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「星野さーん。もうお昼出ちゃう?」
「すみません土屋先輩、まだ行けそうになくて」
カルテの入力作業が思った以上に進まず、予定の時間をもう20分も過ぎている。
「そ?まだお昼行かないんだったらいいんだけどさ。木村ちゃんが星野さんのこと探してたから」
「私をですか?」
木村先生とは当院のリハビリ医師。先生や患者、院長からの信頼も厚く若手のホープとして活躍中。わたしとあまり歳が変わらないのに……すごいなぁ。
「って噂をすれば……おーい、木村ちゃーん!」
「土屋さん……私もいい歳なのでちゃん付けはやめてくださいとあれほど」
「二十代がなに言ってんの!」
土屋先輩は木村先生の背中を2、3叩いて自分の席に戻っていった。
「男でちゃん付けされるのは恥ずかしいんですよね。星野さんからもなんとか言ってくれませんか?」
「私が言っても変わらないでしょうね。先輩木村先生のこと大好きですから」
「だからってなんでちゃん付けに」
木村先生は黒縁メガネの縁を触った後に軽い咳払いをした。
「すみません、星野さんもお忙しいのに」
「いえ、先生ほどでは。それでどうされました」
「えぇ、実は赤野ツキコちゃんのことなんですけど」
ツキコちゃんの名前が出てきた瞬間、自然と背筋が伸びた。
木村先生はリハビリにおけるツキコちゃんの担当医。そこまで容態が回復したのは最近のことで、木村先生はまだ数回しかツキコちゃんと会っていないはず。
「星野さんに教えてほしいんですけど」
「はい」
「ツキコちゃんってプリキュア好きですかね?」
「はい?」
ずいぶん間抜けな声が出てしまった。だって真面目な顔してプリキュアとか言うんだもん。
「……木村先生プリキュアお好きなんですか?」
「いや、いやいや!私じゃなくてですね、ツキコちゃんがです。私はプリキュアについては一般常識ぐらいしか持ち合わせてませんから」
「一般常識?」
「歴代ヒロインの名前とか、各期の神回とかです」
「……一般常識?」
木村先生はどの界隈を一般と捉えているのだろうか。まぁ、医者はそっちの趣味人が多いって言うもんね。
「いや、聞いているかと思うんですけど、ツキコちゃんリハビリに意欲的でははなくて」
「ああ、はい、伺っています。やりたくないと言っていると。本人も当然痛みが残っていることでしょうし」
悲惨な事故だったと聞いている。
乗用車と運搬トラックの正面衝突事故。運転手だったツキコちゃんのお父様は即死だったらしい。
「もちろん無理強いさせるつもりは全くないです!ですが、このままでは良くないので」
「それはそうですよね」
リハビリの最初で慎重になり過ぎた結果、体を動かす恐怖心が増したなんてのはよく聞く話だ。ましてツキコちゃんのリハビリは数ヶ月で終わるものではないんだから。最初が肝心と言うことだろう。
「リハビリって出来ないことを習得するんじゃないんですよ。出来ていたことをもう一回出来るようにするんです。つまり、どれほど頑張っても『0に戻る』って感覚の人が多くて。だからリハビリって大なり小なり患者さんに負担を強いるんですよね、身体だけじゃなく精神も」
今までなんの支障もなく出来ていた行為が突然出来なくなる。
リハビリを行い思い通りに動かない身体を、しかも痛みを伴いながら、訓練し続けようやく今まで通りになる。……木村先生の言う通り患者さんの精神的負担は計り知れない。
「だからこそですね、リハビリに入る前にツキコちゃんの気を紛らせてあげたいんです。星野さんに教えていただきたいのはその関係で」
「あぁ、ツキコちゃんの好きなものを教えてほしいって話ですか?それでプリキュア」
「プリキュア嫌いな女児なんていないですからね」
それも極論すぎる気がするけど。
「うーん、でもプリキュア……ツキコちゃんはあまり興味がないと思いますよ」
ツキコちゃんの身の回りでその関連のグッズを見た記憶がない。
「そうですか、困ったなぁ……あの、お忙しいのは重々承知なんですけど」
「な、なんでしょう」
「ツキコちゃんの好きなものを調べてもらえないでしょうか?もちろん自分も探ってみるんですけどやっぱり限界があって」
「まぁ木村先生に比べれば私の方が」
時間もありますしね、と言おうとしたが続く木村先生の声にかき消された。
「お願いします!これはツキコちゃんと多くの時間を共にする星野さんにしか頼めないことなんです!」
木村先生は手を合わせて頭を下げていた。
そりゃ、ね。
私だってツキコちゃんの役に立てるのならなんでもしたいよ。でも所詮私はただの看護師。一人じゃ大したことはできないって、そう思ってたのに。
だけど今日、木村先生は私に頭を下げて頼んでくれた。私にしかできないと言ってくれた。
「わ、わかりました!任せてください!」
この病院にきて初めて、大勢いる看護師の一人ではなく『私』が頼られた気がした。
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