第一章 展望台

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第一章 展望台

 夜勤からの一限目は本当につらかった。  コンビニのバイトを終えると、純平(じゅんぺい)はそのまま大学に直行していた。もし寮に戻っていたら、眠たい欲求を抑えることができず、布団にもぐってしまう可能性があるからだ。そこで眠ってしまったら最後。昼過ぎまで起きることはない。  一限目は著作権法。興味のある授業なのだが、シャーペンを持ちながらこっくりと居眠りをしていた。 「著作権法第二条一項を見てください。後半の文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものとは、みなさんの感覚でわかると思います。次は前半を見てください。思想又は感情を創作的に表現したものと書かれていますが、ここが大事。著作権法で保護されるためには、創作されたものであり、かつ表現しなくてはなりません……」  先生の声は、なんて子守歌のように優しいのだろう。  純平は夢と現実の狭間にいた。  先生の説明を必死にメモするが、実際はミミズのような筆で、宇宙人の頭部のような絵を、ノートに書いていた。  どのくらい時間が経っただろうか。  机が揺れて、はっと我に返る。 「起きましょうねー」  声の先に顔を向けると、ぼやける視界の中に先生が立っていた。  純平は苦笑いをしながら頭を下げる。それに釣られてなのか、先生も苦笑いをして、黒板の方へと(きびす)を返した。  まさか、後方の隅に座っていた自分の所まで起こしに来るなんて。  ほどなく授業終了合図のチャイムが鳴る。レジュメやノートをリュックにしまっていると、横腹をつつかれて体が弓なりになった。 「おい、純平。食堂行こうぜ」  なにしやがるという顔で見上げると、(まなぶ)が立っていた。  こいつとは大学一年時からの友人である。レジュメとノートをコピーさせてくれと、隣に座っていた俺に話しかけてきたのが、学と知り合うきっかけだった。そのあとは、馬鹿話をするような意気投合の仲になる。  お互い火曜日の二限目には授業がない。毎週のことではないが、その空き時間を、たわいない会話をしながら食堂で過ごしていた。  大学三年は、大学一、二年時と異なり、勉強はもちろんだが、就職活動など新たに考えなければならないことがたくさんある。お互い忙しくなってしまい、会って笑い話をすることも、以前と比べて減ってしまった。 「おう、行こう」  純平はリュックをしょうと、学を先頭にして教室を出た。  突き当たりの階段を横に並んで下りている。 「浮かぬ顔してんね。まだ彼女のことを引きずってんの?」 「ちげぇよ。連ちゃんの夜勤で疲れてんだよ」  俺は嘘をついた。本当は、(いま)だに彼女のことが頭から離れない。  二週間前のことだ。付き合っていた彼女から電話があり、別れ話を持ち出された。突然だったので理由を訊ねると、就職活動で忙しくなるからだそうだ。  すぐ本心ではないとわかったが、俺に原因があると思ってそれ以上は聞かなかった。  思い返せば、高校二年生の時に俺から彼女に告白をした。  放課後、彼女のいる美術室まで行き、好きです付き合ってくださいと、直立不動をしながら頭を下げてストレートに言った。その日はちょうど彼女以外、他の美術部員は下校していたので、誰かに目撃される心配はなく、振られても別にいいやと思った。  だが、彼女からの返事は、いいよという耳を疑う言葉だった。  えっと頭を上げると、彼女の唇が自身の唇と軽く当たる。そのまま彼女は美術室を出ていってしまったが、しばらくは魂が抜けたように動けなかった。  そのあとは、手をつないで一緒に帰ったり、時にはケンカをしたりするなど、思い出すだけで甘酸っぱい感情がわき起こってくる。  だが、転機がやってきた。大学の進学である。  俺が合格した大学は地方にあり、通うためには地元である都心から引っ越しをしなければならなかった。当初はためらっていたが、学びたいことを優先にしてと、彼女からの説得があり決断するに至った。  遠距離恋愛でも大丈夫だよと彼女は笑顔だったが、大学生になると、お互いの時間が合わず、擦れ違いが起きるようになった。最近では、バイトやサークルで疲れてしまい、彼女への返信さえできていない。そして詰まるところ、彼女から別れ話を持ち出されたのである。  バイトやサークルを優先にしてしまった自分は、なんて馬鹿なのだろう。