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西郷は怯えるように、慎太郎の前に手紙を差し出し「これを読んでくれれば事情は分かるはずだ」といる表情で訴えかけた。
二人の舌戦が行われているこの場所は、薩摩所有の軍艦内の一室であり、鹿児島から長州の代表者、桂小五郎と下関にて会談を行う途中の佐賀沖海上である。
そこまで来て西郷は、突如下関での会談は行わないと中岡慎太郎に申し出てきたので、冒頭の剣幕につながるのだ。
慎太郎は西郷の懇願めいた表情を無視して、もう人吠えする。
慎太郎にも西郷の事情と、目の前に差し出された手紙に何が書かれているのかは、薄々分かっている。
が、慎太郎は目の前の大男にもうひと吠えせずにはいられなかったのである。
「アンタは鹿児島でこの船に乗るとき、下関で桂さんに会うというとウチの目ぇ見て確かに言うたがゼヨ!
そん下関はもう目と鼻の先がよ!それをアンタ!」
「中岡さぁ・・・ほんのこてスマン、じゃっどん今はいち早く上方に行かんと、幕府は明日にも長州征伐に兵を向けるつもりでおる。それをオイが行って止めんと、薩摩と長州が手を結ぶなどありえんこととなりもうす、わかってつかわさい中岡さぁ」
「そんなことは・・・」
そんなことはわかっている。と叫び散らかしてしまいたかったが、慎太郎の心の中を一人の男の心情が支配した。
すると慎太郎は、鋭い目をまた西郷に向けた。
「桂さんは、桂さんはどんな気持ちで、下関におるがかその胸にしかっと刻み込むことですな!」
長州はその前年、朝廷を巡る権力闘争に破れ禁門の変において都を追われ、朝敵のレッテルを張られていた。
その戦闘の中で、幕府軍として長州を追い払う側にいたのが薩摩であり、薩摩軍を指揮していたのが誰あろう西郷なのである。
だから、長州藩のなかには「薩摩許すまじ」の風潮が強く、藩の上層部は薩摩と手を組むにせよ、長州から頭を下げるなどもってのほかだ、との意見がつよいのである。
そこを慎太郎や、同じく土佐浪人の坂本竜馬などが近畿強く桂小五郎や高杉晋作等を説得し、桂は藩の意思に背くかたちで、下関の会談に臨んだはずであり、ここで西郷が会談の約束をご破算にしてしまえば、桂がその後藩内で窮地に追い込まれかねないのだ。
慎太郎は拳を強く握りしめ、下唇を噛みしめると西郷の目の前にその拳を突き出し、唸るようにいった。
「小舟を一つ貰います!僕一人で下関へ行く!きっと桂さんも竜さんも僕を許してはくれんでしょう!」
言い終えると慎太郎は甲板に飛び出し、一人の水夫を捕まえ、小舟で下関を目指すよう命じた。
「旦那・・・そんだ無茶だ・・・距離もあるし、馬関海峡は」
「わしは海には明るくないキ、言われても分からん、兎に角下関に行かねばならぬのだ!」
小舟は海原へ出て行った。
小舟が下関の海岸に着いたのは、慶応元年五月二十一日、今の歴でいうと六月の半ば頃であろう。
もう日が傾き、辺りは暗くなり始めていた。
膝上ほどの水面の位置で、水夫に五十文ほどの金を握らせると、ご苦労とだけいい少し冷たい海に飛び込み、そのまま前のめりに歩き、やがて砂浜に辿り着くと一度倒れ込むが、立ち上がるとすぐ前につんのめるように街を目指し奔りはじめた。
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