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二
オレが持ちます、と頑固に言い張るので、仕方なく彼に傘を差してもらった。
朝比奈くんは、この時期なのに傘を忘れたみたいで、駅まで入れていってほしいと頼んできた。ちなみに、球場の更衣室でユニフォームから制服に着替えている。待つぶんには、わたしはぜんぜん気にしないよと言ったのによっぽど急いだのか、制服がだいぶグチャグチャだった。
駅まで7、8分の距離をゆっくり歩いた。オルはわたし達の先に立って、時々こっちをふり返る。ネコは雨の日には出歩かないと思っていたんだけど、オルは平気らしい。雨の日に場所も時間も気まぐれに現れたり、変なネコだ。
「――――このネコって、飼うてはるんですか?」
朝比奈くんが恐々と訊いてきた。
「ううん。三ヶ月くらいまえに突然ひょっこり家のまえにおったんよ。それが、不思議で……」
「不思議?」
「……うん。雨の日にしか現れへんの。だから今までを合わせても、20回くらいかなぁ……。どこに現れるかは決まってなくて、でも来たらわたしのあとを着いてくるの。それと、初めてこの子を見たのって、命日で」
「……命日って、」
「うん、織の」
「…………そうですか……」
沈黙が落ちた。朝比奈くんは痛みをこらえるみたいに目をキュッと細めた。彼は、少し先にある水たまりを鋭く見つめる。雨粒を鈍くはね返して、水たまりは揺れる。
べつに言うつもりなんてなかった。朝比奈くんは知らなくていいことだ。傷ついてほしいわけでもない。朝比奈くんは、織の姉であるわたしのことを知っている。でもわたしは知らないふりを続けてきた。お葬式の日、お寺のお堂の階段のまえで学ラン姿で途方に暮れたように立っていた彼は、でも泣いていなかった。
「あの、オレ――――」
「ね、斎南の野球部って強いんですか?」
朝比奈くんが口を開こうとして、わざと遮った。朝比奈くんは一瞬キョトンとした。帽子をかぶっているほうが大人っぽいな、と勝手な感想を抱く。野球をやっている男の子らしい、というのも変だけど野球少年らしい坊主頭だ。少年という言葉には似合わないくらい図体はデカいけど。
「えっ? あっ――――……」
「甲子園に行ったとは聞いたことないけど、今日も練習してやないですか。なにか大会があるんかなって」
「……いや、そんなんじゃないです。たんに再来週、他校との試合ってだけで。斎南は弱すぎてそんなん無理です」
「そっか……」
「はい……」
また気まずい沈黙が訪れそうになったとき、走ってきた車が水たまりを跳ねた。それをオルが避けようと、朝比奈くんの足元へトンッと軽く飛んだ。
「うわっ」と彼は驚いて、わたしのほうに一歩身体を寄せた拍子に、わたしの左肩と彼の右腕がぶつかった。弾力がある筋肉に押し返されて、わたしは不覚にもよろめいてしまった。
「あっ……、すみません!」
朝比奈くんは顔を赤くして、とっさにわたしの腕をがしっと掴んで引いた。
「……う、ううん。ありがとう。それより、朝比奈くんはネコが苦手なんですか?」
秒速……? と疑うくらいのスピードで朝比奈くんは腕を離してくれた。この一年、クロッキーをしているから彼らの腕や筋肉は観察していたけど、こんなに間近で触れる機会なんてなかった。
――――走る。ボールを拾う。脚を大きく開く。手にもって、身体を反らす。胸は真横に開いて、重心は膝を落とした左脚。腕が伸びる。体重は右脚に移動する。腕を大きく振る。上半身は前に倒れる。重心は左脚に移る、その動き……。
「ネコというより、動物全般が苦手です……。小さいときに、動物園でライオンに吠えられてから無理になりました……」
ハッとして、視線を彼に戻した。ぼんやりしてしまっていたけど、朝比奈くんは顔を赤くしたままだった。わたしは内心慌てて取り繕った。
「そんなに怖かった?」
「初めての動物園やったんですけど、トラウマになりました」
げっそり、という表情で彼はつぶやいてから、いきなり声のトーンが低くなった。
「――――篠山さんは、やっぱり動物は好きなんですか?」
「え、動物? 好きやけど……?」
どうしたんだろう、というか、やっぱりってなんのことだろう。首を傾げていると、鳴いたオルがわたしを見あげた。もうすぐ駅の改札口だった。
「あ、オル。今日もやっぱり電車には乗らへんよね? わたしは今日塾があるから、帰りは少し遅くなるよ。また家で会えるかな?」
ネコが人間の言葉を理解するのかは知らないけど、わたしはオルにいつも話しかけてしまう。オルは、また、ナァと小さく鳴いた。白い毛並みと、黒豆みたいにツヤツヤした目。とても知的な感じがするネコだった。
「……………オルって、このネコのことですか?」
「……あ、うん。そう。命日に現れて、織みたいやったから……」
朝比奈くんがそう訊いた。元気がないを通り越して、暗い表情だった。オルが不思議そうに、朝比奈くんを下から覗きこんだ。
――――オル。と、わたしはつぶやいた。
雨の日に亡くなった織は、高校に入ってからおかしな行動に出た姉を心配して、ネコになってこの世に戻ってきてくれたのかもしれない、なんて。ありそうにもなかった。でも織は、雨の日にいなくなって、雨になるとオルは現れる。
オルは、織なの……?