もちろん彼女のことは大好きだった。彼女の方が大事だった。今更このことに気がついても、覆水盆に返らず、もうどうにもならないのである。  彼女と別れると、俺は脱け殻同然になった。  夜になれば、彼女の笑顔を思い出してしまい、眠ることもできなくなる。  どうせ眠れないならと、一週間前、バイトの店長に事情を説明して、連日にわたって夜勤のシフトを組んでもらった。店長としては、連ちゃんで夜勤は労働法にひっかかるからと嫌がっていたが、頼み込むと、三年間問題なく働いているという信用から、しぶしぶ許してくれた。  体を壊しても知らんぞと店長は心配してくれたが、布団の上で、彼女のことを朝まで思い悩むよりかは体にいいと思った。  それにしても眠い。純平はあくびをかみ殺した。  階段を下り切って食堂に入ると、冗談に興じている学生で賑わっている。 「早昼にしちゃおうぜ」 「俺、ラーメン食っていい?」  夜勤終わりから水分しか取っていなかったので、純平は腹が減ってしかたがなかった。 「俺はAセットにしようかな」  学が選んだAセットとは、肉団子を中心として、スープ、サラダ、ライスのバランスの取れたメニューである。  麺系とライス系で受け取り口が異なるので、学といったん別れた。  食券を買って、ラーメンを待つ学生の列に並ぶ。  順番が回ってきて食堂のおばちゃんからラーメンを受け取る。何だかチャーシューがいつもより二枚多く入っていた。えっという顔をすると、おばちゃんのタイプだからチャーシューを多めにいれちゃったとのことだった。おばちゃんのウインクに、ありがとうございますと、がちがちになりながら感謝の言葉を述べた。  お盆を持ちながらセルフコーナーに移動する。そこでラー油をほんの少しかけて、箸とレンゲをのせた。  ちょうどよく学もやって来る。お盆にのっているAセットを見たが、やはりラーメンにして正解だった。  どこにすわろうかなと、ぐるっと見回す。別に食事をしているわけでもない部活やサークルの集団が、食堂にある椅子の大半を占めていた。  壁際の席が空いていてよかった。ラーメンをこぼさないようにゆっくりと近づき、テーブルにお盆を置くと、椅子にどかっと座った。 「いただきます」  純平は、親指と人差し指の間に箸を挟んで手を合わせた。  律儀だねと、学は純平を見て笑う。  いちいちうるせぇよと思いながら、まずレンゲでスープをすくい、一口だけ飲んでから箸で麺をすすった。 「なあ純平。幽霊が出る展望台って知ってるよな」 「もちろん。有名な話じゃん」  チャーシューを口にいれる。いつもなら麺を平らげてからチャーシューという順番なのだが、今日はプラス二枚あるので、途中に二枚食べた。 「そこってさ、本当は願いがかなう展望台らしいんだよ」 「だから?」 「そこでさ、新しい彼女ができますようにってお願いしてきたらどうよ」 「なんだよ、それ」 「お前のバイクなら一時間程度で着くだろ。実はさ、あそこって本当は幽霊なんて出ないんだよ。誰かが嘘の噂を流して、展望台に人が集まらないようにしたんだってさ」 「なんで?」 「めちゃくちゃ願いがかなうからだよ。独り占めしたかったんだって」 「ふーん」  学は、大学でオカルトを研究するサークルに所属していて、こういう類の話には詳しかった。  その幽霊が出る展望台とは、淘汰山(とうたやま)という名前の山を登る途中にぽっかりと突き出ている。昔、バイカーなどの休憩所として作られたらしいが、幽霊を見たという情報が相次ぎ、風評被害を防ぐため十年前立ち入り禁止となった。目下のところ、心霊スポットとして知られている。  俺は、引っ越しをしてから初めてこの心霊スポットを知った。もともと幽霊などを信じるたちではないが、やはり起居する寮から一時間程度の場所に、こういう心霊スポットが存在するのは、あまり気分がいいことではなかった。  時刻が正午に近づくにつれて、だんだんと学生が増えてきた。 「そろそろ行くか」 「そうだな」  純平と学は、学生でごったになる前に食堂から出ていった。  校舎の外へと出る。今日はいい天気だった。 「じゃ、三限行ってくるわ」  そう言うと、学は向かいのA棟校舎に行ってしまった。  純平は四限に授業があるのだが、何だか面倒臭くなってしまい、煙草を口にくわえながら、大学の門を足早に出ていってしまった。
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