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デッサン
夕方の美術室。放課後の教室を満たす静かな空気。生ぬるいけど、少し優しい日差しを浴びる彼女は窓際に腰掛けながら僕のデッサン作業を観賞していた。
「うまいじゃん」
画板を不意に覗き込んできた彼女に気付いた僕は、慌てて額縁の前に立ち塞がった。
「何よ、隠す必要ないでしょ?そんなに上手いんだから」
ぶぅ――と唇を尖らせた彼女は少し前屈みのまま、僕を睨みつけたままステップを刻みながら少し後退する。
「上手くなんかないよ」
僕は溜め息を零す。額縁から少し外れた画板の位置を直しながら僕は床に落ちた鉛筆を拾う。
「謙遜?私から見ればそれは腹立たしいのですが?」
眉間に小さな皺を刻んだ彼女は仰々しいまでに肩を竦める。
「先生だって上手いって言ってたじゃん」
「・・・・・見たものを描くのは簡単なんだよ」
僅かに擦れた箇所を確認するように僕は指を走らせる。
「簡単って・・・・・私はそれさえも出来ないんだけどなぁ」
美術室の後ろに置かれている額縁の並びを振り返った彼女は自分の描いたデッサンの歪みに辟易する。
「どうも直線が多い絵だと目立つのよね。何か歪みがさ」
「そうかな?僕は気にならないけど」
僕は個性を隠す事もなく、癖を充分なまでに理解して描く彼女の絵が好きだった。
「褒めてるの?だったら、もう少し慎ましい態度とデッサンを前に言ってもらいたいな」
彼女は再び僕のデッサンに視線を向ける。
「今度のコンクールには出すの?」
「これを?」
僕はデッサンの擦れを確認し終えると、それに修正を加える。
「そうそう。先生も出せって言ってたじゃん。今度こそはって」
今度こそは――か、と僕は深い溜め息を零して口角を上げる。何度も推薦されながらもコンクールに作品を提出した事のない僕を、部員は皆奇異な視線を向けている。客観的に上手いと言われるような絵を描く事が出来ても僕は納得が出来ないのだ。皆はそれを完璧主義者だ、ナルシストだ、変態か?と揶揄する事も多かったが、落選するのが分かっていて応募するのが嫌だ、と云うのが正直な気持ちだ。
「だから見たまんまを描いたって、それは写真と同じじゃん。絵だからこそ見せる雰囲気ってモノを僕は描きたいんだ」
「高望みじゃない?」
彼女は小さく吹き出す。
「推薦されるだけでも名誉じゃん。私なんか先生に『お前の目は節穴か?』なんて訳のわかんない言葉で貶されているって云うのにさ」
貶されていると口にしている割りに彼女の態度は飄々としていた。気にしていない、或いは慣れた、と言いたげな・・・開き直ったとも取れる彼女の態度に僕は羨ましいよ、と呟いてしまう。
「羨ましいよ」
「何よ、バカにしてる?!」
彼女は腰に手を宛がって胸を張った。本当に怒っている訳ではないが、それを振舞ってみせる彼女は笑っていた。
思わずその剣幕に身体を萎縮させた僕はそんなつもりじゃないと慌てて否定する。
「そんなんじゃないって。ただ―――個性的な絵を描けるのが羨ましいって」
「それをバカにしてるって云うのよ」
僕に詰め寄ってきた彼女は鼻先に指を突きつける。
「違うよ!」僕は珍しくも声を上げた。「好きなんだよ!」
口を突いて出た言葉を撤回するように、僕は慌てて口元を手で覆い隠す。何を言ってるの?と云った様子でキョトンとする彼女に僕は弁解と弁明の言葉を並べた。
「違うって、そうじゃないって。だから、その絵がさ。個性があって、それを抑え付ける訳でもなく、自由にって云うか、何って云うか・・・・だから、絵が好きなんだ」
何を好きだと言っているのか、自分でもわからなくなる。本当に彼女の絵が好きなのに、これではまるで彼女自身が好きだと言っているようだった。自分で聞いていても恥ずかしくなるような言い訳を、彼女が笑わない訳がなかった。当然のように大声を上げて、お腹を抱えて、可笑しいと搾り出す彼女は僕の肩を叩いた。
「可笑しい―――・・・・マジ可笑しい」
腹が捩れると言いたげな彼女の態度に僕は目のやり場と、気持ちのやり場に困る。恥ずかしいと云う気持ちを伝えるように表情は硬くなり、頬は赤くなり、額は熱を持ち始めていた。
そんな僕の姿に気付いた彼女は度が過ぎたと反省でもしたのか、僅かに濡れた瞳を擦りながら大丈夫だと言った。
「大丈夫よ。私も好きだから」
可笑しそうに笑う彼女が何を好きだと言ったのか、僕には良くわからなかったけど、何故かコンクールに応募しようと云う決心がその時についたんだ。
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