オルは、次の雨の日にはわたしのところに来てくれる?
次に来てくれたとして、その次は? いつまで? いつまでオルは、わたしに会いに来てくれる――――?
“明日にしたら? 雨も降ってきてもう暗いし”
“いや、クラスのやつにどうしても返さな。明日小テストやのに、その子の教科書持って帰ってきてしもうてん”
“そうなん。高校合格したのに、大変やなぁ。外寒いし、気ぃつけてな”
“真面目な子ぉなんやわ。ありがとう。すぐ帰るわ”
「理、緒さん」
「え…………?」
ふ、と回想から引き戻された。いま、朝比奈くん、わたしを呼んだのだろうか……?
朝比奈くんはあまりにも強い目で、真剣にわたしを見つめていた。なぜか急に息苦しくなって、心臓がドキドキしてきた。
「いつまで、野球場に……。いや、このままずっと、絵を描かはるつもりですか」
「えっ…………」
なにを言われたのかわからなかった。
彼は勢いよくわたしへ語った。とても苦しそうに。彼は織が亡くなったと聞いたときからずっと後悔していたと。わたしのことを気にして、わたしにずっと謝りたくて、ずっとわたしを見ていたこと。彼は謝った。
心臓がドキドキしているのが、もっと速くなってきた。雨もさっきよりバタバタと激しくなって、わたしたちの傘の下にも吹きこんできた。朝比奈くんの傘をもつ手が少しふるえている。左腕に雨がかかって、彼の手の甲に雫が落ちていた。彼は途方に暮れたみたいだった。
「朝比奈くん……?」
彼のその顔を知ってる。朝比奈くんがなにを告げようとしているのか、知っている。
織が亡くなってからのほぼ一年間、毎月欠かさず菊の花を持って来てくれた。お母さんが朝比奈くんの名前を知った日、彼がお辞儀をして顔をあげた瞬間、彼とわたしは窓越しに目が合った。彼がお花を持って来てくれる理由なんて、ひとつしかないと思っていた。朝比奈くんは泣きたいような顔をしていた。後悔、懺悔、苦しみ…………、怒り。
“理緒ちゃん、クラスの子でおもろいひといてはるねん。そいつ動物めっちゃ苦手みたいなんや。学校で飼ってるウサギに餌やんのに半泣きやったわ。かわいそうやったから、飼育委員代わってあげた”
“動物苦手やのに、そのひとわざわざ飼育委員に立候補しはったん?”
“うん。なんか、苦手を克服したい理由ができたらしいわ”
“……? 好きな子でもできたとか? 好きな子が動物好きやったとか?”
“えぇっ!? 理緒ちゃん、なんで知ってんの!?”
“は? なにが?”
「理緒さん、“織”を描いてはるんと違うんですか。篠山がユニフォームを着て、野球をやってるスケッチをずっと、描いてるんじゃないんですか……?」
――――――織。
“慕わしい”という感情を、この世界の好きなもの全部編みこんで表したような名前だと、いまはじめて思った。
織は高校生になったら野球部に入るつもりだと言っていた。クラスの子に誘われたのだと。坊主頭になるよ? とわたしはからかった。織は照れたみたいに笑ってた。
“そうそう、それなぁ……。坊主頭なぁ。でもそれくらいしか接点ないしなあ……”
“接点? なんの話?”
“あああ、ううん。なんでもない、なんでもない。それより理緒ちゃん、試合あるときは観に来てくれはる?”
“それはもちろん行くけど。それより部活のことなんか合格してから考えたら? 入試まであと十日しかないよ”
“あー……、たしかに、まず入試(それ)やんな。オレって何してるんやろ。ちょっと空しくなってきた……”
“織、さっきからどうしたん?”
