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クイーン
我々が消費する事に懸念と危惧を抱いた事件は過去に二度ほどあった。そのひとつがグリコ森永脅迫事件(もうひとつは原油価格高騰と中東戦争に見られる経済の変異)である。
1984年3月18日に江崎グリコの江碕社長が、犯行グループ数人によって自宅で拉致される。犯人達は犯行声明文を兼ねた身代金(10億円と金塊100キロのばら撒き)を要求したが、それから3日後、社長は保護されると云う奇妙な経緯を辿ったのがこの事件の”始まり”である。
その後、同グループと思われる何者か――かい人21面相と自称する者達によって食品への毒物混入及び、企業脅迫が相次いで起こる。企業は勿論の事、市民は不安に駆られ、数々の軽犯罪が多発し、また摸倣犯も多く出したこの事件は、多くの物証や証言などを得るも未解決のまま――かい人21面相自らが飽きたと云う理由で事件から身を退く事で幕を下ろした。
この所謂劇場型犯罪は、過去の3億円強奪事件と同じ雰囲気を醸し出しているが、その関連は不明である。敢えて宣言するが両者に関係はないだろう。ただ同種の人間――理知的で利己的、狂気的なエンターテイメント性を持っていたのは想像に難しくない。
犯人グループが事件より撤退した理由については幾つか憶測が重ねられているが、どれも仮説の域を出ていないのが現状である。株価操作による空売り・買戻しによる利益の獲得など尤もらしい仮説が挙がってはいるものの、警察関係者による捜査が行なわれていない筈もない。しかし、それが正しいと証明される事はなかった。ただ、捜査が打ち切られたその背景には被差別部落関係者が関わっていたと噂されてもいるが、こちらも仮説同様証明するものは何一つない。
○クィーン
「やっぱり良かったよねぇ!」と口火を切った真白。数分前に観賞した映画【明日の約束】の余韻に浸っているのか、表情は泣き腫らした後にも関わらず嬉々としている。
「そんなに面白かった?」
正巳は適当な相槌を返した。頭ひとつ分くらい身長の低い真白へと、気持ち顔を向け、耳を傾ける。
「って云うか、正巳は笑い過ぎ」
唇を尖らした真白は屈んだ正巳の耳を引っ張った。
「痛いって」
正巳は表情を引き攣らせる。
「痛いって」溜め息でも零すかのように、呆れた、と呟いた真白。「んもうぉ――私がどれだけ恥ずかしい想いをしたか分かってるの?」
真白の手を叩くように退かせた正巳は、耳たぶを擦りながら「何が?」と惚けた。真白は「分かってないの?」と睨み付ける。
「嘘だって、ゴメン」肩を竦め、頭を下げる。両手を合わせた正巳は弁解するもどこか開き直っている。「だから、言ったじゃん。ラブストーリーは免疫ないって」
「でも、家じゃぁドラマとか一緒に見るでしょ?」
「半ば強制でしょ?」肩を竦めた正巳は両手を広げた。少し歩調を縮め、真白に合わせる。「ながら見って奴?それに家でもツッコんでるだろ?」
正巳は純愛モノ―――所謂ラブストーリーが嫌いだった。生理的に受け付けないと言った方が良いだろうか。演者の芝居も、台詞回しも嫌いだ。小説や漫画など、ある程度デフォルメされ、想像や妄想で補う記号化された表現なら許容出来るのだが、どうも実写となるとダメだった。うそ臭い、現実の人物が演じているのにリアリティがない、と文句が口を突いてしまう。勿論、エンターテイメントとしての面白さは別だ。だが、どうもそれら気に入らない点に突っ込んでしまうと云う癖が正巳にはあった。
「そりゃ、家だからかなって」真白は少しむくれた。「映画館で、涙を零すようなシーンで失笑って―――んもぉ最低だよ」
項垂れた真白。彼女の頭を軽く叩いた正巳は、「だから前もって言ったじゃないか」と責任転嫁する。同時上映のアクションものか、サスペンスにしようと提案していた正巳。後悔しても始まらないが、流石の正巳も、館内で粛々と泣く観客から顰蹙交じりの視線を向けられた時は背筋が凍る思いをした。それなりに反省しているつもりだが、苦手なものはどうしようもない。
