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一
「雨、やまへんなぁ」
ナァ、と鳴く声。
「きみ、いつも雨のときに来はるなぁ」
ンナァ、とまた鳴く声。
「……やっぱり、きみ、織なん?」
ンナァァと三度鳴いて、その白猫はじっとわたしをみた。ここ三ヶ月くらいの、おかしな現象。
雨の日に、わたしのところに現れる白猫。
弟の織みたいに賢そうで綺麗なネコ。このネコちゃんは、織にとてもよく似ている。
ちょうど一年と三ヶ月前に亡くなった、わたしの弟、織に。
【I'll Always Love You】
「さてオル、行きましょか。受付の人がそろそろ呼びに来はるやろうし」
ンナ、と返事をした白猫は、階段をスタスタとスムーズに降りた。フェンスのある通路まで来て立ち止まり、スタンドのシートから立ち上がったわたしをふり返った。
わたしは今日描いたクロッキーをもう一度確認した。走る、ボールを拾う、ボールを投げる。野球のユニフォームを着た男の子たちの動き。一瞬の動作を、何度も何度も描く。
身体の左右を均等にわける正中線を引いて、頭・腰・膝・足のアタリをざっくりとる。腰と膝と足は左右それぞれの骨格を点で捉え、それぞれを繋ぐように横軸として線を引いていく。頭、肩から腕、腰から足と、全体を素早く描いていく。時間は短い。制限時間内に、単調な線で、モデルの特徴をとらえて描く。
たとえばボールを上から投げる動作なら、胸を真横に開いてからボールを投げ、身体は正面を向く。脚は前後に大きく開いて、右脚に体重をかけるとき、右膝が上がって左膝が下がる。骨格をとらえる横軸は、水平じゃなくて傾く。振りかぶっている状態の重心は、右脚から左脚に移動する腰のあたりを意識して目でとらえる。伸びる筋肉の外側は線を強く、構えた左腕は弱く、メリハリをつけて。
“理緒ちゃん、また野球場来てるんか。こんな雨の日ぃまで。仕方ないひとやなあ”
とっくに誰もいなくなったグラウンドから、大人びたことを言う弟のそう笑う声がした。きっとすごく真剣に心配してくれているんだろう。わたしが降りてくるのを待っている白猫のスッと佇む姿が、弟の声みたいだった。
「お目目、黒豆みたいやな」
初めてオルに会ったときにそう思ってから、オルの目は何回見てもつやつやの黒豆みたいだった。織がそれを聞いたとしたら、“あいかわらず理緒ちゃんのセンスは変や”と不思議な顔をするだろう。
「あっ、しまった。このままやと濡らしてしまう」
閉じて脇に抱えたスケッチブックに、パラパラと雨の滴がかかった。慌ててビニール袋を取り出し、リュックサックへ戻す。
“理緒ちゃん、それ大事なスケッチブックやろ? こんな雨の中そのまま抱えてたら濡れてしまうやん。いくら俺の傘使わはるいうても、さすがに守ってあげれへんわ”
「せやなぁ、織の言うとおりやわ」
中学校の昇降口で、呆れていた織を思い出す。正確には、そのときわたしが持っていたのはスケッチブックじゃなくて教科書だったけど。
もうわたしよりも背が高くなって、織の肩の位置がわたしの目のあたりになっていた頃だ。雨の日は昇降口で待ち合わせして、ひとつの傘で一緒に帰ったこともあった。わたしも織も、お互いをとても好きだった。織はいつもわたしに優しかった。その優しさに、今は直接触れることができなくなってしまった。でも、ときどきこうしてわたしに降りてきてくれる。記憶のなかの織が、透きとおった心を差し出してくれる。
わたしには少し大きい傘の持ち手をギュッと握った。白猫のもとまで降りたわたしは、
「……なあ、オル?」
ネコは首を傾げて、「ンナ?」
「織は怒ってへんかなぁ? 織の傘、勝手に使うてしもうて」
「ンナァァ」
「そんな返事、怒ってるんか怒ってないんか、どっちかわかれへんわ」
“理緒ちゃん、いまさら?”
