正一は居た堪れなくなった。久野木の母親はヨーロッパの別荘にいるらしい。歳は正一とあまり変わらないはずだ。  父親を前にして、正一は自分の立場を恥じた。 「誠に……面目ない……申し訳ございません」  突っ立っているのが、不遜な気がして、床に額を押し付けていた。踵を踏み鳴らすように、久野木の父親は部屋をうろついた。 「倅は、二番目は……上は出来が悪くてね、外国に追いやっているが、あいつには事業を任せている……この意味が分かりましょう」  有無を言わせない低音は、久野木と同じ。父親譲りの――他者を支配する貫禄を、息子は受け継いでいた。 「……はい。誠に申し訳ありません」  正一は頭を下げ続けていた。反論せずにいると、父親はほっとしたように息を吐いた。 「いや、どんな人かと思いましたが、話しの通じる方で安心しました」 「……」 「こちらも身一つで追い出そうとは思っておりません」  そろそろと頭を上げると、父親がテーブルに茶封筒を置いた。手切れ金らしいそれは、分厚かった。 「息子は今日、会食で遅くなります」 「はい……」 「駅までお送り致しますので、運転手に伝えて下さい」 「……お気遣いありがとうございます。ですが、大丈夫です。一人で、出て行きますので……」  ぺこぺこと、額を床に押し付けた。影の総理大臣、などと噂される男への恐怖心よりも、羞恥心で身が震えていた。  屋敷の当主は、正一の無害さに安心したのか、踵を返した。 「そうですか。それでは」 「はい……」  バタンと乱暴にドアが閉められると、正一はのろのろ体を起こした。久野木が帰って来る間に、身の回りを片付けなくては。  部屋中を歩いて、引揚のリュックに物を詰めていった。と言っても、ほとんど久野木が買い揃えたものばかりだ。  最低限、引揚証明書などの書類と着替えを詰めて、部屋を掃除した。  終わりは呆気ない。  彼と顔を合わせる間もなく消えるのは、一抹の寂しさがあった。  だが元は、教員と教え子。それが富豪の情夫となったのが――歪だったのだと、正一は納得した。  久野木も最初は探し出そうとするだろうが、次第に諦めてくれるだろう。  彼は若く、財閥の御曹司だ。家柄につり合った令嬢と結婚し、家庭を設けて……過去の記憶として、時々思い出してくれたらいい。  正一は迷った末、札束の入った茶封筒をリュックに詰めた。先立つものは有った方がいい。  思い出に本を一冊、拝借しようかとも考えたが、やめた。本棚のハードカバーは、先代の持ち物かもしれない。  正一は以前、仕方なく手に取ったハンカチを畳んで、ポケットに仕舞った。思い出として、久野木に買って貰ったハンカチを貰っていくことを決めた。  身の回りを片付けていたら、日が暮れていた。窓から覗いて、薄暗くなり始めた外を確認する。使用人に見られないよう、人目を避けて、裏門に向かった。  いつもだったら警備員が立っているはずが、今日は人の気配がなかった。おそらくだが、久野木の父親が理由を付けて、厄介払いをしたのだろう。  あっさりと屋敷の外に出た正一は、駅に向かって歩いた。普段は、久野木と乗った車から、外の風景を眺めるだけだった。  瓦礫だらけだと思っていた外が、結構、街灯なども整備されている。久野木との別れを惜しむ反面、一人で出歩く自由に、正一は開放感を味わった。  取りあえず、駅に向かおうと決めた。品川から、東京駅まで。確か、あそこの掲示板には、日雇いの仕事なども掲載されているはず。  久野木家の周囲は、同じく空襲を免れた家が建ち並んでいた。静観な住宅街を歩いて行くうちに、後ろから足音が聞こえて来た。  早歩きから、自分を追い越すだろうと、正一は振り向きもせず、脇にどいた――はずだった。 「っっ……」  勢い良く、襟を掴まれた。首根っこを押さえられて、抱き込まれる形になる。首筋に温かい息遣いを感じた。 「せんせぇ、つかまえた」
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