真白もそれは同じだ。彼女は逆にサスペンスやホラー・・・・流血シーンや暴力シーンのある作品が苦手だ。だから、彼女もラブストーリーである【明日の約束】を見ようと説得したのだ。仮にそちらを選んだら立場は逆になっていただろう。正巳のように咎められるだけならまだしも、場合によっては吐き気を覚えていたかもしれない。その点を比較すればラブストーリーを選択したのは正しかっただろうか。
「だって」
正巳は、子供じゃないんだから言い訳するのも・・・・と改めたのか急に口を噤んだ。
「何よ、反省してるの?」
「そりゃぁ―――勿論」
大きく頷いた正巳に「本当に?」と確認する真白。
「でも、面白かったでしょ、それなりに」
真白も正巳の気持ちを察し、純粋に映画の感想を尋ねてみた。
「うん」正巳は視線を気持ち上げると、眠い眼を擦りながら見届けた映画の中で印象深く残ったシーンを思い返す。だが、皮肉にもパンフレットに載っていた粗筋や、試写会でこれを観賞した有名人達の感想と重なってしまう。自分の言葉を探し、正巳は感想を述べる。「ま、メルヘンではあったね。何か女性受けしそう」
正巳はこの映画のCMで、観賞した女性の全てが泣いた、10代から30代の女性にこそ見て欲しい、なんてキャッチコピーを思い出した。館内の殆どは女性で、その何割かがカップルだった。偶々、カップルだとチケットが200円引きされる、と云うキャンペーンがあった所為かも知れないが。
「どんな所が?」
真白は詳細を聞いてきた。
「う~んっと―――」正巳はパンフレットにあった有名人のコメントを真似た。「互いに擦れ違った想いのまま、永遠に果たされる事のない約束を守るヒロインに感動しました」
序に有名人のモノマネをした正巳だったが、「似てないよ」と真白に一笑されてしまう。
「本当に?」正巳の顔を覗き込んだ真白は続けた。「正巳は『ありえねぇ~』って失笑してたけど、確かにみんなあそこで泣いてたもんね」
映画の中盤。二度目くらいの山場の事を言っているのだろうか。エンディングの方ではないのだろう。と正巳は勘を付ける。ヒーロー(男優の名前は忘れた)の遺言のような告白――或いはプロポーズだろうか、を観客にのみ伝える演出は意図したものだろう。通常、物語のオチのような部分は、文字通り最後に明かすのが常套手段だ。
だが、この映画は敢えて中盤にそれを明かす事で観客にヒロインの虚しさを客観的に理解させる。その上で感情移入させようと試みている感があった。勿論、それ以上のオチが終盤にあったが、原作を持つ映画にしては随分挑戦的な取り組みだった筈だ。
映画評論家を気取る訳ではないが、正巳はそれを高く評価している。原作である書籍は読んだ事はないが、そのような時系列ではなかった事は、パンフレットにもあった原作者のコメントからも容易に想像がつく。映画用に原作を歪めたと云う努力は素直に凄いと言えるのではないのだろうか。
「ま、アレだね」正巳は客観的な、しかも物語とは無関係な部分である演出についての感想は述べずに、映画から受けた印象を口にする。「韓流とかに嵌っている女性には・・・・如何にも純愛って感じで」
「何それ?偏見?」
真白は声を上げた。再び少しだけむくれた。慌てて弁明する正巳は言った。
「偏見って訳じゃないけど、俺にはそう云う所がないじゃん?」
真白がここ最近、韓国ドラマに嵌っている事を知っている正巳。休みの度に近所のレンタルショップでDVDを数枚借り、半日以上時間を掛けてひとつの作品を見届けるのも珍しくなかった。嵌っていると云う印象ではなかったが、どうやらかなり嵌っていたようだ。
どおりで――と納得する正巳。しかし、彼女はそう云った熱心なファン――言い換えれば狂信的且つ盲目的に韓国文化へ好感を抱くファン達とは一線を画していると思っていたのだが。と、真白を改める正巳はリビングで寛ぎながらDVDを観賞する彼女の姿を思い出していた。
「そうよね、正巳ってそう云う所がないよね。何か熱中するって事ないの?」
流石にそれは言い過ぎだ、と苦笑する正巳。確かに自分には傾倒するアイドルや好感を抱くタレント――偶像と云えば良いのだろうか・・・・そんなモノを持たないし、固執もしてないので真白の気持ちも良く分からない。
「いや、ない事はないでしょ?」
「小説とか漫画?あ、あとゲーム?それって違わない?」
真白は一刀両断にする。変に争っても、「オタクか?」と議論がずれそうなので言い返さない方が良いだろうと感じた正巳は「熱心でしょ」と軽口を叩くだけに留める。