織が吹き出している。きっと織なら笑ってくれる。そんなことはわかってるのに。
織の痕跡をみつけたくて、織の名残をさがしたくて、いつまでもこんなことをしている。野球場に通って、わたしはいつまで……。
「――――――あの、」
オルがピンと耳を立てたのと、その声がかかったのは同時だった。
「もう今日は野球場閉めますって、受付の人が」
ユニフォームを着た高校生が立っていた。
*
朝比奈くん、と声に出そうとして慌てて飲みこんだ。向こうはわたしに素性が知られてないと思ってる。……素性って。
だってこのひと、学校ですれ違うときにいつもすごく気まずげにわたしを見て、すぐに目を逸らすわりに、織の月命日に必ず家の玄関先にこっそり菊の花を置いていく。もう一年くらい。
ちょうどわたしが高校二年生になったすぐの頃、お母さんが朝比奈くんがお花を置いてるところに遭遇して、家に上がってもらおうとしたら、「失礼しますっ!!」とものすごい勢いでお辞儀をしてすごくきれいなフォームでむちゃくちゃ速く走り去ってしまった。
わたしは二階の部屋の窓から、呆気にとられてそれを眺めていた。自分から名乗ったという彼の、肩からかけていたカバンに学校名と部活名と名前が印字されていて、お母さんがその名前の漢字をたまたま目にしていた。“あの子、理緒とおんなじ学校やったんやねぇ。野球部で、朝比奈 チカっていわはるみたいやわ。睦と書いて、チカ”
“睦くん……”
織と同じで、名前の漢字が一文字なのが印象に残った。
朝比奈くんは、まだ野球場に残ってはったんか。
大会の地区予選かなにかの練習を、ここから徒歩5分のところにあるうちの高校の野球部員たちが一時間ほど前までしていた。朝からごく弱い雨が降ったりやんだりだったので、練習に支障があるほどの地面の状態ではなかったらしい。わたしは彼らが引き上げたあとも、球場がまだ閉まらないのをいいことに、織の傘を差しながらスタンドに居座ってひたすらクロッキーを描いていた。モデルがいなくなったから、頭にある残像を頼りにだ。
10分ほど前から雨がまた降りだしたというのに、朝比奈くんは傘も差さないでそこにいる。受付のひとの代わりに退出時間を告げに来たらしい彼は、とても心もとなげな様子だった。でも瞳は真っ直ぐにわたしを向いている。亡くなるまえの織よりも背が高くて、目は小さめだけど鼻がすっきり通っている。顎がちょっと丸いのが、まだ少し少年っぽい。白いユニフォームもスパイクもまだ真新しかった。
「………………」
どうしたんだろう。オルは朝比奈くんを見たまままったく動かなくなってしまったし、ちょっと居心地がよくない雰囲気……。なにかを言うべきプレッシャーを感じる。
「あの……、濡れてるよ?」
「――――っオレっ!!」
……完全に会話がかぶってしまった。
雨がパタパタパタパタ、朝比奈くんの頭と肩にかかっている。野球帽のツバがそれを、ポン、ポンと弾く。斎南高校の「斎」という漢字が、黒地に臙脂で刺繍され、字の縁は白糸で囲ってある。なんであの色の組み合わせにしたんやろ、遠くから目立たんと思わへん? と織がけったいそうにしていた。織が一度も被ることがなかった帽子だ。
「……オレ、あなたのこと知ってます。今まで何も言わなくてすみませんでした。オレの名前は、朝比奈睦です。…………篠山は、ヒナって呼んでました。アイツ、ネコとかヒヨコとかかわいい動物が好きやったから、オレのこともヒナって呼んでいいかって、初めに会ったときに訊いてきて、それで、理緒さんのことは理緒ちゃんって、それもすげぇ大事そうに嬉しそうに呼んでて……、だから……」
最初は胸をしっかり張って両手の拳を握りしめながら話していた朝比奈くんは、だんだんうつむいていって、しまいには帽子のツバの前面がしっかりこちらにさらされてしまうまでになった。
「……睦くん」
朝比奈くんは、ガバッと顔をあげた。
ツバに弾かれた雨粒が、ポンと向こう側へはねた。
「わたしのほうこそ、知らんふりしててごめんなさい。菊のお花をいつもありがとう。きみが持って来てくれてはるって知ってました」
朝比奈くんは、言葉につまったみたいだった。帽子のツバを乱暴に下げて、ギュッと唇を噛んでいた。
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