“ごめん、なんでもない……。オレら、受験頑張るわ……”
“織やったら大丈夫やわ。そのクラスの子も受かるといいね”
“……ありがとう”
織は、入学するはずだった高校の制服の採寸に行くこともなく、中学校の卒業式に出席することもなかった。黒と臙脂の組み合わせに難色を示していた野球部の帽子を被ることも。だからわたしたち家族の手元には、高校生になった織を想像させるものがなにもない。
だったら創ればいい、と弟が亡くなってまだ間もないときに思いついた。
成長したら、弟はどんな姿になるだろう。背はまだ伸びるだろうか。声はもっと低くなるのだろうか。わたしに差し出してくれる、透きとおった心は、ずっと変わらないのだろうか。
わたしには、織の変わっていく姿がきっとわかるはずだと思った。だって織とわたしはそういう存在だ。織とわたしがほんとうにそういう存在なら。
「……織は野球部に入るって言ってたから。織が成長していくところを、少しは想像できるかもしれへんし。わたしやったら、わかるかもしれんと思ったから。たとえ――――」
たとえ、ネコになってわたしのまえに現れたとしても。
二ィ、とかナァとか鳴いて、オルがわたしの足首に顔をこすりつけた。しゃがんで、オルを撫でた。雨に濡れて少ししっとりしていたけど、白い毛はふわっとしていて温かくて、黒豆みたいなお目目が細くなっている。
――――織は、ここにいてくれるよね?
朝比奈くんは、打ちひしがれたように目を伏せた。
「……ほんとうに、すみません」
「朝比奈くんは、謝ったらそれでおわるつもり?」
自分でもビックリするくらい冷たい声が出た。わたしがしゃがんだ分、傘を傾けたから、彼の左腕のシャツはいまや完全に濡れていた。
「えっ……。それは、どういう、」
朝比奈くんのこと知ってたって言ったよね、とわたしは言った。
「織が朝比奈くんへ教科書を返しに行って事故に遭ったって、わたしは知ってる」
朝比奈くんは呼吸も忘れたみたいに、その場に凍りついた。
*
ふわふわとあたたかい場所にいて、ああ、これ夢や、とわかった。
学校から織とひとつの傘に入って家に帰って来たときのことや。いつまでこんなことできるかなって、いつまで仲よくいられるんかなってちょっと不安になってしまってときのこと。そうそう、ツインソウルってこのとき言ってたんよね……。
「理緒ちゃん、ツインソウルって知ってる?」
なにそれ。なんかおんなじような言葉聞いたことある。……ソウルメイト……?
「まあオレもそのふたつの区別は、よう知らんねんけどな」
知らんねんや。
「うん。せやけどな、ひとつの魂がこの世に生まれてくるときにふたつに別れたっていう設定で」
設定なんや。
「むずかしいことはよう知らんわ。でもな。一心同体の関係で、たとえば離れたところにいても、相手が嬉しかったら嬉しい、悲しかったら悲しいって感情が、自分の胸に飛び込んでくるんやって」
なんやえらいスピリチュアルやな。
「すっごい胡散くさい、みたいな顔したはるなあ、理緒ちゃん」
織がいきなりそんな話してどないしたんかと思うて。
「いつまでも一緒にいられるかはわからんけど、オレと理緒ちゃんがそうなんやったら、お互いの気持ちは離れててもわかるんとちがうかな」
“そう”って?
「理緒ちゃんとオレが、ツインソウルやったらってこと」
そんなん信じる?
「ふたりが信じてたら、そうなるんちゃう?」
――――――そう、このとき織は気持ちが沈んでたわたしを慰めてくれた。
でもわたし、そのあと身も蓋もないこと言うたんやわ……。
でも、どっちかが死んだらどうするん。って。
*
いつの間にか夢の場面が変わってた。今度は白猫のオルが、スッと佇んでた。首をちょっと傾けてポーズをとってる。
「ヒナのこと、怒らんといてあげて」と織の声がした。
――――怒ってへんよ。勝手に決着つけようとしたことに腹が立ってるだけ。事故のことは関係ないもん。
「……うん、理緒ちゃん、ごめんな……」
なんで謝るん?
「先に死んだから」
夢のなかで冗談言うんやめて。笑えへん。
うん、と織は微笑んだ。とっても悲しそうだった。
――――なんでそんな顔してるん……?
「……理緒ちゃん。理緒ちゃんがオレに逢いたいと思ってくれたときに、きっと逢えると思う」
どういう意味?
「理緒ちゃんの隣じゃなくても、そばじゃなくても、きみの近くにいるよ。オレは理緒ちゃんのことが好きやから。ずっと、きみを想ってるよ」
白猫が、ナァと鳴いてシッポを振った。
織っ!! と絶叫して、わたしは目が覚めた。
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