「でもさ」と口調も新たに話題を変えようとした正巳はH通りに面した繁華街の壁に貼られたポスターに視線を向ける。真白もそれに釣られる。
「最近は純愛を謳った作品が多くない?」
書籍、アニメ、映画―――大小様々なポスターには、愛やらラブなど背筋の痒くなるような文句が綴られている。
「そう?」と疑問の声を上げる真白。視線を正巳に戻す。
確かに取り沙汰される作品は、ドラマや映画、書籍などはそう云った風潮がある。だが、エンターテイメントの中に恋愛要素が全く存在しない作品もないだろう。その方が珍しい。ただ全面に押し出してないだけではないのだろうか。何事も傾向――市場のそれに従って、消費者に届き易い言葉を、キャッチコピーを選んでいるだけだろう。と真白は思う。
そんな事を口にした彼女に「そりゃそうだ」と頷くしかない正巳。
「もしさ」真白は少し顔を伏せた。「もしよ」
「何だよ?改まって」
気持ち悪いな、と身構えた正巳は真白の次の言葉を待った。
「私が」顔を上げた真白は困惑したような印象のある、はにかんだ笑みを浮かべていた。「私が、あの映画のヒロインみたいなったらどうする?」
「有り得ない」と間を開けずに一蹴した正巳。「そもそもSF的な要素があるよ、アレわ」
「そう云う意味じゃなくて」
道端の上に逸れていたコンクリートの破片を蹴飛ばした真白。コロコロと転がったそれを目で追う正巳は言った。
「君が幸せであるのならば、俺はどんな屈辱も、恥辱も、そして陵辱さえも―――寵辱と甘受できる」片手を前に突き出し、掌を反す。「そう―――君が不幸より苦痛な事なんてない。だから、俺は耐えられるんだ。命を賭す行為だと知っていても。単なる犠牲でしかない、この善意も。全ては君の為に」
正巳は腕を懐に戻すと、得意げな表情を真白に向けた。
「プッ」小さく吹き出した真白はお腹を抱えた。「っつか、良くそんな長い台詞を覚えられたわね。渡鬼っぽい」
真白は少し感心した。だが、本当はかなり違う事に彼女は気付いていない。それぞれの単語が合っているので、雰囲気だけは似ているものの、所詮は劇中のヒーローの台詞を掻い摘んで、適当に並べただけの、正巳の善がった台詞だ。
「でも、最低」
真白は哂った。
「何が?」と尋ねる正巳の前に大きく一歩を踏み出した真白。
「だって、綾瀬は聞いていないもの」
綾瀬は劇中のヒロインの名前だ。彼女は劇中で中盤以降、ヒーローである樋口と言葉を交わしていない。真白の台詞からも分かるように、樋口は中盤で自分を犠牲にし、綾瀬の命を救っている。綾瀬の回想シーンで樋口の姿を”観客”は見る事が出来るものの、彼女は治癒の代償として”あるモノ”を失い、彼の顔は愚か、その殆どをイメージ出来なくなっているので、会話は愚か、声さえも彼女は思い出せない。その様子は知覚出来ない、認識出来ない、と正確な言葉で言い表す事も出来るが、映画の雰囲気を損なう恐れがあるのでので使うべきではないのかもしれない。
臓器移植。逆行性記憶障害。機械化。それらはこの映画で唯一と云える(正巳から見た)リアルな描写だ。そして真白が思わず「うへぇ」と嫌悪感を抱いた演出であり、正巳が素直に面白いなと思えた言葉だ。
「そうだね」
正巳は思った。しかし、動機や希望とは無関係に、それが善意であろうとなかろうと、ヒーローの遺志さえも伝わらないのでは彼の行為は偽善に頼った犠牲でしかない。最低と一蹴した真白も同じ感想を抱いたかは定かではないが、敢えて云うならヒーローのそれは”犬死”だろうか。少なくとも後のヒロインから見ればそのように言わざるを得ないのではないか、と改めて思う正巳。
「違うわ」
そう言った真白の言葉に、正巳は思考を遮られた。
「え、何?」
「綾瀬が聞いていないのもそうだけど、それで嬉しいなんて思うのは最低。感動してなかったでしょ、そこだけわ」
そこだけ?正巳は思い返す。粛々と泣く観客から向けられた視線だけが思い出される。萎縮するばかりで隣に座っていた真白の表情まで覚えていない。
「そうだっけ?」
「寝てたの?」と咎めた真白は「ま、良いけど。多分、ブッサイクな顔になってたし・・・・」と苦笑した。
「それで、何が最低?」
正巳は尋ねた。
「じゃぁ、言って」
真白が立ち止まった。彼女の数歩後を続くように歩いていた正巳も続いて立ち止まる。交差点を前に通行人と共に信号が変わるのを待つ。
「何を?」
信号が変わった。通行人達が歩き出す。向かいからも会社帰りと思しき人達も歩き出した。真白に振り返った所為で少しだけ反応が遅れた正巳もその後に続こうとする。「行こう」と一歩を踏み出した正巳の腕を引いた真白が言った。
「もし、私が人間でなくなるのを承知で、その命だけを助けようとした樋口のように―――さっきの台詞を、感情混み込みで」
「混み込みって」正巳は小さく項垂れると呆れた。神妙な面持ちになったと思ったら・・・・。「もう――何だかな・・・・」
正巳は腕を掴れたまま、真白を引っ張り、横断歩道を横切る。
「言ってってば」
少し甘い声を上げ、正巳の腕を揺らした真白は強請った。
「分かったって」頷いた正巳は彼女が何を言おうとしているのか良く分からなかったが、少しだけ期待もした。「真白が幸せになれるなら、俺はどんな犠牲も厭わない。それが苦痛だとしても・・・・耐えられる」
かなり小ぢんまりと表現した正巳。流石に真面目な顔で、感情を込めて、そんな台詞は言えない。
「最低」
真白は再びそう一蹴した。「何が?」と思わず聞き返そうとした正巳の口元に、人差し指を立てた真白は続けた。どうやらそれも質問に対する応えのようだ。台詞で返そうとしているつもりらしい。
「最低」真白は繰り返した。「私の幸せはまだ分からない。けど、不幸は知ってる。それは貴方の苦痛」
劇中でそのような遣り取りは存在しない。仮に真白が、樋口の遺言のような告白を聞いたらこのように返す、と云う設定のようだ。
真白は続ける。
「それよりも辛い不幸なんてない。だから、私の幸せはないの。そこには」
深呼吸。
真白は正巳の顔を覗き込んだ。
横断歩道を渡り終える。駅の南口が面したT通りを西に向かう。
「どう?」
「どうって・・・」
返答に困る正巳。劇中にこんな台詞があったらきっと「うそ臭い」と哂っていただろう。だが、真白が言うと少しだけ人間味があるような気がする。勿論、うそ臭い事に変わりはないが。
「ま、有り得ないかな」
頭を掻いた正巳はそう言って口を濁した。
「そりゃ、有り得ないって」真白も頷いた。「兎に角、結論として死ぬのは最低だって事」
映画の感想だろうか―――。脱線した挙句、そう締め括った真白。
「死なないって、意外と。いや、確率的に?」
「そうだと良いね」
真白が笑った。正巳も笑う。
「それでこの後どうする?」
「どうする?」
「そう――晩飯を食うだろ、取り敢えず?」
「あ、うん」
単刀直入に誘われるのかと勘違いした真白は紅潮した頬を隠すように顔を伏せる。慌てて返事を返すも少し上ずってしまう。
「お酒は?」
「えっと・・・・・甘いのが良いな。私、カクテル以外はあんまり飲めないし」
「俺よりも飲むじゃん」
「正巳は酔わないじゃん。強くないけど」
「だって、気持ち悪いし、マズイし」
アルコールが嫌いな正巳は一般的に酔うと云う感覚を経験したことがない。どちらかと云えば二日酔いから始まると云う感じだ。身体の反応は鈍るものの、理性レベルはあまり変わらない。その為かなり不愉快な酔いを味わうだけなのだ。
「でも、私としてはありがたいな。酔ってもちゃんと介抱してくれるし」
真白はT通りに軒先を並べる店舗のウインドウを覗く。一方で正巳はこの辺りにある飲食店を頭の中でリストアップする。正巳はリストの中から創作料理を出す和食の店を選んだ。カクテルも出してくれるし、少人数で飲食を前提とした小ぢんまりとした雰囲気も良い。個々の座席が壁で遮られているので、静かな上にムードもある。しかし、以前雰囲気に酔った真白はそこで飲み過ぎ、吐いている。それを思い出した正巳は「たまーに吐くのを除けばね。介抱なんて問題ないって」と皮肉を零した。
「ぅもう!」真白は眉間に皺を刻んだ。頬を少し膨らませ、唇を尖らす。「そーゆー事は言わないのが礼儀ですぅ」
むくれる真白を一笑し、適当にあしらった正巳は言った。
「行くよ、お店は○○で良いよね」
「あそこって・・・・」思い出した真白。「だから、吐いたって・・・・―――もう、最低」
「でも、美味いだろ。あそこ?」
「うん」と頷いた真白は、正巳の腕を取った。胸の間に挟み、抱くように腕を添える。「お腹、空いたね」
正巳は「はいはい」と頷くとT通りを真白を引き連れて進む。
途中にあったコンビニ。視界の端でふと捉えた真白。店員と本棚の雑誌を立ち読みする客2人の姿が見えた。
「寄ってく?」
コンビニに視線を向ける真白に気付いた正巳が尋ねる。首を横に振った真白。
「ううん・・・別に」
◇
コンビニではもうひとりの客が居た。本棚で雑誌と週刊誌を立ち読みをする2人を横目に、壁一面の冷蔵庫を物色していた。ガラス戸を開けて、下の方に置かれていた500mlのスポーツドリンクを手に取る。特に興味はなかったが、含まれている栄養素――ミネラルなどを確認した。
扉を閉めて、ペットボトルを片手にレジへと向かう。店内の清掃をする店員がひとり、棚の向こうに。レジスターの前にひとり。おでんの湯気に少し食欲をそそられる。だが、少し薄味が気になる。
「いらっしゃいませ」
カウンターに置かれたペットボトルを手に取った店員がバーコードをスキャナーで読み取る。画面に表示された値段を告げる前に「袋は要らないです。このままで」と客は告げた。軽く掲げた手で袋を取ろうとした店員を制した客はカウンターの上に小銭を置いた。
「ありがとうごいざます」
小銭を数えた店員が同額をレジスターに打ち込む。チンと小気味の良い音と共にレジスターが開き、小銭の詰まったキャッシャーが飛び出す。
ペットボトルを手に取った客は、店員から千切ったレシートとつり銭を受け取る。もう一度「ありがとうございました」と頭を下げる店員を一瞥した客はコンビニの外に向かう。ペットのボトルの蓋を握り締め、早速開封する。喉が渇いていた。熱いくらいに―――とまでは思わなかったが、無性にジュースが飲みたかった客はスポーツドリンクを口に含んだ。
焦っていた所為か、期せずして溢れたゲップとは凡そ空気が漏れたとは思えない、下品で汚らしい音と共に彼女の唇を汚した。「やだ、恥ずかしい」と慌てて口元を隠した掌に当たる熱い吐息は自分でも驚いてしまうほど熱を持っていた。口元を隠した序に、その掌で唇を拭いた彼女は、そこに付着する赤いものに目を見張った。
「何、これ?」
掌を目の前に掲げた彼女は、続いて沸き起こった胃酸混じりの嗚咽で軽く嘔吐いてしまい、そのまま人生で初めての吐血を実感する。胃袋を焼き、喉を裂くように競り上がって来たそれらは吐しゃする感覚とは違っていた。喉を焼くような鋭い痛みこそあったが、それほど大きな抵抗感もなく血が溢れ出てきた。喉から?それとも胃袋から?兎に角、食道の全てがヒリヒリと痛んでいるような気がする。下品な話―――下痢でお腹を下し、水っぽいまま排泄してしまった後の余韻に似ていた。
◇
物語とは何か?エンターテインメント性を無視すれば、それは客体によって補完される言葉であり、キャラクターに依存しない構造体と云える。言い換えれば、キャラクターを中心に起きる物語は殆どないと云う事だ。あくまで登場人物は記号であり、目印のようなモノ。物語を決定するものではなく、物語の中で消費されていくだけの存在だ。
2人の主人公が登場する話があったとする。
だが、その人生が、著者の描く物語を演出する為に生活する必要はないし、関わる義務もない。リアルな世界で、自分がどれほどの価値があるのかを考えてみればそれは明白だろう。
システムとしての社会に於いてそれら矮小な存在は大なり小なり必要とされているのかも知れないが、歴史と云う物語に於いて個々人の存在は刹那の瞬きよりも脆弱な記号でしかない。彼らもまたエキストラのように名前のないキャストと同じ側面が、属性がある。
では、事件が起きる場合はどうだろうか。
リアルな世界で、自分が大きな事件に巻き込まれる確率が低いように、横切った通行人の中に犯人がいようと、映画館の中で顰蹙を送った客の中に別の物語を紡ぐキャラクターがいようとも、主人公達の生活に大きな支障は生じないのではないだろうか。
この国で、日にどれだけの人間が殺され、生まれ、傷つき、壊れていくのか・・・・数字上で見れば身近かも知れない。だが、このような事象は数学的な統計や分布に依存しない。だから、主人公が描かれる物語と無縁であっても問題はないのだ。
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